国会図書館でもう一つ資料を見てきた。
それは山日YBSグループとしての社史。
YBSは山梨日日新聞とともにマスメディアグループを
形成しているため、1982年にはグループとして
百十年史を発行している。
ちなみに山梨放送単独では
今年60周年の社史を発行しているようだ。
「Waveはデジタル時代へ 山梨放送開局60周年記念誌」
こちら国会図書館のデータ(7月30日現在)では
書誌作成中で利用可否は確認の旨が表示される。
もう少し待てばこちらも閲覧が可能になると思います。
山日YBSグループ百十年史からYBSに関する部分を読んでみると
これまた私の知らないことが書いてあった。
まずはラジオ山梨時代の中継局計画。
山梨県は地勢により甲府盆地からの電波は
御坂山塊に阻まれ、郡内地方に届かない。
ラジオの郡内地方中継局計画は早くからあり、
当初は設置場所を都留市に求めたが、地形や地質に困難
な点があり、ついで大月市内に求めたが同じ理由でご破算。
しかし、何としても郡内に新局の計画は曲げず、
富士吉田の市道沿いに用地の買収に成功。開局を迎える。
(テレビ事業計画)
テレビ送信所は計画段階では甲府市南部の下鍛冶屋町を
予定していていたようだ。
その後の検討で旧境川村坊ヶ峯に建設することに決定した。
(テレビネットの問題)
テレビ開局に当たり、東京のどの局とネットを受けるか解決を迫られる。
当時は報道速報性はKRT(現在のTBS)に定評がある。営業面からだとすでに
五年放送経験を持つNTVが優勢。さらにNTVは大手スポンサー、
スポーツ中継が優勢で、両局とも一長一短。
「巨人ファンが多い」という山梨の立場からNTV系列と決定された。
娯楽重点主義から脱皮するため昭和36年にはNET(現在のテレビ朝日)と
ネット契約を結びテレビ教育放送が開始されたという事だ。
(UHF帯の開放)
昭和39年には国がUHF帯開放政策を打ち出す。
当然先行開局している局は多局化には反対。
「既存民放の相互乗り入れで格差を是正し難視対策にUHF帯使用が望ましい」
という放送関係法制調査会の答申。
山梨放送は隣接の静岡放送と相互乗り入れを推進する方針を
固めていた。とのことである。しかし41年に郵政大臣が代わると、
局面が変わり新局開局の申請は殺到していて、山梨県では
当時の県知事と故金丸信氏らを発起人とする山梨中央テレビ(現在のUTY)が
免許申請していた。
ことのき、郵政省はテレビ放送をVHFからUHFに移行するという
「Uターン構想」を打ち出したが、
これが現実になったのは
そう、3年前の2011年7月24日、地デジへの完全移行でVHF帯が
空くことになるのです。
こうして見ると先行テレビ局と新規参入局の攻防があったことが良くわかります。
だけども、静岡と山梨で相互乗り入れしていたら、現在のテレビ事情も
変わっていたのだろうなあと思いも馳せます。
(AMラジオ放送 じつは指向性があった)
ラジオ放送は昭和53年11月に9kHzステップへ変更されたのだが、
当時のYBSの周波数は740kHz。実は、富山の北日本放送の
周波数と同じであった。そのため指向性がついていたようです。
本文によると・・・
甲府局と同じ周波数にあった富山・北日本放送とも周波数帯が
分離され混信状態が改善された。このため54年に甲府局の
指向性が撤廃され峡北(北杜市・韮崎市方面)の受信状況が改善された。
とあります。
山梨の富山の間には「日本の屋根」のひとつ、
北アルプスの山々がある訳ですが
AMラジオですから夜間混信でもあったのでしょうか。
今回も長文になりました。
それは山日YBSグループとしての社史。
YBSは山梨日日新聞とともにマスメディアグループを
形成しているため、1982年にはグループとして
百十年史を発行している。
ちなみに山梨放送単独では
今年60周年の社史を発行しているようだ。
「Waveはデジタル時代へ 山梨放送開局60周年記念誌」
こちら国会図書館のデータ(7月30日現在)では
書誌作成中で利用可否は確認の旨が表示される。
もう少し待てばこちらも閲覧が可能になると思います。
山日YBSグループ百十年史からYBSに関する部分を読んでみると
これまた私の知らないことが書いてあった。
まずはラジオ山梨時代の中継局計画。
山梨県は地勢により甲府盆地からの電波は
御坂山塊に阻まれ、郡内地方に届かない。
ラジオの郡内地方中継局計画は早くからあり、
当初は設置場所を都留市に求めたが、地形や地質に困難
な点があり、ついで大月市内に求めたが同じ理由でご破算。
しかし、何としても郡内に新局の計画は曲げず、
富士吉田の市道沿いに用地の買収に成功。開局を迎える。
(テレビ事業計画)
テレビ送信所は計画段階では甲府市南部の下鍛冶屋町を
予定していていたようだ。
その後の検討で旧境川村坊ヶ峯に建設することに決定した。
(テレビネットの問題)
テレビ開局に当たり、東京のどの局とネットを受けるか解決を迫られる。
当時は報道速報性はKRT(現在のTBS)に定評がある。営業面からだとすでに
五年放送経験を持つNTVが優勢。さらにNTVは大手スポンサー、
スポーツ中継が優勢で、両局とも一長一短。
「巨人ファンが多い」という山梨の立場からNTV系列と決定された。
娯楽重点主義から脱皮するため昭和36年にはNET(現在のテレビ朝日)と
ネット契約を結びテレビ教育放送が開始されたという事だ。
(UHF帯の開放)
昭和39年には国がUHF帯開放政策を打ち出す。
当然先行開局している局は多局化には反対。
「既存民放の相互乗り入れで格差を是正し難視対策にUHF帯使用が望ましい」
という放送関係法制調査会の答申。
山梨放送は隣接の静岡放送と相互乗り入れを推進する方針を
固めていた。とのことである。しかし41年に郵政大臣が代わると、
局面が変わり新局開局の申請は殺到していて、山梨県では
当時の県知事と故金丸信氏らを発起人とする山梨中央テレビ(現在のUTY)が
免許申請していた。
ことのき、郵政省はテレビ放送をVHFからUHFに移行するという
「Uターン構想」を打ち出したが、
これが現実になったのは
そう、3年前の2011年7月24日、地デジへの完全移行でVHF帯が
空くことになるのです。
こうして見ると先行テレビ局と新規参入局の攻防があったことが良くわかります。
だけども、静岡と山梨で相互乗り入れしていたら、現在のテレビ事情も
変わっていたのだろうなあと思いも馳せます。
(AMラジオ放送 じつは指向性があった)
ラジオ放送は昭和53年11月に9kHzステップへ変更されたのだが、
当時のYBSの周波数は740kHz。実は、富山の北日本放送の
周波数と同じであった。そのため指向性がついていたようです。
本文によると・・・
甲府局と同じ周波数にあった富山・北日本放送とも周波数帯が
分離され混信状態が改善された。このため54年に甲府局の
指向性が撤廃され峡北(北杜市・韮崎市方面)の受信状況が改善された。
とあります。
山梨の富山の間には「日本の屋根」のひとつ、
北アルプスの山々がある訳ですが
AMラジオですから夜間混信でもあったのでしょうか。
今回も長文になりました。