今日の「 お気に入り 」は 、今 読み進めている
本の中から 、備忘のため 、抜き書きした 文章 。
引用はじめ 。
「 ・・・ 甲斐は虎之助の寝顔を 、じっと
眺めていた 。おまえは仏門にはいるんだ 、
お坊さんになるんだよ 、と甲斐は心の中
で云った 。そんな幼い年で 、いちどに
両親に死なれるという 、悲しみを経験し
た 、私にはその悲しみがわかるんだ坊 、
私はおまえより小さいとき 、五つの年に
父に死なれた 、私には母があったし 、
所領もあり 、家従もおおぜいいた 、け
れども 、父のいない淋しさがどんなもの
か 、いまでもよく覚えている 。
私は父に死なれただけだが 、おまえと
宇乃は両親に死なれた 。家もなく 、た
よる親族もない 。幼いおまえにも 、ど
んなにこころぼそく 、どんなに悲しいか
は私にわかる 、と甲斐は心のなかで云っ
た 。―― けれどもそれで終るのではない 、
世の中に生きてゆけば 、もっと大きな苦
しみや 、もっと辛い 、深い悲しみや 、
絶望を味わわなければならない 。生きる
ことには 、よろこびもある 。好ましい
住居 、好ましく着るよろこび 、喰べた
り飲んだりするよろこび 、人に愛された
り 、尊敬されたりするよろこび 。――
また 、自分に才能を認め 、自分の為した
ことについてのよろこび 、と甲斐はなお
つづけた 。生きることには 、たしかに
多くのよろこびがある 。けれども 、あ
らゆる『 よろこび 』は短い 、それは
すぐに消え去ってしまう 。それはつか
のま 、われわれを満足させるが 、驚く
ほど早く消え去り 、そして 、必ずあと
に苦しみと 、悔恨をのこす 。
人は『 つかのまの 』そして頼みがたい
よろこびの代り 、絶えまのない努力や 、
苦しみや悲しみを背負い 、それらに耐え
ながら 、やがて 、すべてが『 空しい 』
ということに気がつくのだ 。
出家をするがいい 、坊 。
と甲斐は心のなかで云った 。生活や人
間関係の煩わしさをすてて 、信仰にうち
こむがいい 、仏門にも平安だけがあると
は思えないが 、信仰にうちこむことがで
きれば 、おそらく 、たぶん 。
( ´_ゝ`)
甲斐の心の呟きはそこで止まった 。仏
門にはいり信仰にうちこむことができれ
ば救いがある 、彼はそう云うつもりで
あった 。眠っている幼児を 、心のなか
で慰めようとしたのだ 。誰に聞かれる
わけでもないのだが 、やはりそう云い
きることはできなかった 。彼は眉をし
かめ 、顔をそむけながら立ちあがった 。
( ´_ゝ`)
甲斐は障子をあけて 、廊下へ出た 。
するとそこに宇乃が佇んでいた 。ずっ
とそこにそうしていたらしい 、両袖を
胸に重ねて 、身動きもせずに 、雪の
舞いしきる庭の 、ひとところを見まも
っていた 。
『 なにを見ている 』と甲斐が訊いた 。
『 あの樅ノ木に 、雪がつもっています 』
と宇乃が云った 。宇乃はこちらを見ず
に云った 。甲斐も黙って頷いた 。
樅ノ木は雪をかぶっていた 。雪はこま
かく 、かなりな密度で 、鼠色の空から
殆んどまっすぐに降っていた 。しばらく
乾いていたために 、地面はもう白く覆
われ 、庭の樹木や石燈籠なども白くな
り 、境の土塀の陰も 、雪の反映で 、
暗いままに寒ざむと青ずんでみえた 。
『 私は明日 、船岡へ帰る 』と甲斐が
いった 。 」
引用おわり 。
話の本筋には かかわりは少ないが 、大人の
事情に 否応なく巻きこまれて 、その人生に
齟齬や蹉跌をきたす 、多くの人間が出てく
る この物語 。明治36年 ( 1903 年 ) 生ま
れの作家が 、大正 、そして昭和の激動の
時代に 、自身の体験と 、人生の時々 出
会った様々な人物の人生模様が 、主人公
の感想として 、織り込まれて 、物語に厚
みを加えているようだ 。
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