ひさしぶりの更新です。
べつに書きたいことがなかったわけではなく、
書くこと自体をためらわせるようなことが
ちょっとあったりしたのです。
まあ、いろいろとあるものです。
太極導引の要求には
いかなる場合でもなるべく放松し
心を平らに保つことがあります。
たとえば意に反するようなことに対しても
直接的には対抗せず、
なんとかして自分に圧(負担)をかけないように
行動します。
しかしそれは何でも受けいれるという意味でも
屈することでもありません。
対抗はしないが無抵抗ではない。
これはかなりな高等戦術ではないかと思っています。
しかし当然のことながら
受けいれられないこともあります。
その判断をどのような状態でくだすのか。
命に関わることならば即断即決ですが、
そうでない場合はしばらく様子をみることも
有効なのかもしれません。
生理的にどうしても
受け付けられないようなこともありますし
(俗に言う“いやなものはいや”というものです)。
こうした対象もなるべく減らせる方が
穏やかでいられるだろうなとは思うのですが、
生理的反射的反応のようなもの、
あるいは苦手意識のような気持ちを
すべて否定して悪者にしてしまう必要もないのでは?
とも思います。
嫌なものがあるからこそ
反対に好きなものが際立ってくるともいえますし、
それはまた自分の一面や志向、性質のようなものを
知ることにもなり、
つまりはひとつの個性だろうと思うからです。
また、良いとか悪いとか、
正しいとか間違っているとかの問題ではない
こともあります。
気持ちの問題などは
そういう類いのものではないでしょうか。
受け手にしてみれば、
強引としか思えないような思いやりをかけられても
それは迷惑なだけで、
それはもはや思いやりとはいえないのではないか。
もしも自分の意と反する状況に遭遇した時、
自分の気持ち寄りに立つのか
相手の気持ち寄りに立とうとするかによっても
互いの距離感覚は変動しますから、
その折り合い点(中心点)の位置も変わってきます。
自分、相手、互いの折り合い点と
3つのポイントが微妙な距離を
つくり出しているのかとも思います。
したがって間のとり方が
互いにとって心地良ければ良好な関係となり、
そうでない時はそれなりの関係となっているのでは?
自分にとっては遠く感じるくらいが
相手にとっては心地良かったりするのも
自分と相手の距離感の差であり、
それでも相互の折り合い点が
互いの許容範囲におさまっているから
関係性が保たれているのかもしれません。
そして気持ち自体が
流動的なものであることも考慮すれば、
導引的アプローチがいかせそうな場でもありそうですが、
まだまだとてもそんなところまでは…。
ということでぼちぼちと再開です。
べつに書きたいことがなかったわけではなく、
書くこと自体をためらわせるようなことが
ちょっとあったりしたのです。
まあ、いろいろとあるものです。
太極導引の要求には
いかなる場合でもなるべく放松し
心を平らに保つことがあります。
たとえば意に反するようなことに対しても
直接的には対抗せず、
なんとかして自分に圧(負担)をかけないように
行動します。
しかしそれは何でも受けいれるという意味でも
屈することでもありません。
対抗はしないが無抵抗ではない。
これはかなりな高等戦術ではないかと思っています。
しかし当然のことながら
受けいれられないこともあります。
その判断をどのような状態でくだすのか。
命に関わることならば即断即決ですが、
そうでない場合はしばらく様子をみることも
有効なのかもしれません。
生理的にどうしても
受け付けられないようなこともありますし
(俗に言う“いやなものはいや”というものです)。
こうした対象もなるべく減らせる方が
穏やかでいられるだろうなとは思うのですが、
生理的反射的反応のようなもの、
あるいは苦手意識のような気持ちを
すべて否定して悪者にしてしまう必要もないのでは?
とも思います。
嫌なものがあるからこそ
反対に好きなものが際立ってくるともいえますし、
それはまた自分の一面や志向、性質のようなものを
知ることにもなり、
つまりはひとつの個性だろうと思うからです。
また、良いとか悪いとか、
正しいとか間違っているとかの問題ではない
こともあります。
気持ちの問題などは
そういう類いのものではないでしょうか。
受け手にしてみれば、
強引としか思えないような思いやりをかけられても
それは迷惑なだけで、
それはもはや思いやりとはいえないのではないか。
もしも自分の意と反する状況に遭遇した時、
自分の気持ち寄りに立つのか
相手の気持ち寄りに立とうとするかによっても
互いの距離感覚は変動しますから、
その折り合い点(中心点)の位置も変わってきます。
自分、相手、互いの折り合い点と
3つのポイントが微妙な距離を
つくり出しているのかとも思います。
したがって間のとり方が
互いにとって心地良ければ良好な関係となり、
そうでない時はそれなりの関係となっているのでは?
自分にとっては遠く感じるくらいが
相手にとっては心地良かったりするのも
自分と相手の距離感の差であり、
それでも相互の折り合い点が
互いの許容範囲におさまっているから
関係性が保たれているのかもしれません。
そして気持ち自体が
流動的なものであることも考慮すれば、
導引的アプローチがいかせそうな場でもありそうですが、
まだまだとてもそんなところまでは…。
ということでぼちぼちと再開です。