浦安中年期外伝

カミさんを師匠に修行中の週末の料理やポタリング、読み散らしてている本の事など

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新坂川を下る

2011-08-13 11:08:00 | 自転車
今日は新坂川を下ってみることにしました。暑くなりそうなので早めに出かけて早めに帰ろうということで7時前から自転車を踏む。

さすがにこの時間だとまだ涼しくて快適。湾岸線を東進して江戸川を渡りそして左岸を遡上。

松戸水門から坂川放水路へ右折。

送信者 水門と橋その2



そして新坂川の入り口

送信者 水門と橋その2



したら、小金城趾駅のホームのまんなかをくぐってきた暗渠からの樋門が!
どうしたらこんな配置になっちゃうんだろうかしら。

送信者 水門と橋その2


新坂川沿いにあった案内板にはなかなか興味深いことが書かれていました。
新坂川は昭和8年から12年にかけて洪水対策に加えて恐慌で起こった失業・農民救済事業として削堀された川なのだそうだ。

新松戸、栄町、旭町、主水新田付近の江戸川左岸は美田地域で美味しいお米が取れる反面しょっちゅう洪水の被害にあっていたのだそうだ。


しかし、折角掘った新坂川だが、落差が足らず洪水被害は解消されなかったばかりか、昭和13年に起こった洪水では、鰭ケ崎の堰を開ける開けないで付近の村同士で争いが起こってしまったり、干ばつで水不足になってしまったりしたのだそうだ。

昭和30年になってあまりにも不運続きのこの新坂川の開削に関係した役員がせめて花見でもできるようにと桜を植えたのだという。


しかしその桜も今では一部しか残っていないのだと。

松戸市の河川清流課、郷土資料館は、続けて、この新坂川の面影が後世に残り、いつしか清流が復活して市民に親しまれる川になることを願っていますと語っている。


なんとも不運続きで地元の人たちからもそっぽを向かれているみたいな話じゃありませんか。しかしこんなことを書かれてしまう新坂川も不憫な川だなー。

なんて思いつつこの新坂川を下っていったわけですが、松戸付近の都市の構成とこの新坂川の流れはまったく整合しておらず、お互いにまるで無視しているかのようなつくりなっている気がしました。

道路に加えて流鉄流山線や常磐線が接近したり離れたりしながら併走していたりしているのも非常に不思議な立地になっているようでした。


ちゃんと運河も計算に入れて都市計画しないとおかしなことになっちゃうってことですかねー。こんなのってはじめてみた気がするわ。

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日差しが高くなってどんどん気温が高くなってきて、滝のように汗がだらだらと。3時間走りに走って帰って体重量ったら全然減ってないの。なんでかなー。