以前にアップしていたのですが、
改めて、アップしておきます。
なお、以前のコメントでの問い合わせには、遅ればせながら、以下、説明しておきます。
蒔絵の盤は、一旦、普通の盤と同じように、無垢のままで盤を作り上げるところから始めます。
出来上がった盤の側面には、先ずは、麻布を張り付けます。(これを、布着せという)
布を張り付けるのは漆(黒漆)でですが、盤側に蝋が塗ってあると、麻布が張り付かないので、盤側には蝋を塗らないままが良いのです。
しかし、モノによっては普通の盤のように蝋が塗り込まれている場合も多く、その時は蠟を削ぎ落す必要があります。
(蝋のそぎ落としが不完全であれば、後に剥がれてしまいますので、完全にそぎ落とすことが肝要)
張り付けた麻布が完全に張り付いた後は、さらに漆を何回も塗り重ねて、真っ平に研磨して黒漆の面を作ります。(研磨は、砥石やサンドペーパーを使う)
これが終了することで、その側面に蒔絵の技法で家紋や図柄を描くことになります。(以下、蒔絵の工程は略す)
なお、盤の裏と脚は、無垢のままで(布着せはせずに)黒漆で塗り立てるものと、普通の盤のように木地のままで仕上げる場合の二通りがあります。
蒔絵盤の材や製造過程の記録など分かる範囲でいいのでできれば教えてください。
水無瀬兼成卿が作成された、
数少ない象牙の駒の1組ですか?
徳川家の姫様の婚礼お道具ではなく、お城使いの将棋道具なのでしょうか?
持ち主は、川井さん。
駒は、400年前に作られた象牙の駒。85歳とあるのは、作者、水無瀬兼成さんの年齢です。
盤は、200年か百数十年前の蒔絵盤で、作成年代が100年以上隔たりがあるのは、当時、駒は使われた形跡がないまま、新品状態が保たれていたように思われ、それがすばらしかったので、新調された婚礼用の盤と組み合わされたと思います。
ですが、今の状態は、使い倒されて漆が摩耗していたㇼ、キズがいろいろあったりしていて、それは臣下などに払い下げたりした後、よく使われてきた結果であるわけです。
象牙の駒は、兼成さんは5組作っていて、これは最初のもので、15代将軍、足利義昭の注文によるものだと、断定しています。
しかし、足利義昭の駒がうして徳川家に渡ったかは、不明です。