がじゅまるの樹の下で。

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推定年齢考証してみた

2012年09月18日 | ・琉球史散策/第一尚氏

先日、琉球史人物の年齢をネタに記事書きましたが

護佐丸と同じく年齢不詳な人、
百十踏揚と阿麻和利についても追及してみようと思い立ち、

阿麻和利死んだ時は30代半ばとかって言われているけど
それはなぜ?

百十踏揚は?

を考えてみた!

テンペスト年表作った時以来の
年齢考証実施です!

 

今回の記事、我ながらかなりマニアックです。
少しは面白くなるように書こうと心掛けたけど…

ついていける人だけどうぞ(笑)


表を印刷して片手に見ながら読むとより分かりやすくなります

 

まずは年代と、生没年が記録に残っている人を記入。

ついでに護佐丸も推定1390年生まれとして記入。

(一応は確定、水色は推定です)


↓クリックすると拡大します

 

さて、まずは百十踏揚についての考証スタートです。

まずはいつ生まれたのか。

尚泰久が26歳の時に尚徳が生まれています()。

尚徳は三男なので、それまでに長男と二男が生まれていることでしょう。
(尚泰久の結婚が16・17くらいだったとして、それから7・8年間で長男・次男誕生())

問題は百十踏揚が尚徳の姉か、妹か、ということ。

一般的には姉というイメージですが、確かハッキリと「姉」とする記録はなかったような?
(長女としか書かれていないため)

 

そこで結婚期から逆算してみることに。

百十踏揚と阿麻和利がいつ結婚したのかは分かってませんが、
政略結婚の意味合いからも尚泰久が王位についてからでしょう。

しかし、王位についてすぐは首里城再建など
そうとうゴタゴタしていたでしょうから
王位について数年たったころかと。

1458年に結婚させて、すぐ阿麻和利討伐ってこともないでしょうから
間をとって1455年か、1456年頃と仮定。
(でも1456年は冊封を受けている年なのでその年の前後かと思われますが…)

 

さて、この時期に百十踏揚が何歳だったのか。

室町時代の結婚適齢期は14~16歳頃。

20歳だとかなりの年増とされていたようです。

平均寿命も短かったでしょうから、体の発達段階的にこの年齢だったのでしょう。

で、王女たる百十踏揚がまさか「年増」と呼ばれる年齢になるまで
お嫁に行かなかった(行かさなかった)と言うことはないでしょうから
せいぜい1456年時点で15歳か、16歳。

それで遡ってみると、
百十踏揚は尚徳と同じ年生まれ(表・踏揚①)
もしくはせいぜい1つ下
(表・踏揚③)くらい、

ということになります。

異母きょうだいなので、同じ年生まれもアリなんですね。

半年違いで「姉」とかね。

というわけで、
百十踏揚の生年、推定1441年前後。

 

 

問題は阿麻和利です。

阿麻和利を考えるのは結構複雑で…。

例えば、

護佐丸の中城への移動は勢力をつけた阿麻和利をけん制するため

というものがあります。

じゃあ、護佐丸が中城に移ったのはいつか。

護佐丸は座喜味グスク18年、中城グスク18年と言われているので
中城に移ったのは1440年となります。

でも中城グスクの増築はもっと前から着手していたはずなので、
まぁ、中城への移動命令が出て増築を開始したのは
その5年前くらいとしておきましょうか。
(10年という人もいますが…) 

5年前だとすると1435年。

ちなみにこの頃はまだ尚泰久は王にはなっているはずもなく、
尚巴志存命中。

中城への移動命令は尚巴志から下されたものと考えられますね☆

 

では、尚巴志が命令を下した1435年頃、
すでに阿麻和利が王府の脅威になっていたとすれば、

阿麻和利がこの時点で10代であることは考えにくく、
ハタチだとしても、まぁ警戒はするでしょうが、
あの尚巴志(既に60代)がビビるほどとは考えにくいよね?


いくら阿麻和利に才能があったとしても
ハタチ程度なら所詮は若造。

じゃあ、何歳くらいならさらに警戒を強めて
護佐丸を移動させるほどの決断を下すかな~と考えてみると…

どんなに若くても30歳とかでは?

いや、100歩譲って25歳とかにしてみる?

 

そしたらね、

1458年で死んだ時の年齢が
53歳とか(表・阿麻和利②)48歳(表・阿麻和利①)とかなのだ。

うん。組踊「二童敵討」の阿麻和利のイメージそのものの年齢になったぞ。

 

次に、百十踏揚との結婚を考えてみよう。

1456年に百十踏揚(推定15歳ごろ)と結婚してるとすると
阿麻和利は46歳~51歳なんだ。

 

いや、年の差はどうでもいい。

 

当時はこれくらいはざらにあっただろうし、
政略結婚ならなおさらだ。

 

ポイントはこの年の尚泰久、42歳。(表・

 

自分より年上の男が
義理の息子になるんだぜ。

 

もちろんアリエナイこともないでしょうが…
尚泰久の立場で考えてみたら
自分よりも年上の男(しかも身分的にも格下)に
最愛の娘を差し出すにはやっぱりちょっと…ですよね。

尚泰久、王様だよ。
百十踏揚、王女だよ。

ただの父ちゃんと娘じゃないんだよ。

ちょっと、う~ん…となりません?

繰り返しますが、もちろん可能性は無きにしも非ずですがね。

 

さて、そこからさらに突っ込んで考えてみよう。

 

義理の息子はせめて俺より年下であってくれよ!
(BY尚泰久)

という尚泰久の心の叫び(推定)を元に、
推定結婚年1456年、尚泰久42歳の時点で、

阿麻和利40歳だった場合(表・阿麻和利⑤)

阿麻和利35歳だった場合(表・阿麻和利③)

ではめてみた。

 

それで生まれ年まで逆算すると、

護佐丸に中城移動命令が出た時は
阿麻和利は19歳or14歳!

 

10代の若造に、
あのカリスマ尚巴志(60代)が脅威を抱いて

あのナンバーワン武将護佐丸(40代)を大移動!?

 

アリエねぇ~~~(゜д゜;)

 

 

ってことは、

 

尚巴志が抱いた勝連への警戒は
阿麻和利その人そのものというより、
もしかしたら勝連そのもの、
つまり先代の茂知附按司らによる繁栄なのかもしれない、

という話。

 
ってことは、茂知附按司ってすごいんだぜ(・∀・)ノ

 

 

というわけで、阿麻和利推定年齢算出は、
護佐丸の中城移動命令に合わせて考えるのでなく、
(=尚巴志が警戒したのは阿麻和利その人ではなく、勝連の繁栄そのものだった?)

百十踏揚との結婚期を元に考えてみると…

 

なるほど。

そういうことで阿麻和利が死んだ推定年齢
30代前半~半ば(33・34・35)頃ってなってるんだな?
((表・阿麻和利③)(表・阿麻和利④))

 

と、改めて自分で確認できてすごく納得。

 

っていうか、この推定年齢設定、

小説「百十踏揚」ほぼそのまんま!(゜∀゜)

やっぱりこの小説、すごいね!

 

ちなみに大城賢雄についても年齢不詳ですが、
1458年時点で王軍総大将を任されているあたり
20代というよりは30代、
やっぱり阿麻和利とそんなに違わなかったのかもね~。

 

 

ちなみにこの表の数字は満年齢です。
数え歳カウントだとこれにプラス1とか2とかになります。

 

この考証はあくまでも以上の理由に基づいて出した推論です。
結婚適齢期や年齢差など例外もあったでしょうからこれが必ずしも「正しい」というものではありませんのであしからず。

歴史上の人物をより味わうための一材料としてお楽しみくださいm(_ _)m

 


ついていけた人!?
クリックプリーズ!(笑)

蛇足だけど、小説「百十踏揚」では阿麻和利は33歳で没。
イエスキリストも33歳没。
坂本龍馬も33歳没。

コメント (2)
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