太極拳導引の鍛錬内容には
組み手(対練)はありません。
推手をやることもあるにはありますが
そのときは通常行っている
導引に基づく練習とは切り離します。
導引的アプローチによる鍛錬の場合、
意識はつねに自身の内へと
向けることに集中します。
つまり自己の外の世界のことは一切無視して
自己内に集中するわけです。
とにもかくにもまずは自分に向けて
意識を集中します。
この一点をもってしても
太極拳養生鍛錬法としての太極拳導引が
武術要素を排除していることは明らかです。
なぜなら武術は格闘の術ですから
対峙する他者が必ず存在します。
武術的鍛錬は自己と他者との攻防を意識した
練習となるわけで、
当然のことながら他者にも意識を向けることになります。
自己のみに集中する導引的鍛錬と
自他双方の関係性を意識する武術的鍛錬との違いです。
そして推手もまた他者との組み手練習(対練)ですから
太極拳導引の練習とは本来相容れない内容かと。
それゆえ太極拳導引の練習として
取り組むにはちょっと無理があるわけで、
おそらくは推手っぽいことにすぎないのかもと
思っています。
ですが、それでもあえて相容れないことを
承知の上でやってみることで
改めて導引的鍛錬の本質を理解する機会というか
きっかけになることはあり得ることかとも
思うわけです。
いつもと違った刺激、視界から
導引三調を見直してみる試みというのは
けっして無駄にはならないだろうと。
もともと推手を行う目的は
自分の理解の程を確認するためのもの。
武術であれば日頃の套路練習で培ったものを
対人での攻防を通して確認するのでしょう。
そして導引的鍛錬も同じく
日頃の套路練習で培ったものを
他者と対する場面で味わう(体験する)
自身の内面にみるさまざまな変化を観察し
自己調整を試みて確認する
とでもいえばよいのでしょうか。
これらはあくまで私見であり
戯れ言みたいなものにすぎません。
それにこの先、考え方が変わることも
十分にあり得ます。
進化の過程でのつぶやきみたいなものですけども
こうしてたまには目先を変えてみることも
悪くはないのではないかなと。
組み手(対練)はありません。
推手をやることもあるにはありますが
そのときは通常行っている
導引に基づく練習とは切り離します。
導引的アプローチによる鍛錬の場合、
意識はつねに自身の内へと
向けることに集中します。
つまり自己の外の世界のことは一切無視して
自己内に集中するわけです。
とにもかくにもまずは自分に向けて
意識を集中します。
この一点をもってしても
太極拳養生鍛錬法としての太極拳導引が
武術要素を排除していることは明らかです。
なぜなら武術は格闘の術ですから
対峙する他者が必ず存在します。
武術的鍛錬は自己と他者との攻防を意識した
練習となるわけで、
当然のことながら他者にも意識を向けることになります。
自己のみに集中する導引的鍛錬と
自他双方の関係性を意識する武術的鍛錬との違いです。
そして推手もまた他者との組み手練習(対練)ですから
太極拳導引の練習とは本来相容れない内容かと。
それゆえ太極拳導引の練習として
取り組むにはちょっと無理があるわけで、
おそらくは推手っぽいことにすぎないのかもと
思っています。
ですが、それでもあえて相容れないことを
承知の上でやってみることで
改めて導引的鍛錬の本質を理解する機会というか
きっかけになることはあり得ることかとも
思うわけです。
いつもと違った刺激、視界から
導引三調を見直してみる試みというのは
けっして無駄にはならないだろうと。
もともと推手を行う目的は
自分の理解の程を確認するためのもの。
武術であれば日頃の套路練習で培ったものを
対人での攻防を通して確認するのでしょう。
そして導引的鍛錬も同じく
日頃の套路練習で培ったものを
他者と対する場面で味わう(体験する)
自身の内面にみるさまざまな変化を観察し
自己調整を試みて確認する
とでもいえばよいのでしょうか。
これらはあくまで私見であり
戯れ言みたいなものにすぎません。
それにこの先、考え方が変わることも
十分にあり得ます。
進化の過程でのつぶやきみたいなものですけども
こうしてたまには目先を変えてみることも
悪くはないのではないかなと。
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