「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

寺尾関 Long Good-bye 2023・12・21

2023-12-21 05:44:00 | Weblog

 

 今日の「 お気に入り 」は 、インターネットのフリー百科事典

 「 ウィキペディア 」掲載の記事「 寺尾常史 」から 。

  適宜抜粋して引用する 。

  引用はじめ 。

 「 寺尾 常史( てらお つねふみ 、1963年 〈昭和38年〉 2月2日 -

  2023年 〈令和5年〉 12月17日 )は 、鹿児島県姶良郡加治木町

  ( 現在の姶良市 )出身( 出生地は 東京都墨田区 )で 井筒

  部屋所属の元大相撲力士 。得意技は 突っ張り 、押し 、いなし 、

  叩き 、下手投げ 。最高位は 東関脇 。本名は 福薗 好文( ふく

  ぞの よしふみ )。 身長185cm 、体重116kg

   引退後は 年寄・錣山 となり 、井筒部屋部屋付き親方を経て 、  ( しころやま )

  分家独立し 、錣山部屋 の師匠として 指導にあたった 。角界での

  愛称は 『 土俵の鉄人 』 、『 アビ 』 、血液型は A型 、趣味は パチ

  ンコ 、音楽鑑賞 、ゴルフ 。 」

  ( ´_ゝ`)

 「 自身が生まれたばかりの頃 、井筒部屋に外国人の見学者がやって

  きて  " a baby " と言ったところ 、兄達は 『 アビ 』 と聞き違え 、

  そのまま角界での愛称として定着してしまった 。この愛称は 、愛弟

  子 『 阿炎 』 に 四股名 として名付けた 。」

  ( ´_ゝ`)

 「 来 歴

   生まれ育ったのは 父・鶴ヶ嶺 が 居宅及び部屋を構えた 墨田区

  であるが 、大相撲入り後は 父の出身地である 鹿児島県を自身の

  出身地として届け出た 。父・鶴ヶ嶺 は 厳格な人間であり 、その影

  響で小さいころから父に対しては敬語を使っていたという 。実際 、父

  は 年寄・13代井筒としても 『 何かあったら 、まず 自分の息子から

  叱る 』 としていた 。

   父は 息子達に甘くすると 弟子に示しが付かない と考えていたようで

  あるが 、体罰は 滅多に行わなかった 。 母は 寺尾曰く 『 お嬢様育ち

  なのに 、どこか 大雑把で 豪快だった 』 とのことで 、偶に 三越の特選

  売り場で 上下10万円の服を買って来て 『 こっちは 安くても数が欲しい

  のに ( 笑 ) 』 と寺尾を苦笑させた 。

   墨田区立二葉小学校 、墨田区立両国中学校 を卒業 。兄二人

  とは異なり 、小・中学校時代は 相撲に興味がなかったが 、安田学

  園高校入学後 、上級生の 嶋津慎司( のち井筒部屋の幕下・紫

  筒山 )に誘われ 相撲部に入る 。安田学園では控え選手に過ぎな

  かったが 、厳しい稽古を乗り越えて試合で勝つことの爽快感から相

  撲にのめりこむようになり 2年生の時には 一日も早く角界入りした

  いと思うようになっていた 。長兄が 次兄の入門の際に強硬に反対し

  たことから 角界入りしたいという気持ちをなかなか言い出せないでい

  た 。 しかし 、1979年(昭和54年)5月場所の千秋楽の日 、癌で

  闘病中であった最愛の母を見舞った後 長兄に突然 『 お前 、学校

  やめて 相撲取りになったらどうだ ? 』 と声を掛けられた 。その後 、

  母の通夜の晩に 父に入門の意思を伝え 、そのまま 高校を中退した

  ( 母・節子は 死ぬ間際に 『 相撲取りになって 』 と寺尾に告げてい

  た 。寺尾は 後年インタビューで 『 あのお兄ちゃんの言葉は 、おふくろ

  の置きみやげだったと思ってるんですよ 。きっと 俺の気持ちを判ってい

  て 、相撲取りにならせてくれたんだな 、って 。 』 と往時を振り返って

  いる 。 )。

   ( ´_ゝ`)

   父が師匠を務める 井筒部屋 へ兄達に続き入門し 、1979年7月    ( 16 歳 )

  場所初土俵 。母の旧姓である 寺尾 を 四股名 とした入門当初   ( しこな )

  は 三段目昇進を目標にするほど 、自身を 期待薄 と見ていた

   1984年(昭和59年)7月場所 新十両 のとき 『 源氏山力三郎 』    ( 21 歳 )

  と改名する 。源氏山 の 四股名 は 同部屋に所属した 30代横綱・

  西ノ海 が 横綱昇進直後の場所まで名乗ったものであり 、父自身も

  憧れの四股名であったことから息子に贈ったものである 。この四股名

  は 1場所限りで 、翌場所から元の四股名に戻している1985年

  (昭和60年)1月場所 で 12勝3敗の成績で 十両優勝し 翌場

  所 新入幕 。入幕時のインタビューで 『 名脇役になれればいい 。

  主役にはなれないと思うので 』 と答えていた 。6勝9敗と負け越して 

  陥落するが 翌場所も 12勝3敗の成績で 2度目の 十両優勝 で

  1場所で返り咲く 。1987年(昭和62年)11月から名を 常史    ( 24 歳 )   

  ( つねふみ )と改める 。

   初土俵の時に 85kg しかなかった体重を 100kg まで増やすため

  に大変な努力をしたという 。横になると口から食べたものが出る程

  食べ 、夜も食べ物が胃から腸に下りるまで壁に寄りかかり 、横にな

  れるのは 明け方から数時間程度という生活を 約5年続け 、100kg

  の大台に乗ったのは 1984年(昭和59年)9月場所のことである

   長兄の鶴嶺山は十両止まりだったが 、次兄の逆鉾は関脇まで昇

  進していて 、様々な 兄弟記録 を残している 。1986年(昭和61

  年)9月場所には 同時三賞受賞 、1989年(平成元年)3月

  場所には 同時関脇 を果たした 。また 1990年(平成2年)11月

  場所には 千代の富士 の 横綱土俵入り の太刀持ち・露払いを務

  めた 。

   大乃国から 1988年1月場所 、1989年7月場所 、1991年1月

  場所 、と 3個の金星 を獲得 。1989年1月場所 、千代の富士

  から 唯一の 金星 を獲得 。1991年11月場所 、北勝海 に勝ち

  5個目の 金星 を獲得するなど活躍 。1989年1月場所は 1横綱

  2大関に勝ち 殊勲賞 、7月場所も 1横綱2大関に勝ち 技能賞 、

  9月場所は 北勝海 に勝ち 敢闘賞 。1994年3月場所は 2大関

  に勝ち 敢闘賞 、5月場所も 2大関に勝ち 殊勲賞 。1995年

  (平成7年)3月場所には 横綱貴乃花 から 初の供給となる

  金星 を獲得した 。

   1997年(平成9年)3月場所には 旭鷲山戦で 右足親指を

  骨折し 途中休場 。初土俵以来続いた 連続出場記録が 1359

  で途切れた 。

   1998年頃から 怪我の影響もあるが 衰えが出始めたので 、

  35歳から肉体改造を開始 。徐々に効果が出始め 1999年3月

  場所では 、貴乃花 や 若乃花 ら 横綱と対戦できる地位まで

  番付を再度上げる 。そして 1999年11月場所では 横綱・武

  蔵丸 に勝ち 、36歳で 4年ぶり 7個目の金星 を獲得 。

   30代後半を迎えた 寺尾 の突っ張りは なお衰えを知らなか

  ったが 、力士の大型化が進んだこともあってか 2000年

  (平成12年)7月には ついに十両陥落 。周囲からは 引退

  の声も囁かれたが 寺尾は続行を決意 。翌年3月場所 、5場

  所ぶりに幕内復帰した 、38歳で 年6場所制以降では最年長

  再入幕 となった 。その場所で 輪島を抜く 、当時歴代7位の

  幕内621勝 を達成 。

   再陥落後は 昇進のチャンスもあったが 、十両上位の星運に

  泣いた 。2002年(平成14年)9月場所 、十両11枚目の地位で   ( 39 歳 )

  怪我により 3日目から5日目まで途中休場 。再出場の 6日目

  に初白星 を挙げ 、最後の相撲となった千秋楽では 小城錦

  に 勝利を決めるも 、5勝8敗2休と負け越し 幕下陥落が必至

  となり 同9月場所限りで 現役引退 。」

 「 現役時代は 相撲界では珍しい 甘いマスクと筋肉質のソップ

  体型で 、女性ファンからの人気と声援が多かった 。

   若い頃は 回転の速い上突っ張り と いなし で勝負しており 、

  その敏捷な動きから 海外公演で 『 タイフーン 』 の通称が

  ついたほどだった 。また 右を差すこともあり 、下手投げ は

  強かった 。晩年は 突っ張りの後 、父・兄が得意としていた

  両差し の相撲を取るようになった 。現役時代は 横綱を遠い

  存在と見ており 、一度も 横綱 という地位に就くことを意識

  することはなかった 。引退後は 年寄・錣山 を襲名 、井筒部

  屋の部屋付き親方 を経て 2004年(平成16年)1月 、錣山部

  屋を創設 。同部屋からは 2022年(令和4年)3月場所までに

  関脇・阿炎 、小結・豊真将 、幕内・青狼 、十両・彩 、王輝

  を出している 。」

 「 2022年11月場所 、弟子の 阿炎 が 幕内最高優勝を果たし

  た 。錣山部屋からの幕内最高優勝は史上初 。」

 「 2023年12月17日午後8時27分 、不整脈により 東京都内の

  病院で死去 。 60歳没 。寺尾の死去により 、福薗三兄弟は

  全員が死去した 。」

 「 家 系

   西ノ海(25代横綱)の曾孫(養女の養女の子供)、加賀

  錦(元幕下・本名は寺尾政喜)の孫 、鶴ヶ嶺(元関脇)の

  三男 、薩摩錦(元幕下)の従兄の孫 。井筒3兄弟 と言われ 、

  長男が 鶴嶺山(元十両)、次男が逆鉾(元関脇)、三男が

  寺尾 。また 、鶴ノ富士智万(元十両)は従弟に当たり 、元

  中日ドラゴンズ選手の 井上一樹 は 再従弟に当たる 。長男

  ( 夫人と前夫との実子 、つまり夫人の連れ子 )は 俳優の

  寺尾由布樹 、姪(逆鉾の娘)は 元宝塚歌劇団娘役の 天咲

  千華 。志摩ノ海航洋 (元幕内) は 義理の甥 ( 天咲の夫 ) 。

  夫人との間には他に息子が1人いる 。」

  ( ´_ゝ`)

 「 エピソード

  ・ 1991年3月場所 、18歳の 貴花田 と対戦 。学年で言うと 高校

   3年生に相当する年齢の 貴花田 には負けられないと闘志を燃や

   した 。立ち合いから突っ張るも 、左上手からの出し投げに続く追撃

   の押しで敗れた 。敗れた寺尾は 、さがりを叩きつけるなど 悔しさを

   露にした 。引退直後の会見で 、『 今まで一番悔しかった取組 』 と

   して この一番を挙げた 。それでも寺尾は 引退後に 『 あの悔しさが

   あったから長く相撲が取れた 』 と語っている 。

  ・ 1999年 、破竹の勢いで上がってきた 「 20世紀最後の怪物 」 こと

   雅山 との 14歳差対決 が話題になった

  ・ 同じ昭和38年(1963年)生まれ( 但し 、学年は 寺尾 の方が

   1年上 )の 「 花のサンパチ組 」 で良きライバルだった 、元横綱 北

   勝海・元大関小錦・元関脇琴ヶ梅 の 引退相撲 では 、異例とも

   言える 最後の取組相手 として指名され 、寺尾は それぞれ3人の

   力士と土俵に上がり勝負していた 。

  ・ 高所恐怖症で( 兄の逆鉾も同様 )、飛行機に乗るのも苦手

   だった 。しかし 部屋設立後は 新弟子集めの移動のために 飛行

   機嫌いを克服 。今や航空会社のマイレージ集めが趣味となって

   いるらしい 。阪神タイガースファン として知られ 、野球中継のゲス

   トを務めたこともある 。プロレスラーの高田延彦との親交が深い 。

  ・ マスコミに対して好意的であり 、普段は寡黙ながら ユニークな人

   柄を買われ 、テレビのバラエティ番組に度々出演している 。

  ・ 現役最後の場所となった 2002年9月場所の12日目 、元関脇

   貴闘力 と十両の地位で対戦したが 、寺尾に敗れて 負け越し

   幕下陥落が確定的となった 貴闘力 は 、その日限りで現役引退

   を表明 。その取り組み後には 、寺尾が 土俵上で 貴闘力の肩を

   そっと叩き 、互いの労をねぎらうというシーンが見られた 。また 同じ

   関脇同士ながら 栃司 には圧倒的に強く 、幕内昇進前も含め

   13戦全勝 と一方的に勝っている 。

  ・ 現在 、関取在位110場所( 昭和59年7月〜平成14年9月 )

   は 魁皇 と 安美錦 の 117場所 、旭天鵬 115場所 に次ぐ 史上

   4位 。また 幕内在位93場所 も 魁皇の107場所( 平成5年5月、

   平成5年11月〜平成23年7月 )、旭天鵬の99場所 、高見山

   と 安美錦 の 97場所に次ぐ史上5位( 寺尾の引退直後は 当時

   史上2位 )の記録である

  ・ ファミコンゲームソフトに 『 寺尾のどすこい大相撲 』( ジャレコ 、

   1989年 )がある 。

  ・ 新十両の時に 1場所だけ名乗った 『 源氏山 』の 四股名 である

   が 、日本相撲協会の番付表と星取表では 『 氏 』の字の3画目

   の横線の右に( 氏ヽ )の様に 点が付けられていた 。本来はその

   様な漢字は存在しないので極めて異例である 。

  ・ 舞の海の解説に対しては 大抵の親方がいなしたり 流したりするが 、

   寺尾は理論で攻めて張り合うため このコンビは NHK大相撲中継の

   名物となっている 。

  ・ 捌いて勝つ相撲には 『 後手に回るから 』と批判的であり 、立合

   いから 能動的に攻め込む相撲が理想 と主張している 。

  ・ 『 人様から預かった弟子を糖尿病にして帰す訳にはいかない 』 とい

   う考えから 、部屋では 菓子とジュースを禁止にしている 。見つけたら

   即刻捨てる徹底ぶりで 、ある時は 冷蔵庫に10本程度あった炭酸

   飲料やジュースを流しに捨てては 『 ジュース 弁償してやるから出て来

   い ! 』 と弟子に名乗り出るように呼び掛けた 。

  ・ 『 横綱から序ノ口に至るまでの全力士に期待している 』 というのが

   本人の考えで 、ある時 外部の要人が 『 序ノ口なんて客もいないし

   拍手なんて起きないじゃないか 』と口走った際に 、当時審判部に

   入っていた 錣山 は はっきりと 『 そりゃあお客さんの数は少ないけれ

   ど 、序ノ口でも一生懸命いい相撲を取ったらお客さんはすごい声援

   を送ってくれるんです 』と言い返した 。

  ・ 2015年に旭天鵬に破られるまでは最多記録となる 通算938敗 の記録

   を持っていたが 、これについては 生前 『 むしろ 、誇りだよ 』

   『 負けが多いのは 、それだけ関取で長く取れたということ 。若い衆

   だと 、1場所全敗しても 7敗だから 』 と語っていた 。」

   引用おわり 。

   ( ´_ゝ`)

  合掌 。

   ( ´_ゝ`)  。。

  ( ついでながらの

    筆者註:「 鶴ヶ嶺 昭男( つるがみね あきお 、1929年4月26日 - 
        2006年5月29日 )は 、鹿児島県姶良市( 旧:姶良郡
        加治木町 )出身で 井筒部屋( ただし 初土俵は時津風
        部屋名義 )に所属した 大相撲力士 。最高位は西関脇
        ( 1956年5月場所・1962年9月場所 )。 得意技はもろ
        差し 、右四つ 、寄り 、上手出し投げ 。現役時代の体格は
        177cm 、114kg 。本名は 福薗 昭男( ふくぞの あきお )。 」

       「 三兄弟の母親に当たる妻・節子は 、『 蔵前小町 』 と呼
        ばれるほどの美人であった 。節子の父( 井筒部屋の元幕下・
        加賀錦 )は 相撲茶屋 『 吉か和 』 の元締役を務め 、鶴ヶ
        嶺と節子の仲人を務めたのは 師匠の 時津風 であった 。
        節子は 時津風を 『 おじちゃま 』 と呼ぶなど親しい仲であった 。
         1973年に 両国2丁目に構えた君ヶ浜部屋は 、元は節子の
        実家のあった場所である 。節子は 生前三兄弟からも大変
        に慕われており 、それだけに 三兄弟は 自身と後妻との内縁
        関係を受け入れられず 、結局 晩年は 『 お袋を裏切った 』 と
        三兄弟から責められ続けたという 。」

       「 節子の最期を3人の息子が看取った際 、すでに力士であっ
        た長男と次男には 『 おまえらお客さんいるんだから( 病院か
        ら )帰れ 』 と言い聞かせた 。 」

        以上ウィキ情報 。

         十両以上の力士を 関取 という 。大関 、関脇 の 「 関 」 。
        力士の四股名につけて 「 寺尾関 」 と言うように 、敬意を
        込めて使う  。

         できる最大の限度 、精いっぱい という意味の 「 関の山 」 
        なんて表現が 日本語 にはある 。
        「 これくらいが 関の山 だ 」 というように使うけど 、お相撲
        とは 関係なさそう 。三重県の 「 関 」 という町にある八坂
        神社での祭礼の 「 山 」( 関東でいう 「 山車( だし )」
        のこと )がたいへんりっぱで 、それ以上の豪華なものは望
        めないといわれたのが語源で 「 関の山 」 と言うんだとさ 。
 )

 

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