今日の「 お気に入り 」は 、最近ゆっくり読み進めている本「 安倍晋三回顧録 」
の一節 。
備忘の為 、抜き書き 。
引用はじめ 。
「 彼の理想は 、ロシア帝国の復活です 。プーチンは 、ペレストロ
イカ ( 国家の改革 ) やグラスノチ ( 情報公開 ) を推進し 、ソ連
を崩壊に導いたミハイル・ゴルバチョフ元大統領を失敗者として捉
えていました 。
プーチンは 80 年代 、諜報機関の国家保安委員会 ( KGB ) の一
員として 、東ドイツのドレスデンでケースオフィサー ( 工作担当
員 ) として活動していました 。そして 89 年にベルリンの壁が崩
れ 、91 年にソ連が崩壊し 、大きな挫折を経験した 。『 なぜこれ
ほどまで我が国は譲歩し 、領土を手放してしまったのか 』という
想いが 、プーチンの頭の中にはあったのだと思います 。
ウクライナ共和国の独立も 、彼にとっては許せない事柄でした 。
ソ連は 、資源の豊富なウクライナに莫大な投資をしていたし 、
ロシアになってからも 、資源開発を支援していたからです 。そ
うした経緯があるから 、国際法上決して許されることではありま
せんが 、2014 年にウクライナに侵攻してクリミア半島を併合し
たのだと思います 。世界史では 、クリミア半島は 、ロシア帝国
がオスマン帝国を破って手に入れた土地です 。プーチンにとって
は 、ひとりよがりの考え方ですが 、クリミア併合は 、強いロシ
アの復権の象徴というわけです 。
バルト三国のある大統領は私に 、『 ロシアにウクライナを諦め
ろと言っても 、到底無理だ 。ウクライナは 、ロシアの子宮み
たいなものだ 。クリミア半島を手始めに 、これからどんどん
ウクライナの領土を侵食しようとするだろう 』と述べていたの
が印象的でした 。」
引用おわり 。
昨日 今日のロシア情勢を見ていると 、ロシアの南部州 と 戦術核が配備された
ベラルーシ の2か所に 精鋭傭兵部隊が配置された 観 がある 。
改めて 北と東からウクライナを挟撃する構え 。
部下に責任転嫁し 、切るのは 、独裁者の常 。
上手の手からも水は洩れる 。
転んでもただは起きぬ 、したたかな プーチン 。
どうするアメリカ !
( ついでながらの
筆者註 :「 安倍 晋三( あべ しんぞう 、1954年〈 昭和29年 〉9月21日 -
2022年〈 令和4年 〉7月8日 )は 、日本の政治家 。位階は
従一位 。勲等は大勲位 。
内閣総理大臣( 第90・96・97・98代 )、 内閣官房長官
( 第72代 )、内閣官房副長官( 政務担当 )、衆議院
議員( 10期 )、自由民主党総裁( 第21・25代 )、
自由民主党幹事長( 第41代 )、自由民主党幹事長代
理 、清和政策研究会会長( 第10代 )を歴任した 。
生 涯
生い立ち
東京都新宿区出身 。1954年9月21日 、毎日新聞の記者
であった安倍晋太郎と妻洋子の次男として生まれる 。
弟の信夫は養子に出されたため末子として育つ 。本籍
地は山口県大津郡油谷町( 現長門市 )。父方の祖父は
衆議院議員の安倍寛 、母方の祖父は後の首相岸信介で 、
大叔父には元首相の佐藤栄作 、叔父には日本興業銀行の
頭取を務めた西村正雄がいる 。一家は渋谷区南平台町
の岸の自宅で 、岸と同居した 。
1958年5月 、父の安倍晋太郎が第28回衆議院議員総
選挙に立候補し初当選した 。幼い頃は野球選手や 、テレ
ビを見て刑事になることに憧れていた 。
学生時代
成蹊小学校3年生の1963年11月 、父の晋太郎が落選 。
このため両親は東京を離れ 、選挙区の山口県にいることが
多くなった 。安倍家は寛信と晋三に家庭教師をつけること
とした 。翌1964年に東京大学駒場キャンパスで「子ども2人
を週3回教えて9千円 、食事つき」とのアルバイトの募集を見
つけたのが 、当時東大駒場寮に住んでいた平沢勝栄だった 。
平沢は 『 駒場東大前駅からひと駅で 、しかも食事つき 。駒
場寮の食事はマズかったから 、これはいいぞ 』 と思い 、面接
を受け 、採用された 。小学5年生まで2年間 、晋三を教えた 。
成蹊中学校・高等学校卒業 。高校では地理研究部に所属した 。
成蹊大学法学部政治学科に進み 、佐藤竺教授のゼミに所属して
行政学を学ぶ 。アーチェリー部に所属し 、準レギュラーだった 。
大学へは中古のアルファロメオで通った 。
1977年3月 、成蹊大学卒業 。同年春に渡米し 、カリフォル
ニア州ヘイワードの英語学校に通うが 、日本人ばかりで勉強
に障害があると判断して通学を止め 、イタリア系米国人の家
に下宿しながらロングビーチの語学学校に通った 。1978年1月
から春季・夏季・秋季と1年間 、南カリフォルニア大学に留学
しており 、政治学の専攻ではなく講座に通学していた 。ただし
在籍はしたものの学士の資格は得ていない 。首相として訪米
中に同大学を訪問している 。
会社員時代
1979年4月に帰国し 、神戸製鋼所に入社 。本社輸出部に配属さ
れる 。1980年5月から1981年1月まで加古川製鉄所の工程部工
程課に配属された 。営業担当が受けた注文の工程管理を担った 。
そのほか 、ニューヨーク事務所 、東京本社などで勤務した 。 」
以上ウィキ情報 。 )