山里ひぐらしの小径

木曽路の入り口、岐阜県中津川市から
人と自然とのかかわりをテーマに、山里、植物、離島など。

日本の心と野望

2010-01-17 | 山里
大きな目標を設定してそれに向かって突き進むことが、あるべき姿勢だと思っていた時代が私にもあった。そうでない人間は、面白みのない、向上心のない人で、尊敬に値しないと。
でもいつの間にか、そういうものはなくなってしまった。
なくなったというより、むしろなくてもよくなったというべきか。
そういう発想に少し疑問を持つようになった。

それはともすれば、未来のために今を生きることになる。
それが間違っているとは思わない。そういうのもありだと思う。
しかし、未来のために今を生きるというやり方を、いつから人間は始めたのだろう。
いつから日本人は始めたのだろう。
その歴史は、きわめて浅いと感じていた。

アメリカ映画によくある、アメリカンドリームの世界。サクセスストーリー。
そもそも、成功という言葉自体が、日本にはなじまない。
成功とは一体何なのか?

○○に成功する、というなら分かる。シュートに成功するとか。上手にお餅を焼くことに成功するとか。
しかし、人生で成功するとか、成功した人、とかいう言葉は、日本ではあまり意味を持っていないように思う。
アメリカンドリームの世界では、成功とは、お金持ちになることらしい。
はっきりしている。

巷にあふれるアメリカ系自己啓発書は、どれも、目標を設定し、そのために努力するためのものである。さもなくば億万長者になるためのものである。成功することと、目標を設定することが暗黙の前提としてある。日本人はそれに盲目的にかぶれている。毒されているといってもいい。

目標を設定し、それに向かって方法を考え、そこへ近づいていくというやり方は、論理的である。そのあまりにも明快な論理の組み立て方に、日本的ではないもの、人工的なニオイを感じてきたのである。そのニオイは、私の受けてきた学校教育と同じニオイである。

未来の目標のためによりよい今日を築くのではなく、今日をよりよく生きた結果で人生が自然に築かれていくという考え方もとれる。それは順序の問題ではなく、目的・目標というものを重視するかどうかということだ。それは確かに生臭い。それを先行させるやり方が西欧的だと私は直感的に感じていたのである。

橋口譲二の『夢』という写真集がある。日本全国の100人のお年寄り(明治、大正や昭和1桁に生まれた人)を撮影し、全員に同じ質問をしたものである。100人は、各県2、3名、平均的な生き方をしてきた人が選ばれている。朝ごはんは何を食べましたか、今まで住んできたところはどこですか、という、その人の生活を示す質問の最後に、「夢はなんですか」というのがある。
それに対して、ほとんどの人(95%か)が、「夢はありません」「考えたことはありません」か、「孫が結婚するのを見届けてからあの世へ行くことだ」「ただただ感謝して残りの人生を生きております」のような答えをしているのである。
この人たちに夢がないのは、年をとったからだとは思わない。いや、まあ中には、若い頃にはいろいろな夢があった人もあるだろう。それもいい。
でも、これを読んだとき、「やっぱりそうか」と思った。
それが日本人の(あるいは昔の日本人の)普通の姿なんだと思う。

山里のおばあちゃんたちが神様仏様に手を合わせるのは、「願い事」をするのではなく、「感謝」の気持ちを捧げるためである。
野望や目標を持って生きていく生き方は進化したもののように思えるが、では、そういう生き方を良しとしてきた今の私たちは、ただ日々に感謝して生きている人たちより幸せを感じているのか? 満たされているのか? 
どうも、答えはノーのように思う。それはなぜなんだろう、ということを考えていた。
もちろん人それぞれ違う。

そんなことをここのところ感じていた。
特に、山里のあちこちにある小さな祠や神様や、祭りの心に触れると、感じざるを得なくなっていた。


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2 Comments

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シンプルに (清藤奈津子)
2010-01-30 00:19:49
シンプルいちばんですね。
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Unknown (のほほん星人)
2010-01-21 15:51:21
同感です。

だから、のほほん星人してるのかも。

いいわけか。

でも、この話は非常に大事なことだと思う。

時間軸のとらえかたにもかかわる。

高い次元の(僕が思う)書物などでは、”今”をいきろ。今の連続があるだけだと。

未来も過去も、今の中にあると。
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