浦安中年期外伝

カミさんを師匠に修行中の週末の料理やポタリング、読み散らしてている本の事など

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隅田川神社について

2011-08-22 20:39:00 | 出来事
先日の隅田川稲荷神社の件の続きです。

「風水先生」を娘の巣から発見。なんでも持ち込んでそのまんまになっているブラックホールのような巣だ。
どうりて見つからないと思った。というか昨日確か一緒に探してくれてたのは君だったのになー。

早速、「風水先生」の江戸の項目を再び開く。しかし改めて読むとすごく不思議な内容になっていた。

利根川の付け替えを江戸幕府が1621年から着手し約30年かかって銚子方面へと流れを変えることに成功した。

この切断された首根っこの残骸が旧江戸川で、さらにこれを新しい人工川として飼い慣らしたのが荒川だ。ここには中川もくっつている。


荒俣氏の主旨としては、川を治めたときに龍封じの要石として神社仏閣を配したということ。
そしてその一つが隅田稲荷神社であったという。

荒川と隅田川がいちばん接近している鐘ヶ淵に、水神社こと隅田川神社が睨みをきかせている。この神社は、拝殿のうしろに隅田川、前に荒川をひかえ、ちょうど東西方向に参道をつけている。ふつう神社は南北軸に鳥居を立てるのだが、ここはふたつの川に向けて鳥居を立てている。しかもこの神社の使いはカメだ。カメといえば、大地を安定的に支える聖獣という意味がある。

時間軸でみるとこの表現はなんか変だ。入間川と荒川の表現が入り組んでて分かりにくい。そもそも江戸幕府が建立した時点で荒川を視野に入れて鎮守するというのはありえない話だ。


隅田稲荷神社の由緒では神社が建てられたのは1532年頃だという説があるとしている。江戸幕府が利根川を治水するよりも百年も前の話だ。しかも場所は今の場所よりも百メートルほど別の場所だとしている。百メートルどっち側なのかこの文章にはなぜか記載がない。

また別の説では、源頼朝が創建し、浮島神社、古くは水神社、水神宮、浮島宮などとも呼ばれ、「水神さん」として親しまれてきたなんて話もある。

安永手書江戸大絵図を広げてみた。この安永手書江戸大絵図は安永8年(1779年頃)に描かれたものだということが分かっている。

この地図では浅草川と表記されている隅田川の鐘ヶ淵の付近には木母寺の配置は確認できるが隅田川稲荷神社の気配は見えない。

木母寺は今、隅田川稲荷神社と隣接しているお寺だ。木母寺の周囲に目をこらすと、西側を浅草川、そしてその支流として古角田川という川が東側に流れ込んでいるのがみえる。

周囲を必死で探すが神社の気配はない。浅草川の対岸もみてみたけどもそれらしい表記を見つけることはできなかった。

安永手書江戸大絵図を前提にするなら浅草川と古角田川の間に要石としておき、両岸に鳥居を立てたとみるのが妥当な気がしますが。この東西の鳥居。隅田川稲荷神社の本来あった場所。そしてそれは何時のことだったのか。謎が深まってしまいました。

もう少し追っかけてみるのも面白い気がしてきました。