夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

『日本の夏・八月は 六と九で十五だ』、遅ればせながら私は5年前に教示され・・。

2013-08-02 12:32:46 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であるが、
私の父は私が小学2年の三学期に、肝臓を悪化されて亡くなり、
母は私が53歳の時に、婦人系の癌で死去した。

家内の父は、私が民間会社のサラリーマンの定年退職の2004〈平成16〉年の秋の直前に、
腎臓を悪化されて亡くなり、私たち夫婦のお互いの両親は、無念ながら家内の母だけとなっている。

家内の母は我が家から電車・バスなどを乗り継いて2時間ばかりの千葉県の八千代市で、
一戸建ての独り住まいの生活をされている。

私より14歳ばかり齢上の高齢者である家内の母は、
独り住まいの生活をされて、早や8年が過ぎている・・。
そして特に家内の母が独り住まいの生活をされた頃からも、
私たち夫婦は家内の母を誘い、幾たびか温泉滞在旅行などの旅を重ねたりしていた。
              
こうした中で、『生きているうちに・・一度は長崎の『原爆資料館』を観てみたいわ・・』、
と家内に要望されたので、
私たち夫婦と家内の母と3人で、過ぎし2008(平成18)年2月中旬の時に長崎を訪れた。


家内の母の根底には、戦時中の時は、新潟の高田町(現在・上越市)で青春期の女学校の時、
多くの同級生と共に軍事工場に働き過ごした身であり、
この当時の日本が敗戦にたどる時期を悲惨と過酷な時期を実感してきたので、
この前後も、何かと慰霊の心情を深めて、沖縄の『ひめゆりの塔』や『平和記念館』など、
その後は鹿児島の『知覧 特攻平和会館』なども、私たち夫婦も同行してきた。


そして長崎を訪れている間、私は家内たちとは別行動で、独りで長崎の各所を拝観したりした。
こうした中で、私は何かしら後ろめたいような心情で、長崎の『原爆資料館』に初めて訪れた。

そして、改めて過酷な実態を知り、その当時のことはもとより、
被爆された後からも、心身ともに苦痛な日々を過ごされている人たちを思うと、
私は『原爆資料館』を辞する時、涙があふれた・・。

私は旅立つ前に、永井 隆(ながい・たかし)氏の略歴を学んだりしていたので、
未知の長崎医学大学の前を歩いたりし、
初めて訪れる『長崎市 永井隆記念館』を探し求めながら、
氏の人生の歩みに圧倒される思いを馳せたりし、小春日和の中を独り歩いたりした。
               
やがて『永井隆記念館』で拝見した後、売店で買い求めた本が、
永井 隆 ・著作の『長崎の鐘』(1946年)、そして『この子を残して』(1948年)で、
私は旅先のホテルで、遅れはせなから初めて読んだりした・・。

この本の中に栞(しおり)があり、
《 日本の夏・八月は
        六と九で十五だ  
 忘れない広島・長崎・終戦の貴重な体験  ながいまこと 》
と明記されていた。

ながいまこと氏は、永井 隆氏の御子息であり、
長崎市立の『永井隆記念館』の館長をされている永井誠一氏である。

私は氏の《 日本の夏・八月は 六と九で十五だ 》のフレーズは、
確かな日本の夏の命言、と深く教示され、今でもこの栞(しおり)を大切にしている。
          

私は1944〈昭和19)年9月に東京郊外で農家の三男坊として生を受け、
翌年の1945〈昭和20)年8月15日に日本は連合国に降伏し、敗戦となった時、
一歳未満の乳児であったので、戦争を知らない世代のひとりである。

しかしながら少なくとも沖縄戦が事実上終結した6月23日の『沖縄慰霊の日』、
対戦中のアメリカが、人類史上初めて広島市の市街に原子爆弾を投下された8月6日の『広島被爆』、
その後まもない9日の『長崎被爆』、
そして15日の終戦記念日と称された『敗戦記念日』は、黙祷をして36年は過ぎている・・。

かの大戦に於いて、もとより余りにも多くの方たちが亡くなわれて、
尊い犠牲の上で、今日の日本の心の平和の礎(いしずえ)である、と確信を深めながら、
戦争を知らない私でも、深い心の傷として今日に至っている。

このような思いから、私は国民のひとりの責務として、 黙祷をして尊い命の冥福を祈っている。
               
こうした中で私は年金生活をしている今、たとえば読書に関しては、
この8月の時節になると、原 民喜・著作の『夏の花』(1947年)、阿川弘之・著作の『春の城』(1953年)、
竹西寛子・著作の『管絃祭』(1963年)、井伏鱒二 ・著作の『黒い雨』(1966年)、
福永武彦・著作の『死の島』(1966年)などを、
若き日に文学青年の真似事をしていた時代に読んだりしてきたので、
この作品を思い馳せたりし、『広島』に心を寄せたりしてきている・・。

そして永井 隆 ・著作の『長崎の鐘』を再読し、『長崎』に思いを馳せたり、
6月23日の『沖縄慰霊の日』を始めとする『沖縄』と、
8月15日の『終戦記念日』と称せられる『敗戦記念日』の本に関しては、
もとより数多くの本を読んだりしてきているのが、今回は省略する。

このような私の真情から、永井 隆氏の御子息の永井誠一氏の至言、
《 日本の夏・八月は
        六と九で十五だ  
 忘れない広島・長崎・終戦の貴重な体験  ながいまこと 》
確かにそうですよねぇ、と私は深く思いながら、早や5年が過ぎている。

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『お盆の日』、私の住む地域は、古来より8月1日となり・・。

2013-08-01 12:33:36 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であるが、
私の地域は世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅の処で、生家に近く、
古来より8月1日のこの日は『お盆の日』となっている。

私は東京の郊外に1944(昭和19)年に農家の子の三男坊として生を受けた。
祖父、父が中心となり、程ほどの田畑、竹林、雑木林を維持管理していた。
そして、田んぼの外れに半反ぐらいの150坪前後の広さの蓮(ハス)専用の水田があった。

私は父、そして祖父が亡くなる小学三年生の頃までを思い浮かべて、
この当時の『お盆の日』を思い馳せていたが、遠い60数年前のことであるので、
後年に母、父の妹の叔母、叔父、長兄などから、私は訊(き)いたりしていたことも重ね、
心の片隅に残された記憶のかけらを頼りに思い馳せたりした・・。
               
【迎え火】の前には
7月30日の午前中のひととき、
父か仏間にある仏壇から位牌と仏具一式を取り出した後、仏壇の扉は、このお盆の期間だけ閉じられ、
この前に畳一帖ぐらい台に盆棚と称せられたこのお盆の時だけの棚が設置された後、
この盆棚に移された。

そして盆棚の中央の奥に位牌を置き、周辺に野菜、果物を供えられ、
胡瓜(キュウリ)に割り箸のような足を付け馬を見立て、
茄子(ナス)も同様な形で牛に見立てたものを飾っていた・・。

後年になると、叔父さんから、馬は祖先の霊に乗って、この世にに戻り、
牛はお墓に戻る時に乗って帰られる、と私は教えられたりした。

そして台の手前は、座布団を敷き、その脇に桶に水を入れ、蓮(ハス)の葉に茄子(ナス)を小さく刻んだのを浮べ、
淡いピンクのミソ萩を小箒(こぼうき)のように作ったのを、水にしたし、清めていた。
そして台の左右に、この時節の百合(ユリ)の花などの草花を飾り、この中で蓮(ハス)の花が中核となっていた。
               
この日の夜から、お盆の送り火が終えるまで、
朝昼夜に水とご飯、そしてボタ餅を供えたりしていた。

【迎え火】の当日は
この日の夕刻になると、稲の藁(ワラ)で作った松明(たいまつ)の灯りを祖父か父が持ち、
先頭に立って、家族一同で祖先が埋葬されているお墓に行った。

帰路は参列者の家族は、おのおの手を後ろに組み、あたかも祖先を背中に乗せて、帰宅した後、
盆棚の前で手を解き、祖先を安置する。
こうしたことが、この地域の迎え火の暗黙のしきたりとなっていた。

【お盆の日】の当日は
午前中のひととき叔父、叔母をはじめとする親戚、縁者が来宅して頂き、
盆棚で各自お線香を上げて頂き、盆棚の近くの広間で、煮しめ、ボタ餅を食べながら、
世間話をしたりて、帰宅して頂く。
この間、僧侶を招き、読経をして頂くのが、恒例となっていた。

【送り火】の当日は
お盆の日の当日の夕刻、家族は盆棚の前で、各自に手を後ろに組み、あたかも祖先を乗せて、
お墓に行き、手を解くのが、送り火と定められていた。

その後は、盆棚は整理され、位牌、仏具などは、いつものように安置している仏壇に納められる。

このような『お盆の行事』は生家としては江戸時代の中期の頃から継続されていたが、
このように現在として記憶しているが、遠い昔の出来事であるから、
定かでないが、心に残っている。
               
ここ30数年、社会状況は大家族の風習は崩壊し、核家族化が進展している中、
生家も『お盆の行事』は簡素となっている。

私が2004〈平成16〉年の秋に定年後になると、
家内と共に翌年の8月1日の『お盆の日』は、朝の9時半前に、生家の実家となる長兄宅に行っている。

そして簡略となった盆棚でお線香を上げ、長兄夫婦と談笑した後、
この後に来宅された親戚の叔父、叔母たちに、私の少年期まで何かとお世話になったので、
この当時の頃の話を、私は話題にしたりすることが多く、私が知らなかったことが多々あり、
私は微苦笑しながらも教示を受けたりしている。
このようなことが今日まで続いている・・。

この後、私たち夫婦は長兄宅を辞した後、お墓参りに向う為に、
自宅に戻り、お線香、お米を持ち、途中で花屋に寄り、生前の母が好きだったお花を買い求めたりしている。

やがてお寺に着くと、境内は広く、大きな樹木が数多くある上、平日の日が多いので一層に静寂となる。
そして外気は、暑さを樹木の枝葉がさえぎっているので、幾分涼しげとなる・・。
ときおり、蝉(セミ)の声が境内と墓地の間の大きな樹木から聞こえるのが、
毎年の習性のような情景となる。

私は少なくともお墓参りは、生者の慰めと知っているが、
亡くなった父と母、そして祖父に守られ、こうして私は生きてこられてきたのは、
まぎれないことであるので、私は感謝の一心で、お墓参りをしている。

家内は母が生前の時、ある程度の遠慮がお互いにあった上、
何かと心身の波長が合い、私は今でも家内と母に秘かに、今でも感謝している。

お墓に行き、墓石を水で清め、お花を挿して、お米を備える。
そして、お線香を奉げる。
私はお参りをするたびに、母のおもかげがよぎる。
               
私の場合は、父が私の小学校の2年の時、
その一年後に祖父も死去されたので、何かと母の存在が多かった。
このためか、ときたま生前の母のわずかなしぐさ、言葉づかいが想いだされる。
お線香の煙が芳香を残して、空の中、立ち昇りながら消える・・。

その後、水屋の周辺の大木の樹木の中、
蝉(セミ)の鳴き声が響きかせながら、盛大に聴こえることが多いのである・・。

このように私は、旧来からのこの日の『お盆の日』を迎えている。

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