1月21日(土)。
只今、夜中ですが、書きたいことがあって、書き連ねます。
「活筆駒」と「盛上げ駒」についてです。
先ず「活筆駒」は、小生、肉筆の書き駒のことで、「活筆駒」と名付けました。
仕上がりは、見た目「盛上げ駒」とほとんど変わりがないのですが、「活筆駒」と名付けたのは「盛上げ駒とは違う」ということを表したいことと、「一筆書きの肉筆の駒である」という意味が含まれています。
ご承知の通り、手作りした駒には、工程と仕上がりの違いで「書き駒」、「彫り駒」、「彫り埋め駒」、「盛上げ駒」の4種類があります。
そしてこの中では「書き駒」が、一番安物との認識が、一般的でありますが、その理由は、「現今の書き駒の代表は、天童駒」であり、天童駒はとにかく数を作るために、爺ちゃん祖母ちゃんはもとより、小さな子供たちまで動員して駒の字を書いた歴史があり、そのため、安物の駒の代名詞として、世間で認識されていたわけです。
一方、江戸時代以前も駒は、肉筆で書かれた「書き駒」であったわけですが、駒の作者は筆が立つ人でないと良い駒が作れないし、その高級駒の代表的な人が、安土桃山時代から江戸時代初期の能筆家として名高い「水無瀬兼成」という位の高いお公家さんでありました。
ところで、彫り駒とか彫り埋め駒、あるいは盛上げ駒が生まれたのは、職人の(駒師)が派生するようになった江戸時代後期から明治時代の頃で、このころには、水無瀬家のような公家による駒づくりはなくなっていて、専ら職人による駒づくりの時代へと進みました。
しかし、普通の職人の腕では良い字を書くことが難しい。すなわち、良い駒が作れないわけで、その結果、ある職人は、昔のお公家さんが作った駒ような立派な文字の駒を作るべく、昔の立派な文字を印刷した紙を木地に貼り付けて、それをなどって文字を彫り、漆を埋めて平らにした後を塗り絵の如く文字を仕上げて作って生まれたのが「盛上げ駒」であったわけです。
このころには、昔の公家のような立派な駒の文字を「書き駒」として肉筆で書く人は居ませんから、「盛上げ駒」の技法で作った駒が、最上等の駒とされて来たのでした。
しかしながら、見た目同じような駒の文字(書体)でも「書き駒」と「盛上げ駒」とでは、微妙な違いがあるわけです。
それは、文字の自然さと、活き活きしているかどうか、という違いです。
能筆な人の肉筆の「書き駒」ならば活き活きした文字だし、普通の「盛上げ駒」の場合は、まるでカンバンや塗り絵を書くがごとく、筆で何度も塗り重ねて文字を書くことで、イキイキさに欠ける問題があります。
ということで、私が駒を作り始めて間もなく、水無瀬神宮の400年前の「水無瀬駒」を実見した時、この違いに気づき、その「水無瀬兼成さんが作った水無瀬駒」を生涯の目標としたのであります。
ところで、肉筆でイキイキした文字を漆で駒に書くことは、非常に難しいことでありました。
長くなりました。
ここまでで、2時間ほど経ちました。
まだまだ書きたいのですが、一旦眠ることにしまして、この続きはまた次にでも。
1月19日(木)、晴れ。
暖か、春の陽気です。
市内の某所に閉じ籠っておりました。
無事生還、3日ぶりのブログ更新となりました。
この間、受信したメールは40通。
この内、有用なのはただ1通。残りの39通は無用、あるいは不審メール。
それにしても、他人を騙してでも金儲けしようとする輩の気持ちが分からない。
騙されないようにと、気分を引き締めたところです。
1月16日(月)、雨模様。
あす辺りから、寒さがぶり返すとの予報です。
今日の映像は、何年か前に作った雛道具の駒。
盤は古いものですが、盤に合わせて駒を作り、工房に飾っています。
その映像です。
雛道具の駒は、これまで大小10組ほど作りましたでしょうか。
江戸時代の雛道具を収集している女性からも、二人からリクエストをいただいて作りましたが、今回もよく似たリクエストをいただきましたので、鋭意、作らせてもらうつもりです。
話は変わって、数日、所要にてブログの更新はお休みです。
1月12日(木)、晴れ。
今日も朝方はしびれるような寒さでしたが、日中は暖かでした。
先ほど、もう一度SNSをサーチしていたら、次のようなものを見つけました。木津川市のふるさと納税返礼品サイトです。
熊沢良尊作将棋彫駒一式 - 京都府木津川市|ふるさとチョイス - ふるさと納税サイト (furusato-tax.jp)
そしてもう一つ、こんなのもありました。
香川愛生 Manao KagawaさんはTwitterを使っています: 「将棋界の人間国宝、駒職人の熊澤良尊先生の工房にお邪魔します。宝の山に違いありません‥ドキドキします‥! https://t.co/GXBpyfUJys」 / Twitter
宜しければ、ご覧ください。
でも、昨年取材を受けた関西テレビ「よーいドン、となりの人間国宝」の映像には出会いませんでした。探せばあるのかなあ。
1月11日(水)、晴れのち曇り。
日中は、暖かでした。
先日からいろいろあって、仕事の時間は削られておりますが、牛歩の如く、あわてず騒がず、「なるようになるさ。ケセラセラ」が信条です。
そんな中で、今年最初のふるさと納税返礼品、一組のリクエスト。
丁度良いことに手元には「錦旗の彫り駒」が2組あって、そのうちの1組をお届けしますので、一週間程度、お待ちいただきたいと存じます。
あ、その写真ですか。
明日にでも撮影してアップ致します。
本日はこれにて失礼。
1月9日(月)、晴れ。
今日は、成人の日だってね。
さっき知りました。
ところで、こんなユーチユーブを見つけました。
昨年、京都放送が取材してくれた動画です。
「理想の将棋駒を追い求める男性|木津川市|【ふるさとDays】 - YouTube」
15分程度ですが、ご覧ください。
1月5日(木)、曇り。
本日は、「断捨離」と「守破離」。
どちらも三文字熟語であり、同じ文字も入っている。
しかし意味は全然違っていますね。
「断捨離」は、身の回りの物を整理したり捨て去ることだけでなく、生き方も不要なものを整理して、スッキリした形にする意味もあって、その一つが小生の年賀状でもあります。
他方、「守破離」は、伝統芸能とか伝統工芸で良く使われる言葉ですが、今年、ある方から頂いた年賀状に、大きく「守破離」と書かれた一枚があり、続いて「昨年は還暦を迎え、十七世名人を襲名しました。若手と盤上での対話を楽しめるよう今年も精進を重ねたいと思います」とありました。
「守破離」の「守」は、習い覚えた手順や決められた形を守って努力するということなんでしょうし、「破」は、それを破るということであり、「離」は、さらにそれらから離脱して、なにごとにも拘りなく独自の心境で、まさに名人・達人の領域に至るということなんでしょうね。「名人、危所に遊ぶ」という言葉もあります。
工芸の世界の領域でもある駒づくりでも、そのような心境に到達することこそが理想なんでしょうね。
今日は、いただいた年賀状を拝見しての話でした。
1月4日(水)、曇りがち。
寒さは相変わらずの一日でした。
朝から、ワープロ作業。年賀状をいただいた方への返書原稿作成。
ハガキ一枚の内容ですが、あれこれ推敲しながらの作業につき、一日がかりになってしまいました。
ということで、今日のような日は1年にあるかないで、殆んど駒には触りませんでした。
ブログは昨日の続き。大和郡山と将棋の関係です。
江戸時代から廃藩置県。柳沢郡山藩は明治時代になって奈良県大和郡山市となり、柳沢家当主は保恵さんとなりました。
その保恵さん。貴族議員でもあり、統計学者でもありました一方、
将棋への肩入れは半端でなく、将棋界の隆盛を支えました。
その一端が前出の写真であり、その姿は、どうやら写真左の人物で、阪田三吉は「御前様のひいきがなかったら、わしはなかった。いまのわしはすべて御前様のお陰や」とも言っていたようです。
ところで、この駒の写真は、大変珍しいと思います。
駒は、俊光作ですが、駒箱に注目ください。菱型の家紋がありますよね。
家紋は柳沢家の「花菱」の一つであり、後にこの駒一式は保恵さんより木村名人に贈られたモノです。
この写真は、昭和60年頃に撮影したもので、加茂の工房に掲げています。
1月3日(火)、曇り。
昨夜、初夢を見ました。
中味は殆んど忘れましたが、何でも、奈良県大和郡山市が将棋関連で町起こしをする話で、夢の中は単なる幻想でしかありませんが、このとには、まんざらでもない繋がりがあるのですね。
大和郡山と言えば、古い城下町。
20年前までは、私も30年ほど住んでいたことがあります。
ここに「郡山文庫」という古い郡山柳沢藩の歴史を伝える資料館があって、私は誘われて、年に数回、歴史の話を聞きに通っておりました。
「郡山歴史サロン」のメンバーは、4人ほど。
お誘いくださったのは、堀井先生と言って、この「郡山文庫」の学者先生でした。
そのサロンに掲げられているのが古い写真で、次のようなモノでした。
これはなんだか分かりますか?
この写真は、大正4年に撮られたものですが、盤を挟んだ対局者は、左が小野五平十二世名人、右が関根金次郎八段のちの十三世名人。
私はすぐさま写真コピーを貰い受けて、現在は加茂の工房に展示しています。ブログは、それを写したもの。
では、なぜこの写真が柳沢文庫の応接室に掲げてあるのかです。
この続きは、また後程。
推測でも構いませんので、お分かりの方はコメントをお寄せ下さい。
1月2日(月)、曇り。
本日の映像。
頼まれていた補充駒、3種。
やっと出来上がりました。
先ずは、銀将と歩兵。
右下の3枚です。
他と比べてください。
文字の具合や、古色の汚れ色。いかがでしょうか。
そして桂馬。