以下は、19日に配布する資料の原稿です。
今日1日がかりで書き下しました。推敲はこれからです。ご覧になった方で何か意見とかがありましたらコメントください。
「将棊馬日記」とその意義について
H21.7.19
熊澤良尊
「将棊馬日記」は、安土桃山時代の貴族・水無瀬兼成(1514~1602年)の将棋
駒づくりの記録である。兼成が没して間も無い時期に、手控えを元に一冊の記録
としてまとめられたものであろう。これが水無瀬神宮に400年間遺されていた。
書き出しの天正18(1590)年は兼成77歳。書き終わりの慶長7(1602)年
は89歳で死去した年でもある。最晩年の高齢な13年間に作られた駒の総数は
735組。これ以前に於いても、相当数を製したと考えて良い。
13年間の内訳は「小将棋(現在の将棋と同じ駒数40枚)駒」が618組。
「中将棋(駒数92枚)駒」が106組。そのほか「大将棋(駒数130枚)」
や「摩訶大々将棋(駒数192枚)」など4種類の古将棋駒が11組あり、それ
ぞれには譲り渡し先とおぼしき名前が記されている。因に当時、中将棋は公家階
級で良く遊ばれた将棋である。
「馬日記」が見つかったのは、水無瀬駒の調査で訪問した昭和53年の冬。社
殿奥から水無瀬忠寿宮司が持ってこられた60ページほどの古い書き付け帖の表
紙には「将棊馬日記」とあった。「馬」は「駒」のことである。
手札サイズほどの薄い紙どうしが、ところどころ虫食いでくっついているのを
、1枚ずつ丁寧に剥がしながら目を通してゆくと、譲り渡し先とおぼしき人の名
が「一面、誰々」と一組毎に書いてある。当時は駒を一組ではなく「一面」と数
えたらしい。
書き出しの近いところに「上」の記述があった。この時代の公卿にとっての「
上」は天皇であり、それは後陽成天皇を指す。古来より「水無瀬家の駒書きは、
勅命によって始まった」との伝承があった。それを裏付ける一等史料が眼前に現
れた訳である。予期せぬ重大史料の出現に心が震える思いがした。
すぐさま全頁を写真に記録して、専門誌「将棋讃歌・(えい)」に水無瀬駒
特集を企画提案して発表させていただいた。以来、何度も水無瀬神宮を訪れてい
るが、「駒日記」との再会はそれ以来である。
「馬日記」にある735組の駒を、別表にまとめてみた。
年間の平均製作数は56組。途中、慶長5(1600)年には関ケ原で天下分け目
の戦いがあった。その前年が120組。驚くほどの製作量。3日に1組を製した
計算になる。将棋がそれだけ盛んに遊ばれていた証しでもあるが、特に注目すべ
きは、徳川家康がこの年の前後に、53組の水無瀬駒を購入していることである
。駒は配下や相手方の武将に付け届け物として贈ったに違いない。結果的に水無
瀬駒が天下を制したことになる。
この時代の庶民は、あり合わせの雑木に墨書して自給自足で駒を作ることが多
かった。大方の出土駒は、そのような粗雑なものが多い。
対して兼成が製作した駒は超一級品である。駒の最適材である黄楊(つげ)を
多用し、端正な5角形に加工して、文字は漆で書いてある。戯れの手慰みではな
く、業として駒を作った。その姿は現代の高級駒以上で素晴らしく、漆文字には
気品が漂う。小生が「現代将棋駒のルーツ」と呼ぶ所以である。
注目すべきは、水無瀬駒の譲り渡し先。先述した後陽成天皇は将棋の愛好者で
リピーターでもあった。「関白殿(豊臣秀次)」の記述もある。「近衛殿」「勧
修寺殿」「伯殿」「式部卿」など公卿には尊称が付いている。
公卿に「中将棋駒」の注文が多いのに対して、武将には「小将棋駒」が多い。
名前は「松田勝右衛門」などと、フルネームで記述されたものもあるが、大方は
粗略に「松与吉(松平)」や「落(落合)春八」「城織(城織部)」などと記し
たものが目立つ。「輝元(毛利)」「幽斎(細川)」「家康息(徳川家忠か)」
など、名のある武将も呼び捨て。「家康(徳川)」も同様である。しかし慶長年
間になると、地位が官位が高くなったことで「毛利殿」や「内府」に変化する。
当時は官位と職位の上下に敏感だったことを証す記述である。
「八幡滝本坊」は書画を能くした松花堂昭乗。「金森法印」「松泉坊」「常徳
寺」は僧侶たち。「宗利」「宗由」は数奇者たち。「堺薬屋」は裕福な大店の主
人であろうか。「某」も散見する。名前を書くほどでもない人に渡したのであろ
うが、水無瀬駒は概して上流社会の者が買い求めた超高級品である。
「馬削忍斎」や「馬屋春介」の名もある。「馬削」は駒を削った下職。駒の木
地を作りながら、出来上がった駒を誰かに卸していたのであろう。水無瀬駒が大
量の需要に応じられたのは、配下で働くこのような人たちの存在があったことが
分かる。
兼成にとって、豊臣家は特別な存在でもあったようだ。文禄1(1592)年には
「当関白殿へ、大象戯(三百五十四枚)と、大々象戯(百九十二枚)」が贈られ
た。その翌年にも「関白殿、太将棊・大々将棊・摩訶大々将棊・大将棊・中将棊
の計七組」とある。これは兼成自身が書き残した巻物「象戯図」の記述内容と一
致する。
しかも、その7組の駒1282枚は「二月朔日(ついたち)より書き始めて六
日に書き終わった」とある。1日平均で212枚を書き上げた。冬のこの時期、
仕事が出来る明るい時間を仮に6時間とすれば、1時間で凡そ40枚分の表裏を
書いた計算となる。1枚当たりが2分弱。兼成は相当な集中力とスピードで駒の
文字を書いたことが分かる。
ところで「馬日記」には、「白檀」「桑木」「象牙」「沈」などと付記されて
いるものが48組ある。逆に大半の付記がない駒は「黄楊(つげ)」製であるこ
とが分かる。
現在、兼成が製した水無瀬駒は、水無瀬神宮蔵の「八十二才」の小将棋駒をは
じめ10組程度が現存していると推定する。内、小生が現認したのは8組であり
、それらには駒尻に製作した年齢が記してあるものと記していないものとがある
。
記してある年齢を手掛かりにしても「馬日記」の記述のどの駒なのかを特定す
ることは不可能であった。ところが昨年、福井県で見つかった水無瀬駒は特殊な
象牙製であり、全部で5組しか作られなかったことと、「八十五才」と記してあ
るところから、慶長3(1598)年に記述されている「一面、象牙・道休(1
5代将軍・足利義昭)」とぴたりと符合した訳である。
これによって「水無瀬駒」と「馬日記」は、それぞれが双方の記録を補完し合
い、互いに信頼性を高め合う史料でもある。
最後に蛇足的ではあるが、現在の将棋タイトル戦において使われる盛り上げ駒
の多くは、実は兼成が製した水無瀬駒のような優雅な筆跡を真似たものであるこ
とを述べておく。
以上
今日1日がかりで書き下しました。推敲はこれからです。ご覧になった方で何か意見とかがありましたらコメントください。
「将棊馬日記」とその意義について
H21.7.19
熊澤良尊
「将棊馬日記」は、安土桃山時代の貴族・水無瀬兼成(1514~1602年)の将棋
駒づくりの記録である。兼成が没して間も無い時期に、手控えを元に一冊の記録
としてまとめられたものであろう。これが水無瀬神宮に400年間遺されていた。
書き出しの天正18(1590)年は兼成77歳。書き終わりの慶長7(1602)年
は89歳で死去した年でもある。最晩年の高齢な13年間に作られた駒の総数は
735組。これ以前に於いても、相当数を製したと考えて良い。
13年間の内訳は「小将棋(現在の将棋と同じ駒数40枚)駒」が618組。
「中将棋(駒数92枚)駒」が106組。そのほか「大将棋(駒数130枚)」
や「摩訶大々将棋(駒数192枚)」など4種類の古将棋駒が11組あり、それ
ぞれには譲り渡し先とおぼしき名前が記されている。因に当時、中将棋は公家階
級で良く遊ばれた将棋である。
「馬日記」が見つかったのは、水無瀬駒の調査で訪問した昭和53年の冬。社
殿奥から水無瀬忠寿宮司が持ってこられた60ページほどの古い書き付け帖の表
紙には「将棊馬日記」とあった。「馬」は「駒」のことである。
手札サイズほどの薄い紙どうしが、ところどころ虫食いでくっついているのを
、1枚ずつ丁寧に剥がしながら目を通してゆくと、譲り渡し先とおぼしき人の名
が「一面、誰々」と一組毎に書いてある。当時は駒を一組ではなく「一面」と数
えたらしい。
書き出しの近いところに「上」の記述があった。この時代の公卿にとっての「
上」は天皇であり、それは後陽成天皇を指す。古来より「水無瀬家の駒書きは、
勅命によって始まった」との伝承があった。それを裏付ける一等史料が眼前に現
れた訳である。予期せぬ重大史料の出現に心が震える思いがした。
すぐさま全頁を写真に記録して、専門誌「将棋讃歌・(えい)」に水無瀬駒
特集を企画提案して発表させていただいた。以来、何度も水無瀬神宮を訪れてい
るが、「駒日記」との再会はそれ以来である。
「馬日記」にある735組の駒を、別表にまとめてみた。
年間の平均製作数は56組。途中、慶長5(1600)年には関ケ原で天下分け目
の戦いがあった。その前年が120組。驚くほどの製作量。3日に1組を製した
計算になる。将棋がそれだけ盛んに遊ばれていた証しでもあるが、特に注目すべ
きは、徳川家康がこの年の前後に、53組の水無瀬駒を購入していることである
。駒は配下や相手方の武将に付け届け物として贈ったに違いない。結果的に水無
瀬駒が天下を制したことになる。
この時代の庶民は、あり合わせの雑木に墨書して自給自足で駒を作ることが多
かった。大方の出土駒は、そのような粗雑なものが多い。
対して兼成が製作した駒は超一級品である。駒の最適材である黄楊(つげ)を
多用し、端正な5角形に加工して、文字は漆で書いてある。戯れの手慰みではな
く、業として駒を作った。その姿は現代の高級駒以上で素晴らしく、漆文字には
気品が漂う。小生が「現代将棋駒のルーツ」と呼ぶ所以である。
注目すべきは、水無瀬駒の譲り渡し先。先述した後陽成天皇は将棋の愛好者で
リピーターでもあった。「関白殿(豊臣秀次)」の記述もある。「近衛殿」「勧
修寺殿」「伯殿」「式部卿」など公卿には尊称が付いている。
公卿に「中将棋駒」の注文が多いのに対して、武将には「小将棋駒」が多い。
名前は「松田勝右衛門」などと、フルネームで記述されたものもあるが、大方は
粗略に「松与吉(松平)」や「落(落合)春八」「城織(城織部)」などと記し
たものが目立つ。「輝元(毛利)」「幽斎(細川)」「家康息(徳川家忠か)」
など、名のある武将も呼び捨て。「家康(徳川)」も同様である。しかし慶長年
間になると、地位が官位が高くなったことで「毛利殿」や「内府」に変化する。
当時は官位と職位の上下に敏感だったことを証す記述である。
「八幡滝本坊」は書画を能くした松花堂昭乗。「金森法印」「松泉坊」「常徳
寺」は僧侶たち。「宗利」「宗由」は数奇者たち。「堺薬屋」は裕福な大店の主
人であろうか。「某」も散見する。名前を書くほどでもない人に渡したのであろ
うが、水無瀬駒は概して上流社会の者が買い求めた超高級品である。
「馬削忍斎」や「馬屋春介」の名もある。「馬削」は駒を削った下職。駒の木
地を作りながら、出来上がった駒を誰かに卸していたのであろう。水無瀬駒が大
量の需要に応じられたのは、配下で働くこのような人たちの存在があったことが
分かる。
兼成にとって、豊臣家は特別な存在でもあったようだ。文禄1(1592)年には
「当関白殿へ、大象戯(三百五十四枚)と、大々象戯(百九十二枚)」が贈られ
た。その翌年にも「関白殿、太将棊・大々将棊・摩訶大々将棊・大将棊・中将棊
の計七組」とある。これは兼成自身が書き残した巻物「象戯図」の記述内容と一
致する。
しかも、その7組の駒1282枚は「二月朔日(ついたち)より書き始めて六
日に書き終わった」とある。1日平均で212枚を書き上げた。冬のこの時期、
仕事が出来る明るい時間を仮に6時間とすれば、1時間で凡そ40枚分の表裏を
書いた計算となる。1枚当たりが2分弱。兼成は相当な集中力とスピードで駒の
文字を書いたことが分かる。
ところで「馬日記」には、「白檀」「桑木」「象牙」「沈」などと付記されて
いるものが48組ある。逆に大半の付記がない駒は「黄楊(つげ)」製であるこ
とが分かる。
現在、兼成が製した水無瀬駒は、水無瀬神宮蔵の「八十二才」の小将棋駒をは
じめ10組程度が現存していると推定する。内、小生が現認したのは8組であり
、それらには駒尻に製作した年齢が記してあるものと記していないものとがある
。
記してある年齢を手掛かりにしても「馬日記」の記述のどの駒なのかを特定す
ることは不可能であった。ところが昨年、福井県で見つかった水無瀬駒は特殊な
象牙製であり、全部で5組しか作られなかったことと、「八十五才」と記してあ
るところから、慶長3(1598)年に記述されている「一面、象牙・道休(1
5代将軍・足利義昭)」とぴたりと符合した訳である。
これによって「水無瀬駒」と「馬日記」は、それぞれが双方の記録を補完し合
い、互いに信頼性を高め合う史料でもある。
最後に蛇足的ではあるが、現在の将棋タイトル戦において使われる盛り上げ駒
の多くは、実は兼成が製した水無瀬駒のような優雅な筆跡を真似たものであるこ
とを述べておく。
以上
駒の写真集
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