太極導引教室では現在、
基本科と専科のクラスがあるのですが、
練習の中身は太極拳の套路練習で変わりはありません。
つまりそれぞれの段階ごとに要求されるものが
少しずつ増えてくる仕組みになっています。
ところが初心者は基本科は簡単、専科は難しいと
考えているようです。
それはある意味では正しいのかもしれませんが、
難易をはかる基準が何によるのかによって
違ってくるとも思うのです。
一般的に浸透している太極拳の動きのイメージと
年齢体力を問わず誰でもできるという謳い文句につられて
“太極拳ならはじめてでもできそう”と
自分の中で想い描いていた幻想と
実際にやってみて味わう現実とのギャップの大きさに
たいていの人は大なり小なりの“ショック”を受けるものです。
こんなはずではなかったと思ったり
予想以上に難しく感じたりすることは、
ごくごく普通のことであり自然なことなのです。
だってそういうものなんですもの。
そういう自然なことがいっぱいあるのですが、
そういうことに気づけないでいるのが
初心者だと思うのです。
でも、それはダメなことですか?
恥ずかしいことですか?
一、二回練習した人が
「他の皆さんは上手ですね(=私はうまくない)」と
言っているのを聞くことがあります。
ご本人にとってはとても正直な感想であり
他意がないことも承知の上ですが、
三ヵ月、半年、一年、二年…それ以上と続けてきた人達を
前にしての発言としては、
ちょっとおかしくないですか?
こんな言い方をしては気の毒すぎるとは思うのですが、
一、二回でみんなと同じようにできるほどには
簡単ではないと思いますよ。
足手まといになるからとか、迷惑をかけるから、
自分よりもうまい人達と一緒だからとか。
そういうことが
はたして本人が続けられないことの理由になるのでしょうか。
ほんとの気持ちを見つめてみませんか?
思うようにならない自分に対して
ダメ出ししているのは誰ですか?
自分自身ではないですか?
要は好きか嫌いか、自分に合っていると思うか思わないか、
普通はそういうことで決めませんか?
自分がもう続けられないと思ったら
それだけで十分でしょう。
その他に理由をつけるときは
言い訳しなくちゃならないからでしょう。
その時点で既に自分のためのものではなくなっているのでは?
そうやって自分もしくは自分以外の周囲に
言い訳しなければならない状況が
ストレスになっているのではないですか?
そういう自分の傾向に気づいて、
少しずつ改善をはかっていくのも練習ではないかと
私は感じています。
ここで行っている練習は、みんなと同じになることよりも
自身の変化に気づくことが中心になっているような気がします。
体力や体型といった目に見える変化の他に、
個の意識がどんどん強くなっていくような、
自分についての理解が深まっていくようなところもあるからです。
自分自身のことで手一杯で
他人と比べて一喜一憂しているような余裕はないですね。
というか、そういうことには神経を使わなくなるみたいです。
集中力が出てくるということでもあるのかもしれません。
初心者の問い合わせに応える立場の方々にも、
そういう大切な基幹的な部分を
かれらにもっと説明してあげてほしいです。
一回の練習時間内に先生が伝えられることはごくわずかです。
また、かれらは不慣れな環境で練習しますので、
緊張もしているし先生の言葉を聞いているようでも
耳には届いていないこともあります。
そういう心理面のフォローは大切になってくるのではないかと思います
(たとえば、先生の連載コラムを参考資料として
案内書に添付するだけでも違ってくるのではないかと思います。
その場では理解できなくとも
後で振り返ることで理解することもありますから)。
基本は土台になるべきものですから大切です。
だからこそ基本科の要求は簡潔でありながら
実現させることは容易ではないのです。
でも難しい練習はしていないのです。
一見矛盾するようなことを体験する、身をもって知ることが
「入り口」の前に立つことなのだろうと思います。
それを面白いと思うか、興味を持つかは個人の意向です。
これより中に入るか入らないかは本人しだい。
そして時間をかけてじっくり学びたい人もいれば、
何度となく立ち返っては学び直す必要を感じる人もいる
ということだと思います。
生意気であることは重々承知、
風通しのよいコミュニケーションは簡潔さではないかと思います。
なお、今回は厳しい内容になってしまいましたが
特定の個人に向けたものではありませんので。
以前からずっと感じてきていたことです。
基本科と専科のクラスがあるのですが、
練習の中身は太極拳の套路練習で変わりはありません。
つまりそれぞれの段階ごとに要求されるものが
少しずつ増えてくる仕組みになっています。
ところが初心者は基本科は簡単、専科は難しいと
考えているようです。
それはある意味では正しいのかもしれませんが、
難易をはかる基準が何によるのかによって
違ってくるとも思うのです。
一般的に浸透している太極拳の動きのイメージと
年齢体力を問わず誰でもできるという謳い文句につられて
“太極拳ならはじめてでもできそう”と
自分の中で想い描いていた幻想と
実際にやってみて味わう現実とのギャップの大きさに
たいていの人は大なり小なりの“ショック”を受けるものです。
こんなはずではなかったと思ったり
予想以上に難しく感じたりすることは、
ごくごく普通のことであり自然なことなのです。
だってそういうものなんですもの。
そういう自然なことがいっぱいあるのですが、
そういうことに気づけないでいるのが
初心者だと思うのです。
でも、それはダメなことですか?
恥ずかしいことですか?
一、二回練習した人が
「他の皆さんは上手ですね(=私はうまくない)」と
言っているのを聞くことがあります。
ご本人にとってはとても正直な感想であり
他意がないことも承知の上ですが、
三ヵ月、半年、一年、二年…それ以上と続けてきた人達を
前にしての発言としては、
ちょっとおかしくないですか?
こんな言い方をしては気の毒すぎるとは思うのですが、
一、二回でみんなと同じようにできるほどには
簡単ではないと思いますよ。
足手まといになるからとか、迷惑をかけるから、
自分よりもうまい人達と一緒だからとか。
そういうことが
はたして本人が続けられないことの理由になるのでしょうか。
ほんとの気持ちを見つめてみませんか?
思うようにならない自分に対して
ダメ出ししているのは誰ですか?
自分自身ではないですか?
要は好きか嫌いか、自分に合っていると思うか思わないか、
普通はそういうことで決めませんか?
自分がもう続けられないと思ったら
それだけで十分でしょう。
その他に理由をつけるときは
言い訳しなくちゃならないからでしょう。
その時点で既に自分のためのものではなくなっているのでは?
そうやって自分もしくは自分以外の周囲に
言い訳しなければならない状況が
ストレスになっているのではないですか?
そういう自分の傾向に気づいて、
少しずつ改善をはかっていくのも練習ではないかと
私は感じています。
ここで行っている練習は、みんなと同じになることよりも
自身の変化に気づくことが中心になっているような気がします。
体力や体型といった目に見える変化の他に、
個の意識がどんどん強くなっていくような、
自分についての理解が深まっていくようなところもあるからです。
自分自身のことで手一杯で
他人と比べて一喜一憂しているような余裕はないですね。
というか、そういうことには神経を使わなくなるみたいです。
集中力が出てくるということでもあるのかもしれません。
初心者の問い合わせに応える立場の方々にも、
そういう大切な基幹的な部分を
かれらにもっと説明してあげてほしいです。
一回の練習時間内に先生が伝えられることはごくわずかです。
また、かれらは不慣れな環境で練習しますので、
緊張もしているし先生の言葉を聞いているようでも
耳には届いていないこともあります。
そういう心理面のフォローは大切になってくるのではないかと思います
(たとえば、先生の連載コラムを参考資料として
案内書に添付するだけでも違ってくるのではないかと思います。
その場では理解できなくとも
後で振り返ることで理解することもありますから)。
基本は土台になるべきものですから大切です。
だからこそ基本科の要求は簡潔でありながら
実現させることは容易ではないのです。
でも難しい練習はしていないのです。
一見矛盾するようなことを体験する、身をもって知ることが
「入り口」の前に立つことなのだろうと思います。
それを面白いと思うか、興味を持つかは個人の意向です。
これより中に入るか入らないかは本人しだい。
そして時間をかけてじっくり学びたい人もいれば、
何度となく立ち返っては学び直す必要を感じる人もいる
ということだと思います。
生意気であることは重々承知、
風通しのよいコミュニケーションは簡潔さではないかと思います。
なお、今回は厳しい内容になってしまいましたが
特定の個人に向けたものではありませんので。
以前からずっと感じてきていたことです。