「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

2014・05・30

2014-05-30 06:20:00 | Weblog



今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から、昨日の続き。

「漱石の推挽で藤村は明治四十一年朝日新聞に『春』を連載して、作者としての名声と報酬を得てほとんど別人になった。
 妻の死後いくばくもなく手伝いに来ていた兄の娘、姪(二十二)と関係して子を孕(はら)ませる、それが表沙汰になるのを恐れて金を作って大正二年数え四十二でパリに渡り、姪の父すなわち藤村の兄に手紙で打ちあけ兄は姪を引きとって養女にやって事なきを得た。その間第一次大戦あり、大正五年帰京したが姪との関係は旧に復した。兄はこれには激怒して藤村と義絶したところで『新生』前篇を終っている。世間はこれを深刻なざんげとみて非難が思ったより多くないのに力を得て、あくる八年後篇を書いて完結した。
 花袋は藤村が自殺するかと案じたというが、藤村はなかなか自殺なんかしない。ついに兄は藤村と義絶し姪を台湾に住む長兄に預け、二人は宗教的新生を願って、この不倫な関係を清めるにつとめ自己の罪過の生体解剖にも似た告白によって浄化を図ったというが、これを世間が許すばかりか忘れ、その真摯(しんし)な態度にかえって感動し、次第に尊敬して今にいたったのは時代といえば時代だが、けげんといえばけげんである。
                                                    〔『諸君!』平成十ニ年十月号〕」

(山本夏彦著「最後の波の音」文春文庫 所収)

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