「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

播州揖保川・室津みち Long Good-bye 2024・11・08

2024-11-08 06:57:00 | Weblog

 

 

  今日の「 お気に入り 」は  、司馬遼太郎さん の

 「 街道をゆく 9 」の「 播州揖保川・室津みち 」。

  今から50年ほど前の1976年の「週刊朝日」に

 連載されたもの 。

 備忘のため 、数節を抜粋して書き写す 。

  引用はじめ 。

 「 播州については『 播磨灘物語 』を書いている
  ころ 、あちこちとあるいた 。
    もっともこの小説は 、主として東播の三木や西
  播の姫路付近が舞台だったので 、歩くについて
  も 、ついそのあたりにかぎられた 。たとえば
  因幡(いなば)とのさかいにつづく宍粟(しそう)郡
  の山崎までは行っていない 。
   そのころ 、山崎に行っていないことが絶えず気
  になっていた 。」

 「 山崎は 、三木や姫路のように播州平野の真只中
  にある集落ではない 。因幡や但馬(たじま)の山
  なみが播州の宍粟郡にまで南下し 、山崎で尽き
  る 。山崎という地名は 、京都府の山崎もそうだ
  が 、おそらく山なみの先端という地勢から出た
  ものに相違ない

  『 播磨灘物語 』という小説は 、西播の土豪だっ
  た黒田官兵衛が主人公になっている 。かれは 、
  父祖以来の城として姫路城を持っていたが 、その
  後徳川期にできた姫路城からみれば 、屋根なども
  わらや板などでふき 、石垣もほとんど用いず 、
  堀を掘った土を掻きあげて土塁にした程度の 、い
  わば小屋同然といっていいほどに規模が小さかっ
  た 。
   織田勢力が播州まで伸びたときに 、播州の大小
  の勢力はこれをきらい 、毛利・本願寺方についた
  が 、官兵衛は四面ことごとく敵という政治的惨境
  のなかにあって織田方に与(くみ)し 、信長の代官
  である羽柴秀吉に属するという思いきったカード
  を選んだ 。中世末期の人としての官兵衛のおもし
  ろさはこのことにすべてを賭けて 、たじろがなか
  ったことである自分の個人的信念をあくまでも
  持しぬくという点では 、日本の歴史のなかではめ
  ずらしい存在といっていい 。かれは自分の累代の
  居城である姫路城まで秀吉にくれてしまい 、かれ
  自身は住まいがないまま 、家族と家臣をひきい 、
  姫路の北方十里の山里である山崎に移った 。自分
  の賭けに対するこれほど思いきった忠実さとか 、
  あざやかな見きわめといった感覚は 、ひとつには
  官兵衛の祖父が商人( 目薬の委託販売 )であった
  ことからも来ているといってよい 。この点 、かれ
  は江戸期の武士や文人よりはるかに強烈な合理主義
  をもっていたといっていい 。」

 「 私は官兵衛が一時期居城とした山崎の土地に行っ
  てみねばと思いつつ 、ついに行かなかった 。か
  つて姫路へ行ったとき今度こそは行ってみようと
  想い 、タクシーの運転手に所要時間を聞いてみる
  と 、思ったより長い時間だったため 、どうも体
  力に余裕がないと思い 、やめた 。そういうまわ
  りあわせになっている土地が 、私には幾つかある 。
   この須田画伯との旅で 、播州山崎へ行ってみよ
  うとおもった 。」

 「 山崎の盆地には 、北方の山間部から幾筋かの川
  が流れこんでいる 。それが盆地で合流して揖保(い
  ぼ)川になり 、大きく南流して播州平野を沾(うる
  お)しつつ播磨灘にそそぐ 。途中 、脇坂氏の旧城
  下町の龍野を洗ってゆくのだが 、海へそそいでい
  るあたりに 、日本でもっとも古い舟泊(ふなどまり)
  である室津(むろつ)がある 。このために 、この稿
  の道中は 、山崎から出発することにした 。以下 、
  川に沿って龍野の古格な町を経 、室津に出 、その
  あたりに鄙(ひな)びた宿でもあれば泊ろうとおもっ
  た 。」

  引用おわり 。

  語りの名人の達意の文章 。

  (⌒∇⌒) 。。

 ( ついでながらの

   筆者註:「『播磨灘物語』(はりまなだものがたり)は 、
       司馬遼太郎の歴史小説 。1973年5月から1975年
       2月にかけ 、『 読売新聞 』に連載された 。

        豊臣秀吉の軍師として知られる黒田官兵衛( 孝
       高 、如水 )の生涯を描く。友人として竹中半兵
       衛も描かれる 。」

       以上ウィキ情報 。)

 

 

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小作争議 Long Good-bye 2024・11・06

2024-11-06 06:11:00 | Weblog

 

 

  今日の「 お気に入り 」は  、司馬遼太郎さん の

 「 街道をゆく 9 」の「 潟のみち 」。

  今から50年ほど前の1976年の「週刊朝日」に

 連載されたもの 。

 備忘のため 、数節を抜粋して書き写す 。

  引用はじめ 。

 新潟市の東方にある豊栄(とよさか)市は 、国道ぞ
  いだけが 、とりとめもなく都市化している
   国道から 、木崎という旧村へゆくべく枝道に入る
  と 、昔ながらの田園がひろがりはじめる 。昨夜降
  った雨があちこちに溜まって 、日射しをはねかえ
  したり 、樹影をうつしたりしている 。村内に入る
  と 、道は水をたっぷりふくんでいて 、スポンジを
  踏むような感がある 。
   木崎村は亀田郷とおなじ低湿地だが 、亀田郷のよ
  うにいかにも超現代的共同体というような基盤や自
  治的規制をもたないために 、どこにでもある都市
  近郊農村のように 、集落としての景色も秩序美も
  もっていない 。」

  (⌒∇⌒) 。。

 「 木崎村というのは 、大正末年 、ここに大規模な
  小作争議がおこったことで有名である 。結局は法
  廷でやぶれたが 、争議期間が長かったことと 、争
  議が整然と運営されたこと 、当時としてはめずら
  しく県外から有力な応援者が駆けつけたことなど
  で 、大正期に頻発した小作争議のなかでは一つの
  典型として記憶されている 。」

 「 当時の幹部で 、今なお元気な人がいるという 。」

 「 明治二十六年うまれの池田徳三郎氏だという 。」

 「  池田翁は 、
  『 木崎村は 、江戸時代はみな自作農だった 。明治
  になってから小作農になった 。』
   私のほうをむかず 、在来 、話し馴れている村の人
  のほうをむいていった 。この人の叙述の仕方はじつ
  に明晰で 、木崎村をはっきりと客観的に対象化して
  とらえている 。『 私は 』と 、途中で翁がいうの
  に 、
  『 はずかしいことだが 、尋常 ( 尋常小学校のこと )
  も 、六年上(あが)ればよかったのに 、四年しか行
  がねえ 』
   だからうまく言えねえが 、という 。しかし 、叙述
  の的確さは 、なまじいな研究者から物をきくよりも
  みごとなものがある 。
  『 宝暦年間( ほぼ一七五〇年代 )から
   と 、簡潔に村史をいう 。宝暦年間というのは江戸
  期でももっとも充実した時期で 、『 仮名手本忠臣
  蔵 』の作者竹田出雲の晩年であり 、蘭学者杉田玄
  白 、思想家の三浦梅園 、安藤昌益 、医家の山脇東
  洋などの活動期でもあり 、また大岡裁判の大岡越前
  守が最晩年をむかえたころでもある 。そのころから
  この湛水地にひとびとがやってきては 、土を投げこ
  んで稲を植えた 。
  『 ・・・ やってきた者たちが 、芦のはえたドブハ
  ラを耕して自分の田を自分でつくってきた 』
   その作業を子や孫が継ぎ 、江戸期いっぱいそれを
  繰りかえして明治を迎えた 。」

  明治維新直後 、太政官の財政基礎は 、徳川幕府
  と同様 、米穀である 。維新で太政官は徳川家の直
  轄領を没収したから 、ほぼ六百万石から八百万石
  ほどの所帯であったであろう 。
   維新後 、太政官の内部で 、米が財政の基礎をな
  していることに疑問をもつむきが多かった 。
  『 欧米は 、国家が来期にやるべき仕事を 、その
  前年において予算として組んでおく 。ところが
  日本ではそれができない 。というのは 、旧幕同
  様 、米が貨幣の代りになっているからである 。
  米というのは豊凶さまざまで 、来年の穫れ高の予
  想ができないから 、従って米を基礎にしていては
  予算が組みあがらない 。よろしく金(かね) を基礎
  とすべきであり 、在来 、百姓に米で租税を納めさ
  せるべきである 』
   明治五年 、三十歳足らずで地租改正局長になった
  陸奥宗光が 、その職につく前 、大意右のようなこ
  とを建白している 。武士の俸給が米で支払われる
  ことに馴れていたひとびとにとっては 、この程度
  の建白でも 、驚天動地のことであったであろう 。
   が 、金納制というのは 、農民にとってたまった
  ものではなかった
   農民の暮らしというのは 、弥生式稲作が入って
  以来 、商品経済とはあまりかかわりなくつづいて
  きて 、現金要らずの自給自足のままやってきてい
  る 。『 米もまた商品であり 、農民は商品生産者
  である 』というヨーロッパ風の考えを持ちこまれ
  ても 、現実の農民は 、上代以来 、現金の顔など
  ほとんど見ることなく暮してきたし 、たいていの
  自作農は 、米を金に換えうる力などもっていなか
  った 。」

 「 どうすれば自作農たちが金納しうるかということ
  については 、政府にその思想も施策も指導能力も
  なにもなく 、ただ明治六年七月に『 地租改正条
  例 』がいきなりといっていい印象で施行されただ
  けである 。
   これが高率であったこと 、各地の実情にそぐわ
  なかったことなどもふくめて 、明治初年 、各地
  に大規模な農民一揆が頻発するにいたるのだが 、
  木崎村はこのときには一揆をおこしていない 。
   池田翁の話ではただ仰天し 、とても納める金な
  どない 、ということで 、金納の能力をもつ大地
  主をさがして 、
  『 安い金で買ってもらったんです 。地主に金納
  してもらい 、自分は先祖代々耕してきた田を依然
  として耕し 、以前 、藩に米を納めたように 、地
  主に物納してゆく 。つまり 、小作になったわけ
  です
   と 、池田翁はいう 。全国的にその傾向があり 、
  これによってどの府県でも圧倒的な大地主という
  のはこの時期にできあがるのだが 、その間のこと
  を 、池田翁のように父親からなまに聞いてきた人
  が肉声で言うのを聴くのは 、ちょっと凄味があっ
  た 。」

 「 この消息を 、池田翁は 、やや諧謔をこめて 、
  『 地主だって 、小地主はそう田地を持ちこまれ
  ても 、金納の能力はない 。そこをなんとかお願
  いします 、といって 、酒や赤飯を持って行って
  ただで引きとってもらった例も多いんです 。そう
  いうぐあいにしてみな小作になった 』
   やがて小地主も倒れてゆき 、大地主だけは膨れ 、
  明治政府は大地主から得た金で財政をまかなって
  ゆくのだが 、大正期になると 、小作農は暮らし
  の苦しさと政治意識の自覚が高まって 、各地に
  小作争議が頻発する 。」

 「『 争議のきっかけは 、はっきりしていないが 、
  大正十一年にスガイ・カイテン翁がやってきて 、
  各部落に小作組合ができた 』
   以後 、話の中でしばしば 、スガイ・カイテン
  ( 須貝快天 )翁という名が出たが 、池田翁はこ
  の名前を発音するたびに微妙な懐かしさを籠めた 。
  川瀬新蔵著の『 木崎村農民運動史 』では 、カ
  イテン翁については 、『 北越農民運動史のリー
  ダー 』とあるのみでこの名前は一ヵ所しか出て
  いないが 、池田翁はカイテン翁がおそらく好き
  だったにちがいなく 、勢い 、その生い立ちに
  まで触れはじめた 。( 後 略 )」

 「 池田翁は 、話術の名手といっていい 。話が外
  (そ)れたりもどったりしつつも しん が通って
  いる 。話が外れるのも当時の人情を語るためで 、 
  話全体が 、絵でいえば明治の錦絵の描法のよう
  でもあった 。」

 「 この争議のヤマは 、裁判だった 。
   大正十二年五月 、地主の真島家が小作人十二人
  に対し 、小作料未払いを理由にその請求のための
  訴訟を新発田区裁判所に提起した 。つづいて同十
  三年三月 、同家は小作人六十余人に対し 、小作
  米未納を理由に仮処分の申請をし 、新発田区裁判
  所によって受理された 。
   このことについては 、川瀬新蔵氏の『 木崎村農
  民運動史 』には 、

  父祖伝来愛着の土地に『 小作人立入る可(べか)
  らず 』の禁札が 、雪解の水を湛えて氷雨煙る
  中に鷗(かもめ)の如く点々として樹てられた 。

   とある 。鷗のごとくとあるのは禁札に白ペンキ
  が塗られていたためらしく 、こういう叙景は 、
  川瀬氏という著者自身が当事者の一人だったから
  こそ書けたのであろう 。」

 「 裁判は 、小作人側の弁護人として片山哲氏がひ
  きうけた 。後年 、昭和二十二年六月に成立した
  社会党内閣の総理大臣である
  『 新発田の裁判所まで何度も足を運んで 、傍聴
  に行った 。あのころの傍聴は羽織袴でないといか
  んという規則があったが 、私は羽織も持たず 、
  袴も持っていなかったので 、そのまま行った 。』
   と 、池田翁はいう 。
   裁判は相当ながびき 、その間 、全国の無産運動
  者側の応援もあり 、争議団の大会 、講演会 、就
  学児童五百余人の同盟休校 、農民学校の開設など
  もあって 、よほど世間の耳目をあつめたらしい 。
  東京の新聞はほぼ争議団に同情的で 、国権主義傾
  向のつよい『 国民新聞 』でさえ 、大正十五年八
  月十五日付の社説で 、『 元来 、土地は天賜のも
  の 』という基本論を説いている 。

    元来土地は天賜のもの 、之を一国の法制を以つて
    私人の所有に委ねる所以のものは 、土地の能力を
    国家社会のため十分に発揮せしめるに出づる 。国
    は土地を私に有用に利用すべく信託するのである 。
    これ以外には土地私有の合理的根拠はない筈であ
    る 。所有は後であって 、地力発揮が先きである 。
    しかるに土地の法的所有そのものを至上に尊しと
    するは 、社会生活の理想に反する 。

   土地私有と私有にともなう行為についての無制限
  にちかい現実はいまも変ることがなく 、この社説
  はこんにちの新聞に掲げられても 、すこしの違和
  感もない

   木崎村の小作問題の裁判は 、女学生まで団体で
  傍聴にきたらしい 。
   当時 、田舎では女学生の姿そのものがめずらし
  い時代で 、『 何もかも忘れっしもうた 』と池田
  翁は言いつつも 、そのことだけはよくおぼえてい
  る 。
  『 あるとき 、傍聴人だったか 、静かな法廷で大
  きな屁をひった者がある 。それでもっておおぜい
  の女学生が笑いだして笑いがとまらず 、法廷もな
  にも 、どうにもならなかった 』
   と 、追想の風景を 、笑わずにいった 。

   裁判は 、結局 、小作人側の負けになった
   が 、八十翁の記憶にはそのことがない 。
  『 忘れっしもうた 。あンだけ新発田まで足を運ん
  だのだが 』
   と言い 、このときだけは風の中で口をあけて笑っ
  た 。」 

  引用おわり 。

  ながながと引用してしまったが 、

  この文章が書かれてから50近く経った現代日本の

 土地私有と私有にともなう行為についての無制限に

 ちかい現実はいまも変ることがないどころか 、混迷

 の度を深めているように思える

 

 

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潟(かた)のみち Long Good-bye 2024・11・04

2024-11-04 06:06:00 | Weblog

 

  今日の「お気に入り」は 、司馬遼太郎さん の

 「 街道をゆく 9 」の「 潟のみち 」。

  今から50年ほど前の1976年の「週刊朝日」に

 連載されたもの 。述べられている風景は 、こんにち

 でも余りかわっていないのではないか 。知らんけど 。 

  備忘のため 、数節を抜粋して書き写す 。

  引用はじめ 。

 「 幾度ものべたように 、新潟市の南につらなる
  田郷は 、まことに一望鏡のように平坦である 。
  『 潟のみち
   と自分で勝手に名づけてこの変哲もない田園を
  歩いているのだが 、こんにち 、ただ一つの例外
  を除いて潟は残っていない

   鳥屋野潟(とやのがた)だけが 、残っている
   この潟を地図でみるとカタチは琵琶湖に似てい
  る 。むろん湖などというほど大きいものでなく 、
  潟のまわりは一〇キロほどでしかない 。」

 「 亀田郷はことごとく干上がって陸地になったが 、
  鳥屋野潟のみは可憐にも古代以来の潟と湛水地と
  いう地形をまもって水をたたえているのである 。
   明治時代の地理書をみると 、
  『 鳥屋野潟は 、古い時代の湾の名残りにちがい
  ない 』
   という意味のことが書かれている 。」

 「 この潟のまわりの鳥屋野という旧村は亀田郷の
  どの土地よりも低く 、亀田郷のあらゆる土地か
  ら水が流れてくるようになっている 。地図を見
  ると 、海面の高さにくらべてマイナス一メート
  ルである
 
  『 諸村の悪水流入す
   と 、前記明治の地理書にある 。諸村にとって
  自分たちの土地に降った雨などが 、大小さまざ
  まな水路をつたって鳥屋野村へ流れこむ 。ふつ
  うなら村が『 悪水 』で沈没するところだが 、
  悪水を受けとめる鳥屋野潟があるために救われ
  ている 。まことにこの意味では近世以来 、亀
  田郷のひとびとにとっては大恩ある沼といって
  よく 、水天宮でも祀って子々孫々まで感謝して
  もおかしくはない 。 」

 「 鳥屋野潟の堤の上にのぼると 、堤の上には桜
  が植えられていて 、並木をなしていた 。おそ
  らく公園にするという計画があったのであろう 。
   ところが並木道のそばは 、長く列をなしてラ
  ブ・ホテルが押しならび 、その装飾過剰な建物
  のむれが 、景観を特殊なものにしている 。ま
  わりは 、稲作の田園である 。ちょっと異様な
  景色といっていい 。 」

 「 ともかくも土地に関する私権が無制限にちかい
  社会だから致しかたないが 、はるばるとこの潟
  をめざしてきただけに 、気が滅入った 。」

 「 鳥屋野潟は 、大いなる水溜まりとして 、いま
  もこの土地の乾湿に大きな役割を果たしている
   この潟の東端に栗ノ木川という小さな川が不要
  の水をはこんできてこの潟に流しこみ 、同時に
  その東端でポンプによる揚水がなされ 、水は水
  路をつたって信濃川河口に流れこむ 。
   それだけでなく 、潟の西端が大きく切りとられ 、
  直線一・五キロほどの立派な排水路によって 、
  信濃川の『 親松 』という地点に流しこまれ 、
  盛大に排水されている 。
   鳥屋野潟から 、親松まで行ってみた 。
  『 親松排水機場
   という三階建のビルがあり 、ここに巨大なポ
  ンプがいくつも据わっていて 、これが日夜稼働
  して亀田郷の水( 具体的には鳥屋野潟に集めら
  れた水 )を信濃川へ吐き出して海へ送っている
  ということによってのみ 、亀田郷は乾いた陸と
  して存在しているのである 。
  『 亀田郷は親松のポンプで保(も)っているので
  す 』
   と 、佐野藤三郎氏がいったことばが 、この屋
  内に入るとよくわかった 。
   このポンプ場は 、農林省がつくった
   維持管理費は年に九千万円で 、その分担の内
  訳は国が4 、県が4 、亀田郷が2だという 。」

 「 このポンプを見あげていると 、われわれの社
  会はじつによくやっているという気持が湧いて
  くるが 、しかし土地についてのわれわれの思想
  の中に公の習慣がほとんどないためになにかこの
  現状での折角の努力も 、かつての亀田郷のひと
  びとの労苦も 、結果としては珍妙なものになっ
  ているのではないかと思えたりした 。」

  引用おわり 。

 (⌒∇⌒) 。。🐸 。。

  グーグル・マップのストリートビュー―で『 鳥屋野潟(とやのがた)

 の周囲の みち や 信濃川河畔にある『 親松排水機場の外観をみる

 ことが出来た 。

  書かれた文章の五十年後の風景をみられるなんて ・・・ 🐸 。。

 

 

 

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滄桑の変 Long Good-bye 2024・11・02

2024-11-02 05:55:00 | Weblog

 

 今日の「 お気に入り 」は 、司馬遼太郎さん の

 「 街道をゆく 9 」の「 潟のみち 」。

  備忘のため 、数節を抜粋して書き写す 。

  引用はじめ 。

 「『
  という日本語はよほど古いものらしく 、『 万葉
 集 』にも紀州の和歌の浦の潟( 滷 )を詠んだ歌
 として『 若の浦に潮満ち来れば滷(かた)を無(な)
 み葦辺をさして鶴(たづ)鳴き渡る 』というのがあ
 る 。
  潟とは 、この歌がその地理的特徴を的確に言いあ
 らわしている 。河川の河口などで海が 、河川が流
 す土砂のために遠浅になっており 、そこに潮が満
 ちてくる 、『 滷を無み 』でもって海に化してし
 まうが 、潮が干ると洲になって現れる場所をいう。」
  

 「 かつて潟だった土地が信濃川や阿賀野川の活動で
 潟がうずまって自然に野になってしまった土地 ――
 たとえば新潟市のように ―― もあるが 、新潟市
 の南郊の亀田郷のように 、人間が他から泥を運ん
 できて水中に投げ入れ 、永年それを繰りかえして
 いるうちに陸とも沼ともいえぬ異様な水田耕作地に
 なったというようなところもある 。
  要するに新潟県というのは 、大河の河口にちかい
 野は 、新潟市をふくめてかつては潟であった 。満
 潮のときには 、いまの新潟市などは海底にあったか
 と思える

 「 ・・・ 新潟市の南郊の亀田郷という地域の土地
 改良の歴史と現状を描いた映画をみた 。
  映画は二本だてになっていて 、一つは亀田郷の
 自主製作のモノクロ・フィルムで 、一つは新潟県
 が製作したカラー・フィルムによるものだった 。
 とくにそのモノクロ・フィルムのほうに 、衝撃を
 うけた 。
  亀田郷では 、昭和三十年ごろまで 、淡水の潟に
 わずかな土をほうりこんで苗を植え( というより
 浮かせ )、田植えの作業には背まで水に浸(つ)か
 りながら背泳のような姿勢でやり 、体が冷えると
 上へあがって桶の湯に手をつけ 、手があたたまる
 と再び水に入るという作業をやっていたことを知っ
 た
  映画を観了えたとき 、しばらくぼう然とした 。
 食を得るというただ一つの目的のためにこれほど
 はげしく肉体をいじめる作業というのは 、さらに
 はそれを生涯くりかえすという生産は 、世界でも
 類がないのではないか
  映画では 、潟の水の中へほうりこむ土も 、陸地
 から採ってくるのではない 。田舟を漕ぎ出して 、
 爪のような道具に長い棹(さお)をつけ 、潟の水底
 から掻きとって舟に揚げ 、舟にわずかに土が溜ま
 ると 、田( といっても渺茫たる水面だが )へ持
 って行って 、ほうりこむのである 。」

 「 亀田郷の全面積一万五〇〇〇ヘクタールのうち 、
 農地はその半分以下の六〇〇〇ヘクタールしか無
 い 、という現状になっている 。さらにべつな統
 計表では 、三分ノ一が市街化してしまった 。都
 市化がすすむにつれて都市的な人口がふえ 、郷
 内の住民は十六万人にふくれあがり 、農家人と
 いうのはそのうち一割ほどしかいないという所に
 までなっている 。
  大きな理由としては戦後の日本の農政が 、基本
 として工業に身売りする方針をとったための如実
 なあらわれといっていい 。
  亀田郷は 、新潟市の南郊にひろがっている 。そ
 の面積の何割かは新潟市域になっており 、都市と
 して膨張率( 明治二十二年人口四万余 、現在四
 十万余 )がむしろ高いといえる新潟市の都市エネ
 ルギーの影響を亀田郷北部は圧倒的にうけざるを
 えず 、その露骨なあらわれは 、地価の暴騰であ
 ろう 。
 『 農業などは 、割にあわない 』
  という営農思想の低下は 、地価の高騰の前には 、
 当然といっていい 。土地を住宅や商工業の用地と
 して売ったり 、あるいは地価操作をして都市地主
 になって遊んでいたほうが 、はるかに得であり 、
 楽なのである
  ついでながら 、文明国と称せられる国の中で 、
 地面を物のように売ったり買ったり 、あるいは地
 価操作をしたり 、ころがして利鞘をかせいだり 、
 要するに投機の対象にするような国は 、日本しか
 ない 。資本主義はあくまでも物をつくって売ると
 いう産業のものである以上 、こういう地価過熱に
 経済社会がよりかかったり 、混乱させられたり 、
 地価過熱によって諸式が高騰して国民経済が破壊寸
 前の滑稽なすがたになっているような社会は 、厳
 密には資本主義とさえよべないのではないか
  フランスや西ドイツの農民たちが都市近郊の高燥
 な台上で 、悠々として葡萄をつくっているのを見
 ると 、地価操作式の資本主義思考に馴らされてい
 る日本人としては 、奇妙な光景にさえ感じられる 。
 葡萄をつくるより 、そこを宅地化して地面を売っ
 たり貸したりするほうが儲かるのではないか 、と
 言いたくなるのだが 、それらの国々は土地制度が
 安定しているために 、決してそうはならないらし
 い 。やはり葡萄の実を採り 、村の共営工場で葡
 萄酒にして売るほうが 、当然ながら 、利益を得
 るのである 。」

 「 阿賀野川の橋を東にわたり 、ほどなくゆくと 、
 『 豊栄(とよさか)市 』
  という標識が出ていた 。かつて広大な地図を占
 めていた木崎村は 、いまはそういう呼称のなか
 に含められている 。
  道路わきに 、農業協同組合の看板の出たりっぱ
 なビルがあった 。
 『 いまは 、農協も大変なものですよ 』
  と 、農家出身のタクシーの運転手さんがいった 。
  このあたりの土地が新潟市の東郊にあたるため 、
 宅地として地価が騰(あが)っている 。だから農協
 に不動産部門ができて 、宅地を売ることで大層活
 躍しているという 。農業ほど政治で左右される産
 業はないといわれるが 、いまの政治が農業にかけ
 る力を軽くしてしまったことが 、農協に地面を売
 らせるという 、およそ自分の手足を切って売るよ
 うな結果をまねいたのであろう 。
  しかも売っている土地というのは 、江戸二百余
 年のあいだ 、新発田藩とその領民が営々として田
 地として造成してきた土地なのである 。このこと
 は 、潟が陸地になった以上に滄桑(そうそう)の変
 であるといえる 。」

  引用おわり 。

  角栄さん 、真紀子さんの地元ですもんね 。

  どうやら 新潟は 、現代日本の縮図みたいなとこらしい 。

 ( ついでながらの

  筆者註:「『 滄桑の変(そうそうのへん)』は 、世の中が
       激しく変化したり 、移り変わりが激しいことを
       意味する四字熟語です。          (『 滄海桑田 』は四字熟語だけど
、普通 
       『 滄桑 』は『 滄海桑田 』の略で 、青い大海 『 滄桑の変 』を四字熟語とは言わない )
       原と桑畑を意味します 。青海原が干上がって桑 
       畑になってしまう様子から 、予想もできないほ
       ど世の中が変化していることを表現しています 。
       『 滄桑の変 』の由来は 、神仙伝の『 王遠 』
       に登場する話です 。仙人になった王遠が麻姑と
       いう仙女に会った際に 、麻姑が『 東海の三た
       び桑田となるを見る 』と語ったという話です 。
       このことから『 滄海桑田 』という表現が生ま
       れ 、さらに『 滄桑の変 』として使われるよう
       になりました 。

       以上 、生成AIによる「 滄桑の変 」の解説 。)

 

 

  

 

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