今日の「 お気に入り 」は 、作家 司馬遼太郎さんの 「 街道をゆく 」から
「 三輪山 」の一節 。
備忘の為 、抜き書き 。
引用はじめ 。
「 『 この神社の名前は 、ややこしいですね 』
と 、編集部のHさんは 、杉木立の参道を歩きながらいった 。
まったくそのとおりで 、このお宮は通称 、
『 三輪明神 』
もしくは三輪神社と言われながら 、活字の上の正称 ( ? )
はそうではなく 、大神神社と書いてオオミワジンジャと訓
( よ ) ませるのである 。
人を馬鹿にしていると思うが 、しかし考えてみると 、日
本語は法則についてはきわめて厳密でない言葉で 、たとえ
ば 、
『 白 』
という漢字に 、アオというふりがなを振ってもかまわない
のである 。
いまどき国語問題の右派のひとびとが古 ( いにしえ ) を
よしとして国語の紊乱をやかましくいうようだが 、そもそ
ものむかしから日本人は国語について勝手気儘なもので 、
共同のたてまえを尊重する思想に乏しかった 。
大神という漢字を 、訓で捩じあげてオオミワなどと読ませ
たのは 、どうやら明治初年の神主さんであるらしい 。その
ように社名を作った事情と神主さんの心理を推測するに 、
こうであろう 。
まず 、明治初年に神仏分離がおこなわれたことが 、事情の
一つである 。それより以前 、平安時代に神仏混淆思想が完
成され 、明治までそれがずっとつづいてきたのがその事情で 、
天台・真言の政略感覚に長けた僧たちが 、『 日本土着の神も 、
蕃神といわれる仏教の仏も 、あれは二つのものでなく一つの
ものです 』という説を確立し 、仏教普及のために 、日本の
神に仏教的な名称をつけた 。たとえば権現というのも明神と
いうのも 、そうである 。権現とは日光サンを東照権現とい
ったように 、仏教の仏が権 ( かり ) に神の姿で現われたもの 、
という仏教語であり 、明神というのは 、諸説はあるが 、た
とえば『 陀羅尼経 』に『 当 ( まさ ) ニ神明ヲ以テ証トナ
スベシ 』といったぐあいにいわれるように 、仏教語である 。
明治は 、文化大革命期であり 、その最大なものの一つは 、
日本固有の神から仏教臭を消してしまう大運動であった 。その
ため権現や明神の呼称は廃され 、あらためて日本らしい神名もしく
は神社名をつけねばならなくなった 。従って三輪明神も 、明神
というホトケ臭い称号が廃された 。むろんこれは 、新政府の至
上命令だから 、神主さんの責任ではない 。
『 で 、どういう社名を新政府に登録しようか 』
と 、神主さんが頭をひねったと想像する 。このとき 、わが
三輪山の神主さんの心に勃然と湧きあがったのは 、千数百年の
鬱屈から来た言語的自己肥大の衝動であろう 。
その鬱屈というのは 、
『 三輪の神は 、日本の土着神の元締めでありながら 、単に大
和地方の一地方神のようにおもわれてきた 』
ということであったか 。
なるほど上古 、どこからか ( ? ) 来て大和盆地を征服した
崇神 ( すじん ) 帝は 、原住民 ( 出雲族 ) があがめていたこ
の三輪山を 、政略上これをあがめ直すことによって 、原住民
を慰撫しようとした 。中世 、この神は神殿は無くとも社格は
高く官幣大社として帝室から礼遇されたりしたが 、しかし一般
に知られることが薄く 、江戸時代にいたっては 、名所として
の全国的知名度はじつにひくい 。わずかに 、
『 大和名所図会 ( ずえ ) 』
という江戸時代の通俗地誌 ( 寛政三⦅1791⦆年編集 全六巻
七冊 ) に 、優遇とはゆかないまでも多少のスペースが割かれ
ている程度で 、それ以外には醸造業者から商神として信仰さ
れてきた程度であろう 。
その鬱屈が 、明治初期 、社名を政府にとどけ出るにあたって 、
『 大神神社 』
と書き 、オオミワと読ませる愚をやってしまったに相違ない 。
もっとも祭神が大物主大神 ( おおものぬしのおおかみ ) とな
っており 、明治以前 、大神大物主 ( おおむちおおものぬし )
の社 ( やしろ ) とよばれたこともあるようだから大神という
文字は無縁ではないにせよ 、それにしてもこれをオオミワと読
ませるのは押しつけがましい 。
『 新聞の県版でもこの社名には弱っているらしいですね 』
と 、Hさんがいった 。大神神社と書くと 、奈良県の人でも
そんな宮どこにあります 、と支局に問いあわせがくるらしい 。
三輪神社のことです 、と答えると 、ああ誤植ですか 、といわ
れることもあるという 。だからこの稿では 、奈良県人が言いな
らわしているように三輪神社と書く 。 」
引用おわり 。
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