夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

老人週間の中、昨今の社会状況に、ささやかな願いを秘めて・・。

2014-09-17 13:48:19 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市の片隅みに住む年金生活の身であり、
そして私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。

こうした中で、私は9月下旬の誕生日を迎えると古希と称される70歳となり、
家内も12月下旬の誕生日を迎えると65歳となり、介護保険証を受ける身となっている。

こうした中、一昨日は『敬老の日』を迎え、『老人の日』とも別称されて、
この日から21日までの1週間は『老人週間』と制定されている。

私はまもなく70歳となるが、『老人』は後期高齢者と称せられる75歳以上の方と思っている。
そして75歳以上は1590万人、8人に1人となり過去最高となっている。

もとより敗戦後の荒廃した日本を、少なくとも世界の主要国の中でも、
有数な経済大国の礎(いしずえ)を努力と英知で築かれた人々であり、
日本に住む私たちがこうして生活を享受できているので、尊敬の念を抱(いだ)いている。
            
   
何かしら『全国社会福祉協議会』に於いては、
①国民の間に老人の福祉への関心と理解を深める。
②老人が自らの生活に努める意欲を促す。と明示されている。
提唱されているが、老人の方にとっては余計なお節介かしら、と私は漠然としながらも感じたりしている。

それぞれの老人は、自助努力で『健康』と『生きがい』を保持し、そして悩ましい『預貯金』を崩しながら、
大半の方たちは堅実に晩年期を生活されている、と感じたりしている。

確かに老人は身体は衰えているが、心は健(すこ)やかなであり、何より知恵がある。
そして私たち世代、団塊の世代はもとより、若い諸兄諸姉の世代の人は、
こうした人生の知恵を学べは良い、と思ったりしている。
          

私はまもなく70歳となる身であるが、若い諸兄諸姉の世代の人に期待するのは、
言葉づかいと動作の粗雑であることにつきる。

そして働いていて下さる諸兄諸姉は短期に成果を問われる難題の中、、
街中でスマートフォンを歩きながらは危険であるし、まして自転車に乗りながら視ることは、
論外と確信している。

もとより学生の一部の方も含まれ、私は憂いたりしている。


私は買物などで狭い歩道を歩いたり、街中で先代の諸兄諸姉とすれ違う時、
たとえ両手に重い荷物を持とうが、道を開ける。

或いは公園などでポッンとベンチに座っている方を見かけると、最低限として挨拶程度の言葉をかけたりしてきた。

こうしたことは、少なくとも先代の諸兄諸姉に対して、礼節と思っている。
          

しかしながら私は65歳以上の高齢者全般の方たちに困惑することもある。
たとえば、公共の場で恥知らずな言動をするグループを見かけると、老害と思っている。
特にご婦人の方に多いのは、女性にいつまでも憧憬(しょうけい)している私としては、
はなはだ残念と思ったりしている。

あなた方の持っていた羞恥心という美徳はどうされたのですか、人前でご迷惑を感じていないのですか、
そして、お孫さんに恥ずかしくないのですか、と私は憂(うれ)う時もある。

☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へにほんブログ村
人気ブログランキングへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

定年後の年金生活の中、『特定健診』を受診して10年、大いに変貌し溜息を重ねて・・。

2014-09-16 12:52:46 | ☆夢幻のような安楽な60代☆
私は東京郊外の調布市の片隅みに住む年金生活の身であり、
そして私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に築後35年を迎えた古ぼけた一軒屋に住み、
お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

私は民間会社の中小業に35年近く勤め、2004年〈平成16年〉の秋に定年退職後、
その直後から多々の理由で年金生活をしている。

そして私より5歳若い家内も、お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。

こうした中で、私は9月下旬の誕生日を迎えると古希と称される70歳となり、
家内も12月下旬の誕生日を迎えると65歳となり、介護保険証を受ける身となっている。
          

こうした中で、調布市から2か月前に、年に一度の『特定健診』の通知書を頂き、
私は3週間前に最寄りの内科病院に予約し、
本日の午前中のひととき、雲が三つばかりある晴れ間の中、少し体重が減ったかしら、と思いながら、
人影のない遊歩道をスキップするように軽やかに歩いて向った・・。

年に一度の健康診断は、以前は『お誕生日検診』と平成19年度まで称されていたが、
何かしら基本健診に血圧測定、血液検査などが加味され、『特定検診』と改称された。

私は健康診断を受診する時、基本健診としては、
身長、体重、採血、心電、尿検査、血圧測定などが行われた後、最後に医師との問診となっている。
そして胃がん、大腸がんの検診もある。
          
私は何よりも苦手な検診は、『胃がん検診』である。

バリウムの白い検査薬を飲むのは苦手で、私なりに苦痛のひとときを毎年味わっている。
その上、前夜の夜9時過ぎから水を含めて飲食は避けた上、
そして当日の喫煙、歯磨きはしないて下さい、と制約されていた時代もあった。

やがて3年前の頃から、仲良しとなった40代のなかばの男性の医師からは、
XXさん・・朝方でも少しだけ水を飲んでも大丈夫ですから、
とアドバイスを受けたりしてきたので、微苦笑したりしてきた。

こうしたことで苦手のバリウムによる胃の撮影が終ると、ほっとするのである。

しかし、8年前に、ある総合病院で受診した時、
40代の男性技師のもとで、検査したのであるが、終ると何故かしら首をかしげた後、
私の方に近づき、
『本当に申し訳ないのですが・・機械の故障で・・
別棟の検査室で、もう1度撮影させて下さい・・』
と云われ、私は40代の男性技師に先導されて、別棟に歩いた後で、
再び苦手なバリウムを飲んだりした。
          

7年前の時は、30歳前後の若き女性技師で、私としては瞬時に魅了された美しい顔立ちの方が、
『少し仰向けになって下さい・・
位置を変えて・・横向きにうつ伏せ気味になって下さい・・』
と甘い声の指示を聴きながら、私は検査を受けたりした。

私はバリウムさえ飲まなければ、
年金生活の自由な身の私としては、何時間かかっても良い、と余計なことを思ったりしたこともあった。


私は健康診断を受診する時の下着は、
平素と同様に、下半身はパンズ型のトランクスであり、
上半身の方はランニング型であるが、殆ど袖なしのTシャツを着ている。

この袖なしのTシャツは、ポップス系で若手に人気のあるTOKIOというグループがいるが、
この中のひとり長瀬智也さんが、以前ドラマの中で着ていたので、
私は魅了されて、家内に頼んで購入した貰ったのは、定年退職の3年前頃であった。

この後も、年金生活に入った後は、自在の服装が出来るので、
この袖なしのTシャツを真冬以外は、愛用している。

半袖か長袖のスポーツ・シャツを羽織って、
5月過ぎから秋まで買物、散策に出かけることをしてきた。

そして私は、恥ずかしながら胸毛があり、苦手な加山雄三さんのようにあるが、
65歳の頃から少し白髪が増してきたが、心は若い方の感性と余り変わらないと思っているので、
このような容姿となっている。

確か6年前の総合病院でレントゲンの健診の時、
30歳前後の稀(ま)れな美麗な女性技師の方で、
私は急いで長袖スポーツ・シャツ、そして袖なしのTシャツを脱いで、上半身は裸となった。

『XXさん・・下着は着ていても・・大丈夫ですから・・』
と笑いながら、忠告されたのである。
                              
この後、身長測定のの時、
『はい・・1メートル69.5ですね・・』
とアシスタントの女医さんから云われた。

『齢を重ねると・・少し縮〈ちじ〉むのですね・・』
と私は明るく云った。
『ご年配の方は・・よくある傾向ですわ・・』
と云われた後、
私は長い間、1メートル70の時代であったが、
0.5センチばかり縮〈ちじ〉んだことに、齢を実感させられた。

体重も70キロ代となり、
家内と結婚した当時は、56キロの細身体が懐かしく、
『俺も・・71かょ・・』
と平素の身勝手な日常を振り返ったりしたりした。

そして、多少太っていても、心身元気であれば良いではないか、
と62歳の自分を慰めていたりした時もあったりした。
          

このように毎年、私は健康診断を受診をしてきたが、胃がん検診に伴い、
前日の夜からの水分制限、そしてバリウムの白い液体薬は齢を重ねても苦手であるが、
これ以外は楽しい受診のひとときを過ごしたりしている。

そして私は健康診断を欠かさず受診してきたのは、
何よりも自身の身体の弱点を知り、
弱点を指摘されれば、ある程度の治療、或いは自身の努力で克服できればよい、
と至って常識的な思考の身なので、
健康診断を受診せず放棄している人は、自身の命を粗末にしている、と思ったりしている。

本日のひととき、『特定健診』を受診して10年となる中、
何よりも驚いたのは身長と体重の測定後であった、

定年した直後の身長は、170センチであったが、168.5センチ、と身長測定後にアシスタントの女医さんから云われた。
『定年した時から、10年間の中で1.5センチ縮〈ちじ〉んでしまった』
と私は驚きながら云った。
『ご年配の方は・・どうしても背骨が曲がってしまいますので・・』
とアシスタントの女医さんから慰めのように言われたりした。

そして体重も定年した直後は70キロであったが、76キロと測定後に言われ、
この10年で大きく変貌し、溜息を重ねながら、
年金生活の60代の10年間の日々は享受してきたのだから、と微苦笑しながら自身を慰めたりした。


☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
strong>
にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へにほんブログ村
人気ブログランキングへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

敬老の日を迎え、少額の医療費の方こそ感謝状が肝要と、願いを深めて・・。

2014-09-15 12:12:50 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市の片隅みに住む年金生活の身であり、
そして私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。

こうした中で、私は9月下旬の誕生日を迎えると古希と称される70歳となり、
家内も12月下旬の誕生日を迎えると65歳となり、介護保険証を受ける身となっている。


昨夜、ネットで総務省が公表された高齢者の実態を『朝日新聞デジタル 』読み、学んだりした。
《・・総務省は14日、「敬老の日」に合わせて15日現在の高齢者の人口推計を公表した。
65歳以上の高齢者人口が3296万人(総人口の25・9%)、
75歳以上が1590万人(同12・5%)となり、いずれも過去最高。
「団塊の世代」の1949年生まれが65歳になったのが一因で、4人に1人が高齢者、8人に1人が75歳以上となる。

男女別では、男性の高齢者が1421万人(男性人口の23・0%)、女性が1875万人(女性人口の28・7%)。
そして年齢別では、70歳以上が2383万人(総人口の18・7%)、80歳以上が964万人(同7・6%)。

また、5年ごとに行われる住宅・土地統計調査(2013年)によると、
高齢者のいる世帯は2086万で、初めて2千万世帯を超えた。うち高齢者の単身世帯は552万世帯に達した。・・》
          

この後、私は内閣府が昨年に公表された『高齢化の現状と将来像』の中で、
65歳以上の高齢者人口の推移として、昭和25年(1950年)には総人口の5%に満たなかったが、
昭和45年(1970年)に7%を超え(国連の報告書において「高齢化社会」と定義された水準)、
さらに、平成6年(1994年)にはその倍化水準である14%を超えた(「高齢社会」と称された)。
高齢化率はその後も上昇を続け、現在、25.1%に達している。

そして肝要な生産年齢人口(15~64歳)は、
平成7年(1995年)に8726万人でピークを迎え、その後減少に転じ、
平成25年(2013年)には7901万人と昭和56年(1981年)以来32年ぶりに8000万人を下回った。
          

この後の私は、65歳以上の高齢者人口と生産年齢人口15~64歳の生産年齢人口の比率を見たりし、
昭和25年(1950年)には1人の高齢者に対して12.1人の現役世代(15~64歳の者)がいたのに対して、
平成27年(2015年)には高齢者1人に対して現役世代2.3人になると予測された上、
今後も高齢化率は上昇を続け、現役世代の割合は低下する、と学んだりした。

こうした中で、我が国の平均寿命は、平成24年(2012年)現在、男性79.94年、女性86.41年となり、
65歳時の平均余命は、昭和30年(1955年)には男性が11.82年、女性が14.13年であったものが、
平成24年(2012年)には男性が18.89年、女性が23.82年となっており、
男性、女性とも高齢期が長くなっている。

こうした社会状況の人口構成が、時代と共に大きく変貌してきた現状を学びながら、高齢者の私でも少し憂鬱になりながら、
微苦笑を重ねたりした・・。
         


確かに日本の現状として、世界の主要国の中に於いても、
社会インフラ基本基盤として、電気、ガス、電話、上水道、下水道も殆ど整備され、
学校、病院、公営住宅もあり、鉄道・バス路線、そして道路、高速道路もあり、港湾、橋梁なども、
整備されている稀な国家でもある。

そして年金、医療、介護などの社会保障制度も、多少の難題がありながらも存続している。
         
その上、経済は都心の一部は活性化しているが、地方は未(いま)だに低迷している現在さえも、
殆どの国民は飢えることなく飽食の時代となり、
医療の充実もあり、主要国の中でも最先端の長寿化の超高齢化社会の時代を迎えている。
           
          

こうした中で、公的年金制度は現役世代の納める保険料で、その時の高齢者に年金を支払う仕組みであり、
支え手の現役世代が減り、支えられる側の高齢者が増える少子高齢化は、年金財政に大きな影響を与えている。

そして年金の水準を先に決め、それに必要な保険料を集める仕組みの下では、
少子高齢化が進むと保険料が上昇し、現役世代の負担が重くなり過ぎてしまう悩ましい最大の難題となっている。。

もとより政府は、借金に頼らず税収で賄える国と地方の基礎的財政収支を2020年度に黒字化し、
借金が膨らみ続けている長年の流れに歯止めをかけようとしているが、
最大の脅威は社会保障費の増大、と的言している。

そして毎年1兆円規模で増える医療や介護、年金などの支出で、
保険料(64.1兆円)があるが、年金(56.0兆円)、医療(37.0兆円)、介護・福祉その他(22.2兆円)(うち介護は9.5兆円)、
総計の給付費として115.2兆円、と2014年度の予算ベースとなっている。
          

          
過ぎし日に麻生財務相が記者会見で発言され、
『世界に冠たる皆保険と言うが、保険料だけで給付を賄いきれていない。
公費負担に4割を依存としており、給付と負担をバランスさせなければならない』と明言されたりしていた。

もとよりこうした背景には、今後の2025年までに『団塊の世代』が75歳以上となり、
社会保障給付の増大が財政の健全性に脅威となり続ける、と警鐘している。
           

私は平均寿命に関しては、あくまで平均であり、
私の現役サラリーマン時代の58歳の時に同僚の死去に接したり、
2004年に多々の理由で年金生活を始めて数年過ぎる中、先輩、同僚だった人たちの死去を知り、
余りにも若き60代なのに、と戸惑いながら、ご冥福を祈ったりしながらお通夜に参列したりした。

或いは私の住む近所には、90代の御夫婦が心身共にご健在で、ときおりお逢いした時は、
私は挨拶を交わしたりしている。

こうした体験をしてきたので、私は平均寿命については、
その年に生まれた子供が平均で何歳まで生きるかを予測した数値であり、
たとえ長寿世界一になっても、人それぞれの平均値である。

私は平均寿命よりは、何よりも健康寿命こそが肝要であると、深く確信しているひとりである。
          
               
もとより健康寿命は、心身ともに自立し、健康的に生活できる期間、と世界保健機関が提唱して以来、
いかに健康に生活できる期間を伸ばすかに、ここ10数年関心が高まっている状況となっている。

悩ましきは平均寿命と健康寿命との差てあり、衰弱・病気・痴呆などによる介護期間であり、
もとより日常生活に制約される苦汁の期間となる上、医療費の増加の主因となっている。
          


『敬老の日』に於いては、私の住む地域の自治会、或いは調布市でも、
後期高齢者の75歳、85歳、100歳などの方に金一封を備えたり、後期高齢者を対象に敬老会が開催されたりしている。

こうしたことに私は苦笑して、国の財源が逼迫し余裕のない現状、そして今後の状況を配慮すれば、
寿命が永らえた人の敬老会、金一封などは廃止する代わりに、
高齢者で少額の医療費の方こそが、医療費の高騰の中で、自助努力と幸運で医療費の抑制に貢献してきた人なので、
国の厚生労働省から発令して、自治体を通して、それぞれ金一封を備えで感謝状を送る時代が到来している、
と深く念願している。
          

たとえば年に一度の健康診断以外は、医療費は不要の人で、
こうした溌剌の方は、自治体の公報で『感謝コーナー』を新設し掲載して、やがて多くの方が増えることを願ったりしている。

余談であるが、私は最寄の内科に4週間毎に定期健診を受けて、糖尿病の範囲の対象から克服でき、
悪玉コレステロールは基準値の90%、これ以外はすべて優等生となっているが、
そして隣接した薬局で、血糖値を下げる薬を頂き、日々朝食後に呑んでいるので、
毎月自己負担だけでも総計4000円前後を支払っているので、無念ながら対象外である。


☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へにほんブログ村
人気ブログランキングへ
コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

リバースモーゲージ、おひとりさまの家内の母も活用して、老後を享受し・・。

2014-09-14 12:00:21 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市の片隅みに住む年金生活の身であり、
そして私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に築後35年を迎えた古ぼけた一軒屋に住み、
お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

私は民間会社の中小業に35年近く勤め、2004年〈平成16年〉の秋に定年退職後、
その直後から多々の理由で年金生活をしている。

そして私より5歳若い家内も、お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。

こうした中で、私は9月下旬の誕生日を迎えると古希と称される70歳となり、
家内も12月下旬の誕生日を迎えると65歳となり、介護保険証を受ける身となっている。
          

私たち夫婦と同様な夫65歳以上で妻60歳以上の2人暮らしで共に無職と称される『高齢夫婦無職世帯』は、
総務省の2013年(平成25年)に於いて、ひと月当たりの収入は、公的年金を入れて21万4863円、
支出は27万2455円、そして赤字は5万7592円、と公報されている。

こうした中で、60歳以上の家庭は、89%が持ち家と報じられ、
昨今は自宅を担保を高齢者家庭は融資を受けられる『リバースモーゲージ』が活用されている、
と最寄の銀行の担当者から、ここ6年前頃から私たち夫婦は聞いたりしてきた・・。


『リバースモーゲージ』は高齢者が戸建て(一部地域はマンションも適用)の自宅を担保にした年金制度の一種。
自宅を所有しているが現金収入が少ないという高齢者世帯が、
住居を手放すことなく収入を確保するための手段として用いられる。

自宅を担保にして銀行などの金融機関(一部の都道府県の社会福祉協議会)から生活資金を借金をし、
その借金を年金という形で受け取る。
受け取る金額は年月と共に増える借金が死亡時に自宅の評価額と同じになるように調整され、
死亡時に金融機関が契約者の自宅を引き取る。

もとより貯金などで返済できれば自宅を売却せずに済む。

リスクとしては年金が満額になる時点を越えて長生きする、と説明を受けたりしてきた。
          

我が家の両親は、私の父は私が小学2年の時に病死され、母は私が54歳の時に病死し、
家内の父は私が定年退職時の2004年〈平成16年〉の秋の少し前に、病死されたので、
家内の母だけとなっている。

独り住まいとなった家内の母は、千葉県の八千代市に一戸建てに住み続けて、
年金を頼りに程ほどの貯金を崩しながら、おひとりさまの生活をしている。
          

確か5年前の頃だったと記憶しているが、
年金は月平均14万円で貯金を少しづつ崩しているが、長生きを考えると心ぼそいわ、
とこのような意味合いの言葉を長女の私の家内に言った。

そして私は家内から聞いて、毎月少し融資を受けられる『リバースモーゲージ』を本格的に調べて、
やがて家内は孤軍奮戦して、家内の母の住む八千代市の社会福祉協議会より、
家内の母は、毎月3万円の融資を受けている。

この間、社会福祉協議会より一戸建ての査定をして、相場の70%前後の融資総額となり、
家内の母の相続人の長女の家内、そして次女、長男の承諾書を提出したりしてきた。

家内の母は、家内に、お父さんの遺(のこ)された一戸建て・・私の老後で喰いつぶしてしまうけれど、
とこのような意味合いの言葉を家内に言った、と後日に私は家内から聞いた。

私は家内に、お義父(とう)さんとお義母(かあ)さんが築きあげてきた財産に関して、
どのようにお使いになっても・・と私は結婚してまもない時に家内に言ってきた。

こうした私の根底には、亡き私の母が生前の私が結婚する時、
男子たる者は、奥さんの実家の財産をあてにするのは、最低の男だから、
と私は叱咤激励されたので、もとより家内の母のいつの日にかの遺産は、あてにしてこなかった。


やがて家内の母は、年金に毎月3万円頂くので助かるわ、と家内に言ったと、
と私は家内から聞いたりして、悦んだりした。

そして家内の母は、自身の葬儀代にと家内に程ほどの金額を振り込んだ、
と私は家内から聞いたりして、私は微苦笑しながら、お義母(かあ)さんらしいねぇ、と家内に言ったりした。
          

家内は、家内の母が独り住まいとなった当初から、
安否を含めて、殆ど毎晩30分前後ぐらい電話連絡をしたりしている。
そして私たち夫婦は年に数回は国内旅行に誘い、
やがて、家内の母の『母の日』には、やはり温泉ね、と要望され温泉滞在旅行が多かった。

家内の母は、平素は女友達のグループで小旅行をしたり、街歩きをしたり、
或いは独りで実家の上越市に訪れたりすることが多い。

しかしながら、家内の母は自身の身の周りは出来ても、
大掃除、季節ごとの室内のカーテン、布団、暖冷房器具、衣服、庭の手入れなどは、おぼつかなくなり、
長女の家内は季節の変わるたびに、7泊8日前後で年に5回ぐらい母宅に泊りがけで行っている。

この間、私は『おひとりさま』の生活となっているが、
いずれは私たち夫婦は片割れとなり『おひとりさま』となるので、 特別演習かしら、
と思いながら私は過ごしている。

こうした中、家内の母は2年前に膝(ひざ)を悪化して、
市の福祉サービスより『要支援の2』と認定をされている。

そして私たち夫婦は、やむなく温泉滞在旅行の代わりと思いながら、
お醤油、ソースなどの調味料、洗剤、雑貨品などの重い品物と感じられる品の数々を、
積極的に宅配便を活用して送付したりしている。
          

こうして家内の母は、独り住まいとなって早や10年を迎える中で、
私は家内の母に対して、たったひとつだけ困惑することがある。

今年のお正月も独り住まいの家内の母に年末に来宅してもらい、
私たち夫婦と共に新年を我が家で過ごした・・。

こうしたある日、居間の炬燵に入り、食事をしたり、談笑したりすることが多かったが、
ある時、家内の母が、
『あたし・・やっぱり・・百まで生きたいわ・・』
と呟(つぶや)くように家内に言ったりした。

私は69歳で今年の9月下旬には古希と称される70歳となり、
家内は今年の12月下旬の誕生日を迎えると65歳を迎えるので、
もとより家内の母が100歳になる事は、私は86歳、家内も81歳の高齢者となるので、
これを聞いた私は困り果てて、勘弁してょ、と心の中で思いながら、笑ってごまかしたりした。

☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へにほんブログ村
人気ブログランキングへ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小庭の手入れ、秋の装(よそ)いにと体力の衰えた私が孤軍奮闘しても、あえなく敗退・・。

2014-09-13 15:15:09 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の身であり、
まもなく下旬の誕生日を迎えると、恥ずかしながら古希と称される70歳となるが、
65歳の高齢者入門が許された頃から、体力の衰えを実感してる。

こうした中で、我が家の小庭の手入れは、私の責務であるが、
何よりも暑さに苦手な私は、サボり果ててきた・・。

我が家の敷地は変形の為、家屋を建てる当時から玄関庭と主庭に別れているが、
樹木の枝葉は伸び放題、草も茂って純白のタマスダレの花、淡紅色の秋海棠(シュウカイドエ)の花も、
雑草の中で咲いているような状態となっている。

こうした状況の中で、一番喜ぶのは鈴虫(スズムシ)、蟋蟀(コオロギ)かしら、
と私は微苦笑を重ねたりしてきた・・。
          

過ぎし去りし8月、小庭では朝に於いては鈴虫(スズムシ)が鳴いて、蝉(セミ)も負けじと盛んに鳴いて二部合唱となり、
日中の暑い中は、蝉(セミ)が独壇場のように、今鳴かなくていつ鳴くのよ、
といったように鳴き響いてきた・・。

こうした中で、鈴虫(スズムシ)の鳴き声が聴こえないのは、
日中はお休みの睡眠時間の最中で、夕暮れの6時過ぎに目覚めるのかしら、と私は解釈したりしてきた。

そして夕暮れの6時過ぎになると、蝉(セミ)は鳴き声が途絶える・・。
私は暑さの日中に蝉(セミ)は盛んに鳴いていたので、
きっと鳴き疲れてお休みの睡眠時間になったと思ったりしてきた。

鈴虫(スズムシ)は夜行型、蝉(セミ)は日中型、と少しボケた私でも理解は出来るが、
我が家の蟋蟀(コオロギ)は、何故かしら耳をすませないと聴きもらす・・。

夜のひととき、鈴虫(スズムシ)の盛大な合唱の中、
定年退職後に何かと気弱になった主(あるじ)の私の気持ちを察してか、
蟋蟀(コオロギ)だけは、少し遠慮しながら鳴いているのである。

そして私は愛(いと)おしく、少し哀れな蟋蟀(コオロギ)であるが、
やがて初秋になれば、蝉(セミ)は消え果てるので、ライバルは鈴虫(スズムシ)となる。

やがて鈴虫(スズムシ)も夏の間、盛大に鳴いてきたので、
疲れ果てて、少しはおとなしくなるかしら、と私は秘かに願ったりしてきた。

    
このように思いながら過ごしてきたが、 昨夜、玄関の軒下に下り立つと、
微風が吹く中で、心も身もゆだねると心地よく、夏は過ぎ去り秋の時節になった、
と実感を深めたりした。
          

今朝、4時半に目覚めて、ぼんやりと秋の装(よそ)い小庭の手入れしょうと、思い立ったりした。
そして体力の衰えた私は、玄関側は何かと人が来客するので、せめて玄関側の小庭の手入れを、
と7時半過ぎに下り立った。
  
そしていつものようにストレッチパンズの夏用の長ズボン、着古したワイシャツ、ウォーキング・シューズで、
夏用の帽子を深く被り、滑り止めの軍手をして、そして剪定鋏(ハサミ)を腰の周りにして、
薄曇り空の中、樹木の枝葉を高枝鋏(たかえだばさみ)で切り落としたりした。

               
やがて切り落とした枝葉を整理したりしていると、まばゆい陽射しが小庭を照らし、
夏の香りが残された少し熱くなった中、孤軍奮闘をした。
          

その後、草むしりをしていると、汗がしたたり落ちてきた。
特にドクダミの草が地面にへばりつくように繁っているので、労苦を要する。
或いは樹木のある地面も草が生えているので、
樹の下にもぐるように、はいつくばって草を取ったりすると、泥まみれとなったりした。

そして草むしりに熱中していると、塀際に睡眠中の鈴虫(スズムシ)は驚き、眠そうにノソノソと移動し、
蟋蟀(コオロギ)は元気そうに退散して行った。

やがて私は、これからの鈴虫(スズムシ)と蟋蟀(コオロギ)の住まいとしてねぇ、と畳み2枚ぐらい雑草を残したりした。

こうした中で、無念ながら体力の衰えた私は、ときたま玄関の軒下で簡易椅子に腰かけて、
少し休憩ねぇ、と心の中で呟(つぶや)いたりした。
こうした私の情況を見た家内は、掃除の手を休めて、幾度か冷茶を運んでくれたりした。

そして陽射しが燦々と照らす中、草むしりに奮闘していると、汗まみれ泥まみれとなったりしたが、
今しなくていつするのよ、と自身を叱咤激励をしたりした。

しかしながら簡易椅子を木陰に移動させて座っていると、
微風を受けたりすると心地よく、やはり夏の熱い季節は過ぎ去った、と微笑んだりした。

やがて12時半が過ぎた頃、体力の限界を感じて、本日はここまで・・と断念し、風呂場に向かったりした。
          

疲労感を感じる今、若き40代のサラリーマン時代だった頃は、休日の時に真夏の炎天下の中でも、
7時間ぐらいは気力で、庭の手入れをしたりしたが、
あの頃の自分の若さには適〈かな〉わない、と体力の衰えた私は苦笑したりした。


☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へにほんブログ村
人気ブログランキングへ

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

認知症予防にチョコ、カレーが良いと、高齢者の私は学び、微苦笑させられ・・。

2014-09-12 12:50:40 | 定年後の思い
私は2004年(平成16年)の秋に定年退職後、多々の理由で直ちに年金生活に入り、
現役サラリーマン時代は悪戦苦闘が多かった為か、解放感で高揚したりした・・。

そして年金生活を当初は、独りで近所の遊歩道を散策したりすると、
こんなに自由に散歩できるなんて、許されても良いのかしら、
と定年直前までの多忙期を思い重ねたりし、戸惑いながら甘受したりした。

何よりも朝の陽射し、昼下りのひととき、そして夕暮れ時に、
ゆっくりと時を過ごし、苦楽の激しかった現役時代を思いながら、微苦笑を重ねたりした。
          

私はこれまでの60代の10年の日々は、幸運にも大病に遭遇せずに過ごしてきたが、
2010年(平成22年)の秋に健康診断の結果、糖尿病と診断され、
翌日に自宅から徒歩10分ばかりの内科専門病院に行き、検査、そして問診の時、
『国内旅行に何とか70歳ぐらいまで行きたいので・・何なりと御指導をお願い致します』
と私は内科の医師に懇願した。

そして高橋真梨子さんが唄われた『桃色吐息』は妖艶であるが、
体力の衰えた66歳の私は青色吐息のような表情で、内科の医師のアドバイスを聴いたりした・・。

医師から、料理のカロリー試算表を渡された上、軽い運動を毎日して下さい、と私は言われた・・。

この後、6週間の私は、家内が料理のカロリー試算表を確認しながら料理を作って貰い、
これ以来、朝夕頂いたりした。

そして私はウォーキングをほぼ毎日し、汗をかきながら最低30分は歩き廻ったりした。

やがて翌年の2011年(平成23年)の3月の初旬、
最寄の内科に3週間毎に定期健診を受けて、糖尿病の範囲の対象から克服でき、悪玉コレステロールは基準値の90%、
これ以外はすべて優等生となった。

この後は、4週間毎に定期健診を受けるたびに隣接した薬局で、血糖値を下げる薬を頂き、
日々朝食後に飲んでいるが、これ以外は至って健康だ、と思ったりしている。
          

もとより健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わない。
私自身の糖尿病の再発防止もさることながら、何よりも怖いのは認知症である。


こうした根底があり、自宅の周辺3キロぐらいの中の住宅街の道、遊歩道、小公園などを
ひたすら歩いたりする中で、 季節のうつろいを享受している。
          

昨夜、私はネットでニュース記事を彷徨(さまよ)っている中で、
《 認知症予防にチョコ、カレー…専門家が教える意外な方法 》
と見出しを見て、どういうことなのょ、と思いながらクリックした。

そしてこの記事は『女性自身』と明示され、確か女性専用誌の週刊誌と解り、
少しためらったりしたが、何よりも知らないことは謙虚に学ぶことをモットーに生きてきた私は、
精読して多々教示されたりした。

この記事は関連の『光文社オフィシャルサイト』の2013年10月3日で配信された記事と解り、
今回も無断ながら記事の大半を編集して、転載させて頂く。

《・・(順天堂大学教授の小林弘幸先生)寄れば、
実際、いま認知症の検査としておこなわれているSPECT(体内に注入した放射性同位元素の分布状況を断層画面で見る)検査は、
脳のどの部分の血流が低下しているかを見ることで診断につなげている。
脳の血流低下を防ぐことは、認知症予防にもつながっていくという。

「しかし何もしないでいると、私たちの脳の血流は加齢とともに低下。
男女ともに70歳になると、脳の血流は15歳のときと比べ、30%以上減少するといわれているのです。
高齢になると認知症を発症しやすくなるのは、加齢によって血流が低下するからなんですね。
でも、あきらめるのはまだ早い!生活習慣を変えることで、脳の血流は改善できます」
          
                    
認知症予防につながる『ボケない血流』の作り方のポイント

【有酸素運動】
「まずは1日30分程度の有酸素運動。
脳を含めた全身の血流をスムーズにするのはもちろん、高血圧や糖尿病など生活習慣病を予防して、
血栓や血管のダメージを防ぎます。
ウオーキングや水泳など、無理のない範囲で体を動かしましょう」

【α波】
「脳からα波が出ると、脳の血流が30%増加するという報告も。
α波が出るのは瞑想時やリラックス時。川のせせらぎなど、自然の音を聞くのもいいでしょう」

【チョコレート】
「チョコレートのフラボノイドが血管のこわばりを和らげ、脳の血流を改善するといわれています」

【カレー】
「カレーを食べたあとは脳の血流が増加。
これはカレー粉に豊富に含まれるスパイスのおかげですが、とりわけカルダモンに血流アップの作用があるとか。
カルダモンは香辛料としてだけでなく、生薬、漢方として日本はもちろん、北欧など世界中で愛用されています」・・》


このような記事を読みながら、【有酸素運動】と【α波】に関しては、
毎日のように独りで平素の買物に行き、時折ご婦人のしぐさに見惚(みと)れたり、
その後に散策して、樹木、草花などに季節のうつろいを享受している私は、及第点と感じている。
          

【チョコレート】
私は何故かしら、街中のスーパーにある板チョコレートが、好きである。

私が1954年(昭和29)年の小学3年生になったばかりの時、私を可愛がってくれた祖父が死去した。
前年に祖父の長兄だった父が亡くなり、跡継ぎを失くし、
その上に祖父は病気となり、落胆した表情が少年の私さえ感じていた。

そして祖父、父が中心として、程ほどの広さの田畑を耕し、
多忙な時期は小作人だった人たちの助けも借りて農業をしていたが、
大黒柱の2人を失った生家では、長年の農業の技量の伝承が絶たれてしまったので、没落しはじめた・・。

こうした中で、母、父の末妹の叔母、長兄、次兄、私、そして妹のふたりが残された家族となり、
生活は困窮し始めた・・。
          
このような状況下の時、祖父の妹に当たる祖母のような心優しい人が、
何かと不憫に思い心配されて、とても私たちが日常生活で買い求めることのできない菓子などを持参してくれた。
その上、妹の2人には、何かと品を頂き、ときにはお揃いの洒落た下駄などを頂戴した。

この人が帰路する時、私は駅までの15分ぐらいの町道をこの方と共に歩いて、駅で見送った。
この少し前、このお方は私に、
『チョコレートでも買ってねぇ・・』
と私に百円玉ひとつを手渡して下さった。

この後、私は小汚い身なりであったが、駅前の商店街の菓子屋に行き、
まばゆい包装紙に包まれた一枚の板チョコレートを買ったりした。

そして私は駅前から急いで帰宅し、妹のふたりと割って食べたりした。

しかし恥ずかしながら告白するが、正確には私は少し大き目の3分の1であった・・。

あの家も貧乏になった、と少年の私さえ、近所の人たちの風の噂を聴こえたりしていたが、
この時ばかりは妹2人と食べあった板チョコは、この時は何かしら貧乏のことも忘れさせてくれた。

こうした体験を秘めた私は、たった一枚の板チョコレートであるが、
ここ10年前の頃からのベルギー産の高級品、宇治抹茶生チョコなどのチョコレートより、遥かに美味しく感じられるのである。

そして私にとっては、たった一枚の板チョコレートでも人生観を変えることがある、
と思ったりしている。

このような私の秘めたる想いがあるから、家内は少し高価なチョコレートを食べたりしているが、
ここ数年の私は、明治製菓の『ブラック・チョコレート』を月に一度ぐらい、
スーパーで80円前後で買い求めて、食べたりしているが、
今回、この記事から喚起させられて、週に一度ぐらいにしょうかしら、と思ったりしている。
          

【カレー】に関しては、週に一度ぐらい愛食している。

スーパーで買い求めた豆腐の半丁ぐらいの大きさの『絹美人』と名付けられた豆腐があり、
皿に載せて電子レンジで少し温める。

それと並行するように、レトルト・カレーもお湯で温め、
やがて豆腐の上にかけるだけのこの世で一番簡素な手抜き料理であるが、
こうしたカレーを私はここ10年ぐらい美味しく頂いている。

このように今回の記事から、私は多々教示させられて、
ひたすら歩き、チョコレートとカレーも愛食するから、認知症は勘弁して下さい、
と懇願しているひとりである。


☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へにほんブログ村
人気ブログランキングへ
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「散骨」、「永代供養墓」を望む女性は男性の約2倍、と高齢者の男性の私は学び、微苦笑させられ・・。

2014-09-10 12:51:31 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市の片隅みに住む年金生活の身であり、
そして私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に築後35年を迎えた古ぼけた一軒屋に住み、
お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

私は民間会社の中小業に35年近く勤め、2004年〈平成16年〉の秋に定年退職後、
その直後から多々の理由で年金生活をしている。

そして私より5歳若い家内も、お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。

こうした中で、私は9月下旬の誕生日を迎えると古希と称される70歳となり、
家内も12月下旬の誕生日を迎えると65歳となり、介護保険証を受ける身となっている。
          

先程、何か愛読してきた総合ビジネス情報誌として名高いビジネス情報サイトの【ダイヤモンド・オンライン】を見ていた時、
《 「散骨」を望む女性は男性の2倍以上 男女で大きく異なるお墓への意識 》
と見出しを見て、どういうことなの、と思いながらクリックした。

記事の本文は好評の『ザ・世論~日本人の気持ち~』のコーナーのひとつの記事であり、
プレスラボ取締役の小川たまかさんが編集され、寄稿された記事で、9月9日に配信されいる。
今回、無断ながら転載させて頂く。
          

《・・自分が死んだあとのことは、なかなか想像できないし、したくないもの。
あなたは自分の墓について考えたことがあるだろうか。
「まったく決めていない」という人も多い一方で、「散骨」を望む女性は男性の2倍以上――。こんな調査結果が発表された。

男性より女性の方が「散骨」、「永代供養墓」を望む傾向

調査は楽天リサーチが行ったもの。調査対象は全国に暮らす20~60代の男女1000人。
調査期間は8月17日~18日。

この調査によれば、「自分の埋葬方法の希望」について聞いた質問で男女の回答に差が出た。
男性の場合の回答は、多いものから順に「先祖代々のお墓」(36.6%)、「まったく考えていない/決めていない」(29.2%)、
「自分や家族などが新しく用意するお墓」(14.0%)、「散骨」(11.2%)、「永代供養墓」(7.4%)、「その他」(1.6%)。

女性の場合は、「まったく考えていない/決めていない」(28.6%)、「先祖代々のお墓」(22.4%)、「散骨」(22.0%)、
「永代供養墓」(14.0%)、「自分や家族などが新しく用意するお墓」(10.8%)となった。
          

自分自身が希望する将来の埋葬方法は?

男女ともに「まったく考えていない/決めていない」を選んだ人がある程度多いのは、
20代、30代といった比較的若い層もアンケートに答えているからかもしれない。
これ以外の回答結果を比べると、「先祖代々のお墓」を選んだ男性に比べて女性は14ポイントほど少ないこと、
「散骨」を望む女性は男性の約2倍いること、同じく「永代供養墓」を望む女性も男性の約2倍の数であることがわかる。

女性が男性より「散骨」や「永代供養墓」を望む理由については、もう一つの質問が鍵となる。
「お墓参りに関する意識」について当てはまるものを複数回答で聞いたところ、
男女ともに最も多かったのは「将来、自分の『お墓』のことで子や孫に迷惑をかけたくない」(85%)。

ただし男女差があり、男性は80%程度、女性は10ポイント高い90%程度だった。

このほか男女差があったのは、「自分が『お墓』を守らなければいけないという責任を感じる」(男性約50%、女性約40%)、
「自分が入る『お墓』のことを考えると憂鬱(ゆうつ)な気持ちになる」(男性約25%、女性約35%)という回答だ。

現代においては男性が家を継ぐことが多く、「先祖の墓を守る」という意識も男性の方が高い。
その一方で、墓のことを考えると憂鬱になるという意識は女性の方に多い。
金銭的な事情や、生家ではない家の墓に入るという事情などから、
「憂鬱」に感じ、「散骨」や「永代供養墓」を望む人も多いのかもしれない。
          

自分の墓は「決めていない」 でも、墓参りは欠かさない

また、現代では墓参りの文化が薄れつつあると思われがちだが、実際はそうでもないようだ。
「今年のお墓参り頻度」を聞いたところ、1回以上墓参りをした人は全体で65%。
年代別にみると、20代=54%、30代=58%、40代=70%、50代=71%、60代=72%と、
20代でも半数以上が墓参りを行っている。

葬儀関連の疑問解決サイト「エンディングパーク」が30~40代の子育て世代に聞いた調査(※)では、
78%が年に1回お墓参りに行くと回答している。
小さな子どもがいる世帯は仕事・プライベートともに最も忙しいと言われるが、
それでもお墓参りは大事と考えられているようだ。
家族で出かける先としてふさわしい場所という理由もあるのだろう。

恐らく、墓参りは欠かしたことがなくても、自分の墓は「いらない」「子どもや孫に負担をかけたくない」という人もいるだろう。
時代の流れに伴い、「墓」に関する習慣や意識は、今後どのように変わっていくのだろうか。・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。
          

私は世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住み、生家も近く、
結婚前後の5年を除き、65年近く住んでいる。

私の生家は長兄が実家として継いで、確か18代目となって、祖先代々からの位牌などのある仏壇を守り、
お墓は実家から徒歩で20分ばかり小田急線の『狛江』駅から数分歩いた所の寺院の広い墓地の一角にある。

私たち夫婦も、母の命日、春のお彼岸、夏のお盆、秋のお彼岸に、
長兄宅に寄って仏壇にお線香を捧げた後、長兄夫婦、来宅している叔母、親戚の方たちと談笑したりした後、
お墓参りに行ったりしている。

私は農家の三男坊として生を受け、分家のような形で実家の近くに住んでいるが、
生家のお墓の近くに墓地を買い求めるに、たまたま子供に恵まれなかったので、
一代限りとなるので、私たち夫婦が亡くなった後のことを配慮し、躊躇(ためら)ってきた・・。

何よりも長兄の子ども、私にとっては甥っ子であるが、後々も迷惑、負担をかけたくない、
と漠然と思ったりしていた・・。
                    

私が40歳を過ぎた頃の1985年〈昭和60年〉の2月、
亡き小説家・立原正秋の作品のひとつに描かれた信州の別所温泉に、私たち夫婦は一泊二日で訪ねた。

私がこの当時何かと愛用していた『L特急』で、上野駅から上田駅まで利用し、
上田電鉄の別所線に乗り換え、かぼそい2両連結の電車で終点の別所温泉駅に行ったりした。

もとより別所温泉地域は、鎌倉時代には周辺の塩田平地域を本拠とした塩田北条氏が、
建立による国宝八角三重塔を有する安楽寺や北向観音が創建され、
やがて近代に至って北条氏とのゆかりや神社仏閣が点在する塩田平・別所界隈の様子を鎌倉になぞらえ、
「信州の鎌倉」と称せられるようになった地である。

私たちは、秘かに木造建築の美の結晶のひとつであると私が深く感じた旅館『花屋』に宿泊し、
周辺の名所を散策したりした。

あるお寺を散策していた時、お寺の隣あわせに里山を切り開いたように、
緩やかな傾斜のある広大な墓地があり、お花が数多く飾られ、お線香の煙がたなびいていた・・。

その外れに松林のゆったりした丘があり、ここに数多くの墓石が転がっていた。
人が訪ずれた形跡もなく、墓石に松葉が音もなく舞い降り、
苔に覆われた墓石が横たわっていたり、松の葉で埋もれかけた墓石もあった。
こうした無縁の墓地に、木漏れ日が地上を彩(いろど)っていた。

私は、人が土に還える、とはこの事だろう、と思案したりした。

こうした思いから、通常のお墓でなく、無縁仏に近いことを考え始めた・・。

その後、10年過ぎた頃、岩手県のあるお寺で樹木葬を知り、
これだったら土に還える、と納得しながら、家内に言った。

『俺が先に死んだら・・花巻温泉で静養し、気が向いた時でいいから
・・・お墓には寄ってくれればよい』

お墓といっても、里山に墓石もなく、私たちの好きな樹木のひとつがあるだけである。
          

このように私たち夫婦は、お墓は樹木葬と決め、
6年前の頃に伊豆大島にも樹木園ができた、とか学んだりしてきた。

或いは我が家からバスと電車を利用して、一時間ぐらいの地域に、広大な墓地の一角に、
畳一畳より少し小さ目の墓地で、たった一本の樹木が植えられ墓地の販売区画で永代供養墓と知った。

そして永代使用権、永代供養料、永代管理料などを一括納入すれば、
片割れの残された方が、体力の衰えた身であっても、お墓参りが出来る、と思ったりしている。


私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、一代限りの身の為か、
私は家内には、俺が死んだ時は家族葬で、和花を中核に洋花も配し音楽に包まれて、出来うる限り質素にして貰いたい、
とここ10数年言ったりしている。

そしてお墓は要らず、死者は土に還る、という強い思いがあるので、
樹木葬のある墓地の里山に埋めて頂きたい、と私は独断と偏見である。
その後、四十九日の納骨が終われば、
何らかの雑木の下で永久に安らかに眠る、という考えの持ち主である。

そして残された人は、旅行か何かの機会に時、気が向いたとき、お墓参りをしてくれれば良い。
数年に一回でも良いし、或いはそのままお墓参りなどしなくて、
ご自分の余生を楽しんだ方が良い、と私たちは話し合ったりしてきた。
          

このような思いが私たち夫婦にあるで、今回の記事に微苦笑させられながら、
私にもお気持ち解ります、と感じ深めたりしている。


☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へにほんブログ村
人気ブログランキングへ
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

夏の香りを残して、ひと雨ごとに秋に迎い、と心の中で呟(つぶや)きながら・・。

2014-09-09 15:28:40 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活し、まもなく古希と称される70歳を迎える身であるが、
過ぎし4日に快晴の日の後、翌日の5日は曇り時々晴れの中、12日ぶりの30度を超えたりした。

この後は台風の影響で小雨が降ったり曇り空となる不安定な天候となり、
昨夜は月が満月になる日を『十五夜』には、お逢いできなくて苦笑したりした。

今朝は小雨が降る朝を迎えた。
この後、地元の天気情報を視聴していると、
朝の6時は18度、昼下がりは26度前後、そして夕暮れの6時は23度前後、
小雨は朝方に止み、日中は曇り時々晴れ間となり、過ごしやすい日となります、
と報じたりしていた。

やがて家内と遅い朝食を頂いている時、小庭に陽射しが射し込んできて、
私は微笑んだりした。

私は平素の買物の専任者であるが、この前に近くに流れている野川の遊歩道を散策しょう、
と思い立ち、独りで家を出た・・。

そして野川の遊歩道を歩き始めて5分過ぎた頃、川風は心地よく、私の身体を吹き抜けてゆく。
          
私はスポーツシャツの半袖だけの下着も着ない真夏の容姿であったが、
颯爽と歩くと汗ばんだりしたが、真夏の時のように汗がひたたることなく、立ち止まれば風が心地よく感じ、
やはり不安定な雨が幾たびも降ったりしたので、秋の季節に向かっている、と実感したりした。

やがて歩きだして、空を見上げたりする、と隣接の家の百日紅の残り花が見えたりし、
盛夏の中に彩(いろど)った花に、まもなくお別れねぉ、と微笑んだりした。
          

この後、10分ほど歩くと、私の好きな小さな公園で休憩とした。
          

私は幼年期に農家の児として育てられたので、こうした素朴な情景に安らぎを得て、
年に幾たびも通っている処のひとつとなっている。

やがてぼんやりと昨夜は『十五夜』には、敬遠されてしまったが、
私は定年後の年金生活をし、齢を重ねるたびに圧倒的に深く魅了されるのは、
なぜかしら『十六夜(いざよい)』である。

もとより『いざよい』は、「いざよう」の語源からであり、
ためらい、ためらう、ことなど意味しているが、
『十五夜』よりしばらく遅れて昇ることから『 いざよい』と称されてきた。

私は月を眺め、自分のその時の思いを託〈たく〉したりしているが、
この時節になると、『十三夜(じゅうさんや)』を誉めたり、
その後の中秋の名月と称されている満月の『十五夜(じゅうごや)』を見惚〈みと〉れたり、
やがて、 待ちわびた『十六夜(いざよい)』に圧倒的に魅了されたりしている。

古人の時代から、満月よりやや遅れてためらうように昇って来る、と伝承されてきているが、
つたない私の人生の軌跡と同様に、心持ちをためらいながら歩んできたので、
何かしら共感を深めている。

そして何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
50代の頃から、『十六夜(いざよい)』を眺めたりすると、
ためらうように月が昇る情景を観ると、
この人生のはかなさの中で、余情を感じたりし、圧倒的に魅了されてきた。

このようなことをぼんやりと思い馳せたりしたが、
まもなく下旬になれば、古希と称せられる70歳となるので、
60代の年金生活の10年は、私の長き人生の中で、一番安楽に過ごせてきたので、愛惜を感じたりした。
          

やがて私は帰路に向った。
          

そして道端の草花などを観て歩いたりしていると、紫式部(ムラサキシキブ)のたわわな実に、めぐり逢えて、
立ち止まったりした。
          

そして薄紫色の色合いに染められ、秋に向かっていることを教示させられた。

やがて夏の香りを残して、ひと雨ごとに秋に迎っている、と心の中で呟(つぶや)きながら、
今年の夏の前半は猛暑、その後は不安定な熱さの夏の季節は終わり告げて、
初秋の時節の到来、そして秋のうつろう情景に心身ゆだねれば、これ以上の望みはないと思えたりした。

そして自宅をめざして足を早めたりした。


☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へにほんブログ村
人気ブログランキングへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

まもなく古希を迎える私、過ぎし年金生活10年で、先達の方から多々学び・・。

2014-09-08 12:53:44 | ☆夢幻のような安楽な60代☆
私は東京郊外の調布市の片隅みに住む年金生活の69歳の身であり、
そして私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に築後35年を迎えた古ぼけた一軒屋に住み、
お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

私は民間会社の中小業に35年近く勤め、2004年〈平成16年〉の秋に定年退職後、
その直後から多々の理由で年金生活をしている。

私は9月下旬の誕生日を迎えると、古希と称される70歳となり、
心身溌剌と過ごしてきた60代にお別れとなり、
この10年過ごしてきた年金生活の中、ひたすら享受してきたので、
もとより愛惜を深めているが、まもなく60代は卒業して、70代となる。
           
         
世の中の数多く60代の諸兄諸姉は、人生の苦楽を重ねた後、
何かと安堵しながら、身も心も溌剌と過ごせる人生の黄金時代と称せられるゴールデン・イヤーズ、
と知人、友人、知人からの便りを受けたりしてきた・・。

私も定年退職するまで人生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれながら、つたない言動も多く、
ときおり敗残者のように感じることも多く、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思ったりした。

そして60代の10年間の日々は、何より安楽な時代、と思い重ねたりして享受してきた・・。
詳細については、この私のブログで数多く投稿してきたので、省略する。

やがて70代となれば、体力の衰えを実感して、75歳まではこれまでどおりの自立した生活ができるが、
80歳が見えてくる頃には介護を必要とするようになり、
やがて80代後半では何らかの介護付き施設に入居する可能性が高くなる、と専門家の人から数多く発言されている。

このように学んできた私は、これからの70代の年金生活は、どのように過ごせるか、
と思案したりしてきた。
          

私は定年後の年金生活の当初から、平素の買物を自主的に専任者となり、
独りで殆ど毎日のように家内から依頼された品を求めて、スーパー、専門店に行ったりしている。

その後は自宅の周辺の3キロ範囲にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受してきた。

この後は随筆、ノンフィクション、小説、近代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまない映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

そして年金生活の今でも本屋で、単行本、新書本、文庫本のコーナーを見たりして数冊買い求めたり、
ときには雑誌コーナーで月刊誌、季刊誌、臨時特別号を眺めた後、魅了された時は購入している。
そして、結果として手ぶらとなった時は、古本屋に行ったりして、読みたい本を探し求めて、
早や50数年過ぎている・・。

こうした中で定年後の年金生活の中で、特に塩野七生、阿川弘之、佐野真一、藤原正彦、嵐山光三郎、曽野綾子、三浦朱門、
徳岡孝夫、高峰秀子、松山善三、櫻井よしこ、中西輝政、山崎正和などの各氏の単行本、新書本、文庫本を購読したり、
してきた・・。


昨今の私は、古希と称される70歳の入門となる不安な真情もあるので、
ぼんやりと本棚の数多くの本を眺めた後、一冊の本を抜き出したりした。

私が本棚からひとつの本を取りだしのは、三浦朱門・著作『妻への詫び状 老いれば頑固に生きるがいい~』(光文社)である。

この本を遅ればせながら、私は初めて読んだのは2012年(平成12年)5月に、
家内と共に越後湯沢温泉に3泊4日で滞在した観光ホテルの中であった。
          

私は前年の2011年(平成23年)6月、三浦朱門(みうら・しゅもん)氏の、
この当時の最新作のエッセイ『老年のぜいたく』(青萠堂)を本屋で偶然に見かけ、購読した・・。

私は三浦朱門氏の作品は殆ど読んでいなく、ただ『第三の新人』グループの作家のひとりであることは認識していた。

もとより1953年(昭和28年)から1955年(昭和30年)ま頃にかけて文壇に登場した純文学の新人小説家を、
第一次戦後派作家・第二次戦後派作家に続く世代として、『第三の新人』と評論家・山本健吉が命名された。

そして小島信夫(1915年、生まれ)、島尾敏雄(1917年)、小沼丹(1918年)、近藤啓太郎(1920年)、
安岡章太郎(1920年)、阿川弘之(1920年)、庄野潤三(1921年)、遠藤周作(1923年)、
吉行淳之介(1924年)、三浦朱門(1926年)、曽野綾子(1931年)等の作家がいる。

私は東京オリンピックが開催された1964年(昭和39年)の秋に、大学を中退し、
映画・文学青年の真似事を4年ばかりした時、
『第三の新人』の作家としては、特に阿川弘之、庄野潤三、遠藤周作、各氏の作品に圧倒的に魅了させられ、
精読したひとりである。

映画・文学青年の真似事を挫折し、これ以降サラリーマンを35年ばかり勤めている間も、
この3氏などの作品は愛読者として読んだりしてきた。

確か三浦朱門氏の作品に関しては、筑摩書房が日本文学のシリーズとして、
『筑摩現代文学大系』の81巻に於いて、三浦朱門、三浦哲郎、立原正秋の三氏が収録され、
確か1980年(昭和55年)の当時に私は読んだ記憶がある。

そして三浦朱門、曽野綾子、遠藤周作の三氏に寄る『まず微笑』(PHP文庫、1988年)を最近読んだりしたが、
この作品集の原題は『愛のあけぼの』(読売新聞社、1976年)と記載されている。

ここ10年ぐらいは、氏のエッセイを月刊総合雑誌の『文藝春秋』、
季刊雑誌『文藝春秋SPECIAL』などで読んだりしている。

このように私は、三浦朱門氏の小説、エッセイは、わずかに読んだ程度である。


『老年のぜいたく』の本書は氏の優(すぐ)れたユーモアを根底に、氏のこれまでの人生の軌跡をくまなく発露され、
そしてこの当時氏の85歳の心情を綴られたエッセイである。
             
タイトルに掲げられた『老年のぜいたく』は、
《・・ゼイタクというのは、物と人を思うさまに使える、といったことでなく、
日常生活の生き方、つまり一切の行動の行き方、つまり一切の行動が自由であり、
一瞬、一瞬を充足して生きることができる、といったことであろう。

老人にはそんな生活が期待できるであろうか。
できる。・・》
注)本書の11ページ。原文にあえて改行を多くした。

このような命題を掲げて、具体的な言動を余すところなく発露される。


私は圧倒的に魅せられた箇所は、
《・・結婚生活を主とする第二の人生の領域が、第一の人生のそれを圧倒するに及んで、
結婚は第二の人生の中心になる。
その意味で配偶者は生涯の伴侶なのである。

結婚相手の容姿や性愛は、結婚生活の包み紙でしかなく、すぐに棄てられるのだ。
包み紙を問題にして離婚する人は気の毒というより仕方がない。・・》
注)本書の21ページ。原文にあえて改行を多くした。

特にこの中のたった一行、
《 結婚相手の容姿や性愛は、結婚生活の包み紙でしかなく、すぐに棄てられるのだ。》
この当時の私は66歳の身であったが、5分ばかり心の中でどよめき、やがて人生のまぎれない哲学である、
と感じ深めたりした。。

こうしたことを初めとして、数多く紹介したいが、後は本書をお読み願いたい。

そして本書は大人の諸兄諸姉にお読み頂きたく、特に40歳以上の方たちには、たとえ睡眠時間を削ってでも、
これからの確かな人生の教科書のひとつ、と私は確信を深めたりしてきた。


そして氏の『老年のぜいたく』に感銘を受けた私は、観光ホテルの館内にある数多くの本の中から、
氏の著作『妻への詫び状 老いれば頑固に生きるがいい~』(光文社)を遅ればせながら、
私は読んだりした。
             
本書の初めに、下記の文に瞬時に魅了されて、読み耽(ふけ)ってしまった・・。
《・・私は、平成7年の1月12日で69歳になり、70歳への坂を一日一日、登っています。
70は「古希稀(まれ)なり」というように、世界のの歴史からいっても、十分にじじいです。

70年間の生涯で、何が悔いがあるかというと、女性です。・・》
注)本書の9ページ。原文にあえて改行を多くした。

この本の各章の題目を読んだだけでも、瞬時に魅せられる。
たとえぱ、《 理想の女性と分相応な女、70にしても見果てぬ夢、子供の「汚物」は女房の分身、
女は自分を頑固だと絶対に認めない、夫がもてたのを一緒に喜んでくれる妻は理想の妻、妻の殺し文句 》
など44章に私は圧倒的に教示され、感銘を受けたひとりである。

詳細の内容は著作権もあり、本書を読んで頂きたく、
何よりもは古希を迎える男性に読んで頂きたいなぁ、と私は深く思ったりしたいる。

そして私は昨年の夏に、氏の最新エッセイの『老年の見識 ~大切なことは、自分らしく生きることから』(海竜社)を、
             
買い求めて、ときおり正座をして読んだりしてきた。

周知の通り、三浦朱門氏は小説を公表されながら大学教授をされた後、
文化庁長官も歴任し、この後に芸術院の院長を長らくされ、最近はご高齢で芸術院の院長を辞任されたお方である。
そして奥様は作家の曽野綾子(その・あやこ)さんで、おしどり夫婦として長く世間の一部の方たちに知られている。

私はご高名な三浦朱門、曽野綾子さんのご夫妻の書物から、高齢期の思いを数多く教示されたりしてきた。
          


平素の私は、近所の高齢者のご夫妻と立ち話しをしたり、或いは駅前のスーパー、喫茶店、ファミリー・レストランなどで、
高齢者のご夫妻のしぐさ、会話が聴こえたりして、この人生の微笑みを感じたりしてきた。

或いは私たち夫婦は国内旅行が共通の趣味のひとつであり、
観光ホテルなどの滞在する旅路が多く、こうした時に偶然に私たちと同世代、そして70代のご夫妻と、
ロピー、食事処で幾たびかお逢いすると、お互いに談笑したりして、私は多々学んだりしてきた。

そして私は定年後の年金生活10年間の中で、たまたまブログの投稿文を投稿し、
こうした中、特にブログランキングの『にほんブログ村』の『シニア層』に3年ばかり所属し、
数多くの50代、60代、70代のお方の投稿文を読まさせて頂いた。

その人なりの思いをその方ご自身の言葉で、淡々と綴られているのに、圧倒的に感動を覚(おぼ)える。
            

そして日々の日常生活の過ごした方、或いは人生の思いを学び、
こうしたお考えで、この人生を過ごされているのか、と教示されることが多く、
お住まいの地域、これまで綴られた人生の軌跡に思い重ねさせて頂きながら、
何よりも生きた人生の教科書と確信を深めたりしている。

こうして読ませて頂きながら、特に60代の女性が70代のご主人との思い、そして70代のご夫妻の日常生活の思い
或いは70代の『おひとりさま』の心情の投稿文を中核に、昨今は更に精読を深めている・・。

そして私は、これから古希入門の私しては、こうした先達者のお方に秘かに励ましを感じたり、
人生の微笑みを頂いたりしている。

☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へにほんブログ村
人気ブログランキングへ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

定年後の年金生活10年の中、ささやかな私のブログの軌跡は・・。【下】

2014-09-07 12:35:39 | ☆夢幻のような安楽な60代☆
こうした中で、ブログの投稿文を10年近くなる中に於いて、
ブログ上で出逢い、やがてコメント上で心の交流を盛んに重ねても、ふとしたことで疎遠になり、別れとなる場合もある。

私がブログを初めてまもない2004年〈平成16年〉の12月の時、
ブログ形式に準じた【簡単gooホームページ】に加入している中、
確か一カ月後に、九州の北部にお住まいの60歳前後と思われる奥方と
投稿文に於いてコメントをお互いにしたりした。

その後、2年ぐらい高校生の交換日記のように、殆ど毎日コメント欄で心の交流を重ねた。

こうした中で、この奥方が一枚の写真を添付し、散策する時に何かと魅せられている小花のひとつです、
と投稿文に掲載されていた。

私は恥ずかしながら無知であったので、ネットで検索したら、
『オオイヌノフグリ(大犬の陰嚢)』と明記されていたので、命名された植物学者は余りにも文学性の感性が欠落している、
と思い苦笑した。
そして『瑠璃唐草』、『天人唐草』、『星の瞳』とも名づけられていたので、
この奥方に、『星の瞳』に瞬時魅せられました、と私はコメントしたりした。
           
           ☆2008年3月、私が近くに流れている野川の川べりで、偶然に『星の瞳』にめぐり逢い撮った一葉☆

   
こうした淡き心の交流を2年半していたが、ご主人様がご病気となり、入退院をされる中、
奥方の投稿文も途絶え、やがて私たちの交流も途絶えがちとなり、
まもなく加入している小さなある簡易なブログサイト自体が閉鎖となり、そして交流も終えてしまった。

このような私にとっては、貴重な思いを秘めているので、
『星の瞳』を通して、この奥方は、私の年金生活を始めて不安な心情の中、心おだやかに過ごせたので、
女神のような人と私は思っている・・。

そして、その後に私は春先に散策したりする時、『星の瞳』を見かけたりすると、
あの奥方はどのように過ごされているのかしら、と思ったりし早や6年が過ぎている。
          


私はブログを投稿する際、筆力に乏しいながら最後までお読み頂けるように工夫したり、
その上に数多くの方にお読み頂けるように、試行錯誤をしたりすることがあるが、
日本だけでもブログをされている方は、数千万人と風の噂で聞いたりしていた。

そして私の加入している【gooブログ】のサイトでも、
2008年(平成20年)の当時は、確か加入数150万人ぐらいで、
この当時の私は写真を添付する技量もなく、ひたすら散文らしき文を綴り投稿文としていた。

そして私のサイトは訪問者数は長らく日々300人前後が多く、
【gooブログ】の総加入数の中に於いては、
多くある広大な砂糖黍(さとうきび)畑の中で、たった一本の砂糖黍(さとうきび)のような存在であった。
          
このように私は、やがて埋もれてしまい、誰からも読まれなく無視されることが想像されて、
つたない私でも、余りにも悲しきことで愕然とするので、ひとつの対策をした。

          
こうした思いからひとつの方法として、
やはりブログのランキングに加入して、程ほどに上位にランキングされれば、
少しでも多くの方に読んで頂けると、つたない投稿文ながら自己顕示欲が増して、加入することとした。

          
そしてブログのランキングのサイトも幾つか彷徨(さまよ)うように加入したが、
『人気ブログランキング』の『随筆・エッセイ』に加入し、今日に至っている。

その後、2010年〈平成22年〉の秋に、やはりブログのランキングの『にほんブログ村』に再加入した。

私は2008年〈平成20年〉の頃に『にほんブログ村』に漠然と加入し、
何かしら他のブログのランキングに魅了され放置していたが、
投稿文ごとの具体的なランキングに気付かされて、私の投稿文毎にどのくらい読んで頂いたか、
と目安ができるので、ふたたび本加入させて頂いた。

そして現在は、『人気ブログランキング』に於いては、『随筆・エッセイ』に所属し、
『にほんブログ村』に関しては、加入時は『随筆・エッセイ』系に重点していたが、
一昨年の秋の頃から、世代のよしみに甘えてシニア日記系『60歳代』に移行している。
                          

こうした中で、50代から70代の多いシニア層に於いて、
『にほんブログ村』に加入している方を中核に、多くのお方の投稿文を読ませて頂いた。

日記として綴られている場合は、その人なりの思いをその方ご自身の言葉で、淡々と綴られているのに、
圧倒的に感動を覚(おぼ)える。

そして日々の日常生活の過ごした方、或いは人生の思いを学び、
こうしたお考えで、この人生を過ごされているのか、と教示されることが多く、
お住まいの地域、これまで綴られた人生の軌跡に思い重ねさせて頂きながら、
何よりも生きた人生の教科書と確信を深めたりしている。

こうして読ませて頂きながら、私は秘かに励ましを感じたり、微笑んだりして、
確かな人生の底知れぬ苦楽の深淵を学びながら、年金生活を過ごしたりしている。

或いはその地域の情景の四季折々の移ろいを背景とし、
デジカメの数葉を掲載され、絵葉書のような観光地の解説でなく、
その方ご自身の言葉で綴られるのに感動させられたりしている。

そして言霊を信愛し、何よりも投稿文で吐露(とろ)しなければ、
この人生を生きて行くことはできない、
このような圧倒的に心の深淵まで描写できる方もいる。
               

私のブログサイトの左側の『ブックマーク』に於いて、
ご当人様のご承諾も得ずに、掲載させて頂く、と明記して掲げているが、
少なくとも1年半以上、このお方が投稿するたびに必ず私が愛読してきたサイトであるが、
大半は『にほんブログ村』で知り得たお方である。

この諸兄諸姉のサイトに関しては、一部のお方とのコメント上で交流を除き、
隠れキリシタンのように秘かに私は、愛読者のひとりとなっている。
                    
              
私は気楽にコメントを書くことはできない身で、
コメントを書き込んで下さった方のプロフィールはもとより、
最近のその方の心情まで配慮して返信するタイプである。

こうした関係で時間を要して、日常生活の肝要の読書、散策の時間まで影響したので、
原則としてコメントの返信は取りやめて、お互いに投稿文を読んで頂ければ、と変貌した時代もあったりした。

ここ4年は、来訪しコメントを残して下さった方には、原則として返信を認(したた)めている。
或いは数多くの方の投稿文を読ませて頂き、感極まって私は、そのお方にコメントをしたりしている。

そして上記の諸兄諸姉のサイトを明記した以外に、ときおり読ませて頂くお方も多く、
ここ3が月に於いても、瞬時に魅了されたお方のサイトも30名のお方もいる。
               
私がブログを書き始めて、早や10年近くになるが、
この広い空の下で、未知のお方に投稿文、或いはコメント上で、めぐり逢えたこと、秘かに感謝したりしている。

そして偏(ひとえ)に数多くの皆様にささえられて、投稿文が継続できていることも確かな事であり、
その上に、数多くのお方の確かな人生の教科書を学び、改めて感謝している。

☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へにほんブログ村
人気ブログランキングへ

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

定年後の年金生活10年の中、ささやかな私のブログの軌跡は・・。【上】

2014-09-07 12:15:06 | ☆夢幻のような安楽な60代☆
私は東京郊外の調布市に住む年金生活し、まもなく古希と称される70歳を迎える身である。
そして民間の中小業に35年近く勤め2004〈平成16〉年の秋に定年退職を迎え、
多々の理由により年金生活を始めて、まもなく偶然にブログの世界を知った・・。

我が家はインターネットを開設したのは、私が定年退職する数ヶ月前であった。
この当時の私は、数多くの同世代の人たちと同様に、多忙の現役サラリーマン時期であり、
自宅のパソコンにインターネットを開設したならば、友人たちと電子メールの交流の時間に余裕もない思いがあり、
退職後からすればよいと思いがあったのである。
          
私は現役サラリーン時代は情報畑に20数年従事し、1990年(平成2年)の初めの頃までは、
ある程度は専門畑として奮戦していたので、コンピュータの世界が解かっていたが、
その後は人事異動して利用者側の間接部門となったので、
やがて先端技術は解からず、社内システムのオンラインの端末機を利用したり、或いはパソコンを活用し、
業務に従事していたぐらいであった。

このような体験があったが、いざ自宅でパソコンにインターネットを連動させた時、
Webのネット世界の環境には、急速に進化を増したことに驚きながら溜息を重ねて、出遅れたと感じたりした・・。
          
                    
そして、定年退職後は、『ホームページ』を立ち上げて、
自身の日々の思い、そして過ぎ去った時代の思いのことなどを出来うる限り随筆風の散文を綴り、
公開しょうと思案したりしていた。

しかしながらホームページの開設までの技量に乏しく、無名の私が開設・運営した所で果たして、
と躊躇していた時に、
偶然に本屋の店頭で一冊の本にめぐり逢え、私は初めて『ブログ』の世界を知った・・。

この本は『はじめよう! みんなのブログ』(インプレス)と題された、
別冊インターネット・マガジンであった。

          
そして私はブログの多くは匿名制度であり、ある程度の良識を根底に於けば、
自在に私の生活のことから、政治、社会などに専門知識がない私でも、私なりの思いを発露でき、
何よりホームページより手軽に開設、運営できると感じ、ブログに加入しょうと決意した。
          
        
     
そして私は、2004年(平成16年)11月12日に【アメーバ・ブログ】に加入したり、
まもなくブログ形式に準じた【簡単gooホームページ】に加入し、
原則として毎日投稿したのは、2004年(平成16年)11月17日であった。

その後、ブログ形式に準じた【すくすくブログ】を知り、
気楽に綴れる専用サイトとしたのは、翌年の2005年(平成17年)1月11日であった。
一週間ぐらい投稿したが、会員数の多い【gooブログ】を知り、取り止めたりした。

この後、この【gooブログ】に加入して、
少し気楽に団塊世代、社会、政治・経済の諸問題を綴ろうと思い、投稿をはじめたのは、
2005年(平成17年)1月19日であり、この日から3,518日が過ぎている。
          
                
         
この後は、会員数の多い【gooブログ】とブログ形式に準じた【簡単gooホームページ】
二刀流のようなそれそれと差異のある投稿文を重ねて一年半ばかりした。

特に【gooブログ】は政治・経済に関しては、専門知識がなく素人の感性で、
投稿文を認(したた)めてきたが、つたなさ、そして無責任の広言を反省し、投稿を中止した。

やがて2007年(平成19年)、肝要の本命である【簡単gooホームページ】が9月末で閉鎖と知り、
8月より半ばより、これまで投稿文が移動できるブログ形式に準じた【OCN Cafe】を知り、
やむなく加入したりした。

この間、2008年(平成20年)の春先から、少し悩んだりした・・。

定年退職後の3年半、このように4つのブログ系のサイトに加入して書き散らしてきたが、
4月の初めに、山口百恵ちゃんの歌にあるプレイバックのように振り返った時、
何かしら今までの数多くの投稿文は鍋物の《ごった煮》のような思い、
投稿を休止していたブログ【gooブログ】に、今まで書き散らかした投稿文3000通前後を
コピーしながら整理、統合し始めたりした・・。
          
そして2008年(平成20年)4月中旬から本格的に【gooブログ】を再開させて、
私が幼少時代から年金生活の今日までの生きてきた心の軌跡であり、
自己表現のひとつとして、心の証(あかし)の残したいからであった。
          

やがて併設していた【OCN Cafe】は、2010年(平成22年)7月で中止し、
これ以来【gooブログ】の『年金青年のたわむれ記~かりそめ草紙~』を単独とした。

この後、2年前の初めの頃に、『夢逢人たわむれ記~かりそめ草紙~』とタイトルを改称した後、
『夢逢人かりそめ草紙』と短縮して今日に至っている。


年金生活をしている中のひとつとして、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを心の発露の表現手段として、
このブログのサイトに綴り投稿するのが、生きがいのひとつとなっている。

結果としては、パソコンの故障、国内旅行などしない限り、日に少なくとも一通は投稿してきた。
                  


2005年(平成17年)の当時の【gooブログ】は、入会している会員数は100万人であり、
ブログに準じたサイトの【goo簡単ホームページ】は、こじんまりとした10万人ぐらいの会員数であった。

私は個人的な幼年期からサラリーマン退職時まで、そして年金生活の日々の心情は、
脚色もないありのままの思い、真情を投稿文に認(したた)めたく、
お読み頂いた方に、リアルな私を判明しずらい会員数の少ない【goo簡単ホームページ】を選定した。
          


これまての私は10年近く投稿してきたが、私自身の幼年期から現役時代、そして年金生活の日々の思い等を
あますことのないように綴ってきた。

私は綴る際は、自身のその時の心に素直に綴るようにし、
あとで振り返った時、あの時はこのような思いで過ごしていたのか、
何より自身に対して、その時の思いの心情が大切なのである。

従って、数多くの駄文を綴ってきたが、ひとえに自身の為の心の軌跡の発露、と言っても差し支えない。
          
しかし誰しも光と影を有しているので、つたない私でも光と影があり、
特に暗く影のことも、私自身、家庭、或いは生家の事柄に関しも、
このサイトにためらいながら、マイナスと称される影も私は描写してきた。

たとえば、私の小学生の前半に、父や祖父が病死し、残された母や私たち兄妹は、貧乏な生活を一時期を体験したこと。
或いは、亡き母が40代の時代は、私たち兄妹の五人が何とか世間並みの生活にする為に、
ラブホテルのような連れ込み旅館を経営し、睡眠時間を削りながら、孤軍奮闘し、
私たち五人の子供は成人したこと。

又は次兄は自営業で、経済破綻して、自殺と称せられる自裁して、亡くなったこと。

そして私自身の場合は、大学を中退して映画・文學青年の真似事をして、やがて敗退したことや、
定年の五年前にリストラ烈風の中、無念ながら出向となり、定年時を出向先で迎えたこと。

このように私はこれまでの人生の歩みの中、心のわだかまりを吐露(とろ)しなければ、
この先の人生を生きて行くことはできない、と思い発露してきたのである。

こうした私なりに屈折した出来事を余すことなく投稿してきたが、
小心者の私としては匿名であることで、初めて発露できたことである。
          

このような心のうめきごとは、リアルな現実の日常生活では、
たとえ私が言葉にしても、対人の受け止めることに困り果てることもある、と感じたりした。

小説、随筆などは、あくまで間接のワンクションとして読者は受け止めることができるので、
ブログの匿名で公開する内容も、ある意味合いに於いては同じかしら、と思ったりしている。

このような理由も重ねて、私はここ7年、発信名は『夢逢人』と命名したのである。
私の綴ってきたことは、まぎれなく私の知る限り真実を発露してきたので、
リアルな現実でお逢いするのは、私の心の裸身を見られたようで恥ずかしく、
文字通り、夢の世界でお逢いしたいですね、と思いながら命名したりした。
          
             
しかしながら私は、どうしても表現できないこともあったりした。
このことは私の人格さえも問題視されることで、感情と理性の間を往還しながら、
ためらいながらも結果としては綴れなかったことがある。

たとえば、皇室の問題であり、天皇陛下、皇后陛下は限りなく敬愛しているが、
肝要の皇太子殿下、妃殿下のご夫妻に憂うことも感じたりしている。

或いは私の勤めた音楽業界のあるレコード会社に35年近くの中で、秘めたる事柄は、
守秘義務もないが、退職後の10年生となった今でも、心の礼節として綴れない。

そして格差の問題は歴然として、この世の中に各分野に露呈している現実があるが、
特に生活保護の難題は、綴れないのである。

         
私はこのサイトに於いて、政治、経済、軍事、社会を含めて、
専門知識のない感情だけで吐露(とろ)し、独断と偏見で、直球とかカープで余すことなく
筆力が乏しいまま発露してきたこともあったが、
ここ3年ぐらいは反省をまじえて減少している。
          
         
こうした中で、私は投稿文の時に、多くの方に読んで頂きたい自己顕示欲もあり、
投稿文の中では、改行を多くし読みやすいようにしている。

或いは2年近く前から、何とか写真を添付することが出来たので、
乏しい筆力を補(おぎ)いながら、カット代わりに写真を掲載したりしている。

そして私の投稿文の最初の一行に於いては、殆ど私の住んでいる地域を明記している。
このことは私が投稿文の中で、散策、買い物したりする場合、日本のどの地域なのか、
初めて読んで下さる方に理解して頂く為である。

こうしたささやかな思いで、つたない投稿文を繰り返して、早くもブログは10年近くが過ぎている。

☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へにほんブログ村
人気ブログランキングへ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

定年後の年金生活の中、何よりの健康の源は熟睡こそ肝要、と実感を深めて・・。

2014-09-06 17:21:56 | ☆夢幻のような安楽な60代☆
私は東京郊外の調布市に住む年金生活し、まもなく古希と称される70歳を迎える身である。
そして民間の中小業に35年近く勤め2004〈平成16〉年の秋に定年退職を迎え、
その後は多々の理由で、年金生活を始めた・・。

年金生活を始めた当初は、ダラケた日常生活を過ごすのは、何かと世間に恥ずかしく、
起床の時間は日の出前、と気合い一番で起床してしてきたが、
何かと私は読書好きで、ときには深夜まで読んだりしているので、
寝不足となり、ときには昼寝をして、補(おぎな)ったりした。

やがて3年が過ぎる63歳の頃から、日の出前の起床の必須事項のひとつは止めて、
目覚めた時に少しまどろんだ後、起きればよい、と改めて今日に至っている。

このような結果として、早朝の4時前後に起きることもあれば、7時頃になることもある。
          
そして私は年金生活をして丸10年が過ぎてしまったが、
風邪などで内科の病院に治療を受けたことはないなぁ、と思ったりした。

こうした私の秘かな対策のひとつとして、風邪気味の時は、
風邪薬も敬遠し、早めに布団にもぐり本を読み、そして睡眠時間を多めにしている。

もとよりこうしたグウダラなことは、年金生活の自在の身だからできることなので、
この世で一番贅沢なことかしら、と思いながら甘受している。

          
しかし働いて下さる現役の諸兄諸姉は、短期に成果を問われる昨今、
睡眠時間を削りながら奮闘されていると思われる。

そしてここ50年ぐらい大学受験に際して、『4当5落』という格言があった。
睡眠時間を4時間程度にし、5時間以上睡眠に貪(むさぼ)れば、
目指した受験校の合格には覚束ない、と長らく伝えられてきた・・。
          

私は若き18歳の時、大学入試の際は、目指していた第一志望の大学に合格する自信がなくなり、
安易に入学ができそうな大学を選定し、大学生となったりした。

その後、大学を中退し、契約社員、アルバイトをしながら映画、文学青年の真似事をした後、
あえなく敗退して、ある大手の民間会社に中途入社できたのは25歳の時であった。
          
もとより会社に勤めれば、多くのお方と同様に、
上司を見習いながら勤務に励み、ときには土日の休日出勤などもあったりした。

やがて情報畑でシステムの開発業務などの期間は、幾たびか徹夜となったり、奮戦したりした。
しかし開発の業務は、殆ど一年以内であるので、その後の勤務体制は10時間前後となったりし、
このようなサイクルを繰り返して、ひたすら奮闘してきた。

その後、定年退職の7年前より業界全般としてリストラ烈風の中、
やがて私は出向となり、少し遠方の勤務先となった。

朝は4時45分に起床し、帰宅は夜の9時半過ぎが圧倒的に多く、
消却法として睡眠時間は4時間程度となり、
こうした勤務体制を5年間続けて、定年退職時を迎え、サラリーマン生活は卒業した。

私は『4当5落』の言葉を聞いたりすると、安易に逃げた大学入試の受験期でなく、
社会人の最後のサラリーマン5年間の出向期間だった、と後(のち)に微苦笑する時もある。

          
私は年金生活を過ごす健康の源は、程ほどに歩き、薬などに頼らず、
熟睡こそ肝要である、と思っている。

そして生きがいのある言動をしていれば、
たとえ齢を重ね体力が衰えても、心も身も溌溂(はつらつ)と確信を深めたりしている。

☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へにほんブログ村
人気ブログランキングへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

定年後の年金生活の中、高齢者の殆どは『高等遊民』かしら、と拙(つたな)い私でも感じて・・。

2014-09-06 07:48:42 | ☆夢幻のような安楽な60代☆
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の身であるが、まもなく古希と称せられる70歳を迎える。
昨日の午前のひととき、自宅の近くに流れる野川の遊歩道を散策していたら、
70歳前後の男性の5人が高価な望遠レンズを付けたデシカメで、野鳥のカワセミを撮られていた。

野鳥にも無知な私でも、以前に何かしら携帯電話で、カワセミがこちらで見られる、
とお互いに小声で連絡し合っていたので、解ったりした。
そして男性の5人は高揚した少年のようなしぐさのを私は見たりすると、思わず微笑みながら好感したりした。

やがて私は歩道橋を渡り、対岸の遊歩道を歩けば、60代なかばの御夫婦が語り合いながら、散策したりしていて、
この人生の微笑みを感じたりした。

そして私は歩き続けて、小公園の片隅にある幾つかのベンチに於いては、
川風がさわやかに吹く中で、男性の6名が、それぞれ将棋を対局したりしていた。

この後、私は遊歩道から水辺の近くに降りたち、水の流れを見つめたりしているど、
昨今の高齢者の殆どは『高等遊民』かしら、と感じ深めたりした・・。
          

私が過ぎし2012年(平成24年)の晩春の頃、団塊世代が65歳を迎え、大量退職が始まる年、
と雑誌を読んで教えられ、思わず微笑んだりした。

私より少し若い世代の団塊世代の諸兄諸姉は、
多くは60歳で定年退職をされて、その後は年金完全支給年まで何らかの形で働かれ、
65歳になった今日、年金生活を迎えられた、と私は解釈した。

ふりかえれば、敗戦後からの一部の方を除き、誰しも貧乏な時代を知っている世代であり、
10歳以上齢上の人たちは、敗戦後の荒廃した日本を、
少なくとも世界の中でも有数な経済大国の礎(いしずえ)を努力と英知で築かれた人々であり、
そして後続する私たちの世代、そして団塊の世代も奮闘してきた。

こうした結果として、確かに日本は、世界の主要国の中に於いても、
社会インフラ基本基盤として、電気、ガス、電話、上水道、下水道も殆ど整備され、
学校、病院、公営住宅もあり、鉄道・バス路線、そして道路、高速道路もあり、港湾、橋梁なども、
整備されている稀な国家でもある。
そして年金、医療、介護などの社会保障制度も、多少の問題がありながらも存続している。

その上、経済は都心の一部は活性化しているが、地方は未(いま)だに低迷している現在さえも、
殆どの国民は飢えることなく飽食の時代となり、長寿化の時代を迎えている。
          

こうした中で、団塊世代の諸兄諸姉は、第一線を退かれ、年金生活を過ごされ、
今までの多忙な勤務の生活を終えて、それぞれお好きな趣味の時間で過ごされる、と思ったりした。
もとより60代はゴールデン・イヤーズと称される通り、身体も元気、
心は長年の勤務から解放感で満ち、心身共に第二の人生を満喫されている年代でもある。

そして70代も殆どの方は、体力の衰えは実感しながら、心は溌剌している.

このように感じていた私は、昨今の高齢者の殆どは『高等遊民』かしら、と少し飛躍した言葉であるが、
思いを重ねてしまったのである。

たまたま私は読書が好きであり、夏目漱石の『それから』の長井代助、『こゝろ』の先生、
或いは川端康成の『雪国』の主人公のように人を『高等遊民』と称されている。

もとより『高等遊民』は、なんら生産的な活動をせず、ただ日々を雅やかに過ごしたり、
学問の延長として己の興味のある分野(趣味の活動を含む)を追い求めて、
明治時代から昭和初期の近代戦前期にかけて多く使われた言葉である。
          

私は2004年〈平成16年〉の秋に定年退職後、その直後から年金生活をしているが、
私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思ったりしている。

そして私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

日常は定年後から自主的に平素の買物担当となり、
毎日のようにスーパー、専門店に行ったりし、ときおり本屋に寄ったりしている。
その後は、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。

ときおり、庭の手入れをしたり、友人と居酒屋など逢ったり、
家内との共通趣味の国内旅行をしたりしている。

日常の大半は、随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。
          

私の現役時代は、サラリーマンの身であったが、もとより生計の責務もあり奮闘する中、
30代の半(なか)ばに一軒家を建て、
この後3年ばかり家内はデパートなどに勤めて、強力な支援を受けたが、
家内は後方支援として家庭の多岐に及ぶ専業主婦として長らく努めてきた。

私たち夫婦の年金生活後も、家内は洗濯、掃除、料理などしているのが現状であり、
せめて日常の買物ぐらいは、私がすると自主的に実行している。
このことの背景には、私の現役時代の平日は会社で勤務し、
この間の日中は家内のペースで家事、趣味を過ごしてきた。

こうした家内の生活リズムをできる限り崩したくなかったので、
私は独りで買い物、散策をして樹木、野花などを見ながら、季節のうつろいを享受している。

年金生活の私たち夫婦の基本は、厚生年金、わずかな企業年金を頂き、
通常の生活費するのが原則としている。
しかし共通の趣味のひとつである国内旅行、或いは冠婚葬祭などの思いがけない出費などに関し、
程々の貯金を取り崩して生活している。

こうした中、毎年年始が過ぎた頃に、新たな年度の月別の概算表を作る際、
家内の要望などを織り込んで作成し、予算としている。
そして年金生活の身であるから、今年も赤字が120万円前後かしら、とお互いに確認し合っている。
          

こうして私たち夫婦は経済的に贅沢な生活は出来ないが、
働らなくても何とか生活ができるので助かるわ、と家内がときおり、
呟(つぶや)くように私に言ったりするので、私は苦笑しながら聞いたりしている。

そして日常生活で、昼下がりのひととき眠くなったら、
現役サラリーマン時代は、何かと睡眠不足も感じながら奮戦してきたので、
いつでも昼寝ができることは、年金生活の最大の恩恵かしら、と享受する時もある。

☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へにほんブログ村
人気ブログランキングへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

年金生活をすれば、私は齢を重ねたびに、家内に従順となり・・。

2014-09-05 07:31:27 | ☆夢幻のような安楽な60代☆
私がこの広い空の下で家内とめぐり逢えたのは、妹の嫁ぎ先の義父からの紹介であった。
私のすぐ下の妹は1969年〈昭和44年〉の秋に嫁ぐこととなり、
結婚後は義父母宅に同居することでなっていたので、
私は妹の結婚の新生活の準備の荷物を、幾たびか自動車で義父母宅の一室に運び入れたりした。
こうした時、義父と何かの時に、文學のことが話題となった。

この義父はある中堅の商事会社の監査役をしていたが、こよなく文学を愛し、
余暇は10畳の書斎の中で過ごし、ある地方の文学誌に寄稿されている方であった。

そして私は文学青年の真似事をした時期もあったので、
私は森鴎外(もり・おうがい)を敬愛していますが、やはり永井荷風(ながい・かふう)は群を抜いた文士でした、
と私は言ったりすると、
この義父からは、苦笑されながら、何かと私は可愛がれたりしていた。

こうした縁で、この商事会社に勤めていたひとりの女性を紹介してくれたのは、
1975年〈昭和50年〉の秋であり、私たちは交際をはじめ、この年の12月15日に婚約するために、
両家の結納となった。

その後、私たちは結婚日の日取り、結婚式場、新居の場所、荷物のことなどで、行き違いが発生して、
両家からの意向から、大波、小波に揺れたりした。
                    

やがて1976年〈昭和51年〉3月下旬に結婚式、そして披露宴を終えたが、
この間の結婚式で、私は不馴れな羽織(はおり)、袴(はかま)、そして扇子を持ち、
控室から指定された結婚式の式場に向った。

そして花嫁人形のような角隠しで白むくの容姿となった新妻となる人を見て、
この先の人生、どのような荒波があろうと私は・・と何かと小心者の私は改めて思いながら緊張した。

そして神前結婚式の中で、おはらいなどを受けた後、
誓詞奏上で練習もなく初めて見る誓詞を、今後の人生の責任感で緊張の余り、少し閊(つか)えて大きな声で述べたら、
隣の新妻がクスッと笑っているのが、私は聴こえたりした・・。
                   

この当時の私は、音楽業界のあるレコード会社に勤め、情報畑でシステム改定をしていたので多忙期であり、
短めな新婚旅行から帰宅し、2DKの賃貸マンションで新たな人生をスタートした。

私はサラリーマンの身であり、もとより生計の責務で孤軍奮闘し、
家内は専業主婦で、私に従順な新妻であった。

その後、子供が出来て狭い賃貸マンションの一室で這(は)うことを想像したり、
或いはいつまでも賃貸で支払い続けることを配慮して、新居の件で色々と思案したが、
結果として私の生家の近くに空き地があったので、この地に一戸建てとした。

そして家内は中学生の頃から茶事を習い、その後の私たちの生活の合間に、
先生の元に週一度通って修業していたので、私としては住宅関係で多大な借り入れ金をするので、
ついでにと若さ勢いで、母屋の部屋は一室増やして、茶室とした。

こうした結果、作庭の経費もなくなり、やむなく私の月給分ぐらいで雑木を中核とした。
しかしながら私は奮戦しても家計は赤字が多く、突然に家内はデパートに呉服売り場の契約社員として働き、
我が家は共稼ぎで何とか安泰し、3年後に家内は専業主婦に復帰して、今日に至っている。
                               

この間、私たち夫婦は結婚生活5年が過ぎても、子供に恵まれなかった。
こうした時、私の亡き父の妹の叔母が入院し、私たち夫婦はお見舞いに病室に訪れた・・。

貴方の幼年期に《おたふく風邪》の影響かしら、と教示され、
そして無知な私は恥ずかしくもあり、少し遠方の病院で検査を受けたりした。
やがて診断の結果としては、精液の量は普通ですが、やや精子が少ない、と医師から告げられた。

帰宅後、私は家内に包隠(つつみかく)すことなく伝えたりした。
色々と対策を医師から提示されたことも私たちは話し合ったりしたが、
結果としては自然のままの性愛の結果にゆだねるとした。

このような状況で、私は40歳過ぎた頃になった時、
私たち夫婦は子供のいない家庭に違和感もなく過ごしたりし、今日に至っている。
          

私が40代の時、会社でヨーロッパ研修の選抜に私は敗退し、
私は自宅の居間で家内に打ち明けたりし、涙を浮かべたりした。

或いは私が40代の時、ギックリ腰が悪化して、
結果として病院の整形外科に入院して、28泊29日間過ごしたりした。
          

やがて50代になると、1998年〈平成10年〉に音楽業界の各レコード会社の売上の主軸となるCDがピークとなり、
この前後は、各レコード会社が社内業務の見直し、組織の大幅な改定、グループ会社内の統廃合、
そして資本による合併などが行われたりした。

これに伴ない、正社員のリストラが行われ、
人事配置転換による他部門の異動、出向、早期退職優遇制度により退職が行われ、リストラ烈風となった。
こうした中で、私の勤めいていた会社も、人事配置転換による他部門の異動、出向、早期退職優遇制度が実施された。
                    
やがて私も1999年(平成11年)の新春、出向となった。
          

もとより出向身分は、会社に直接に貢献できる訳もなく、まぎれなく戦力外なので、
私は本社に30年近く勤め放り出され、屈辱と無念さが入り混じ、私でも失墜感もあり都落ちの無念さを感じたが、
半年後から何とか馴染み、自分の敵は自分だ、と思いながら精務した。
          

やがて出向先の物流会社も大幅なリストラが実施されたり、
私が30年近く勤めてきた出向元のレコード会社でも、幾たびかリストラ烈風となる中、
私の同僚、後輩の一部が定年前の退社の連絡、或いは葉書で挨拶状を頂いたりし、
私は出向先で2004年〈平成16年〉の秋に何とか定年退職を迎えられたのである。

そして、私は出向身分であったので、何とか烈風から免れたのも事実であり、
定年前の退社された同僚、後輩に少し後ろめたく、退職後の年金生活に入った理由のひとつとなった。

このように私は拙(つたな)いサラリーマン時代であり、もとより一流大学を卒業され、大企業、中央官庁などに
38年前後を邁進し栄達されたエリートとは、遥かに遠い存在である。
                    

この間、私が出向の辞令を受けた直後、私は家内と改めて定年退職後の人生設計を話し合ったりした。
そして私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、2人だけで第二人生の歳月を過ごすので、
結果としては残された人生はお互いの趣味を尊重して、堅実な生活を過ごせば、
年金生活でも何とかなると判断をしたりした。

そして私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思い、年金生活を始めたのである。
          

私の定年退職後、年金生活を始め、私は自主的に平素の買物担当となり、
毎日のように独りでスーパー、専門店に行ったりし、ときおり本屋に寄ったりして、数冊を買い求めたりしている。
その後は、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。

         
定年前の私は、現役時代のサラリーマンの時は数多くの人たちと同様に多忙で、
家内は我が家の専守防衛長官のような専業主婦であり、日常の洗濯、買い物、料理、掃除などで、
家内なりの日常ペースがあり、この合間に趣味などのささやかな時間で過ごしてきたので、
定年後の年金生活を始めた私としては、このペースを崩したくなくなったのである。

そして少なくとも家内は料理、掃除、洗濯などをしてくれるので、
家内が煎茶、コーヒーを飲みたい時を、私は素早く察知して、日に6回ぐらい茶坊主の真似事もしている。

こうした中で、ときおり小庭の手入れをしたり、友人と居酒屋など逢ったり、
家内との共通趣味の国内旅行をしたりしている。

日常の大半は、随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。

そして日常生活で、昼下がりのひととき眠くなったら、
いつでも昼寝ができることは、年金生活の特権かしら、と享受する時もある。

そして家内は季節が変わるたびに、独り住まいとなっている家内の母宅に、
季節の変わり目の支度で、6泊7日前後で行き、孤軍奮闘をしているのが定年後の状態でもある。

この間、私としては『おひとりさま』の生活となっているが、
いずれは私たち夫婦は片割れとなり『おひとりさま』となるので、 特別演習かしら、
と思いながら私は過ごしている。
                    

我が家の戸締りの責任者は、もとより主(あるじ)の私であり、
夜の9時過ぎには、玄関、台所、お風呂場などを点検する時、
『ハイ、OKです!』
と指差し確認しながら、ボケてはいけないと思い、若き自衛隊の諸兄に負けないように、
元気な声で言ったりしている。

この後、居間でテレビを視聴しているか、雑誌を読んでいる家内に、
『戸締り・・終了致しました!』
と私は家内に報告したりする。

その直後、 『ご苦労であった!』と家内は私に言うのである。

私の現役時代に於いては、ご苦労さまでした、と家内は何かと従順で優しく労(ねぎら)いの言葉をしていたが、
どうしてなの、と私は不思議に思ったりした。

その後、思い当るとすれば、確か2008年(平成20年)の頃にNHKの連続ドラマの『篤姫』が放映され、
家内は幾たびも視聴していたので、お姫さま、或いは奥方に影響されたのか、
このような言葉を私にするようになっていることが多い。
          

我が家の収入の現状は厚生年金、そして少しながら企業年金である。
私が過ぎし現役サラリーマン時代の年収は、孤軍奮戦して年々ほぼ確実に増えてきたが、
今や年金そして預貯金は減ることがあっても、増えることはないのが実態となっている。

そして我が家の年金、そして預貯金は先々ほぼ推定できる上、体力も齢を重ねるたびに衰えてきたので、
ともすればプラス思考の私でも、気弱になることもある。

そして家内からすれば、安定飛行のような年金生活の為か、意気溌剌として過ごしている。

私たち夫婦の共通趣味のひとつは国内旅行であるが、立案するのは大半は家内であり、
定年後の年金生活となると現役サラリーマンの時代から、旅路の日数の制約が無くなり、
6泊7日前後の観光ホテルに滞在して、その地の周囲を歩き廻って遊学することが多くなっている。

こうした中で、周辺を廻るプランを私たち夫婦は思案する中、お互いの要望の食い違い少し険悪になった場合、
数分以内に『XXちゃんのおしゃる通りです』
と私は家内の案に同意したりしている。

私は家内からは文学、映画、音楽などに関しては、軽い論評される時は困惑するが、
これ以外は年金生活の日常、そして旅路のことなどは、家内の案に賛意した方が問題解決が早く、
このようなことは私たちの結婚生活の中からすれば、大勢に影響はないと思ったりしている。

もとよりこうしたことにお互いにこだわると、共に楽しく過ごせる時が、
台無しになることも私は配慮した上、家内に優先権を与えることにしている。
                   

ご近所の方の奥様たちから、私たち夫婦の年金生活を見かけると、
仲良し恋し、と社交辞令のお世辞を頂いている私たちでも、
実際は日常生活の中で、ときおり私が失敗事をしたりすると、
平素は『あなた・・』と呼ばれるのに、『ボケチンねぇ・・』と家内から微笑みながら私に苦言される時もある。

このように私たち夫婦は、年金生活を過ごしてきた10年・・
私たち夫婦の結婚生活は、私は齢を重ねたびに家内に従順となっている、と微苦笑したりしている。

☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へにほんブログ村
人気ブログランキングへ

コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

定年後の年金生活の中、介護制度手続き、遅ればせながら初めて学び・・。

2014-09-04 07:17:03 | ☆夢幻のような安楽な60代☆

私は中小業の民間会社に35年近く勤めて定年退職した2004年〈平成16年〉の秋に定年退職後、
私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思い、年金生活を始めた・・。

そして私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に築後36年を迎える古ぼけた一軒屋に住み、
お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

この間、私が65歳になる直前に、調布市高齢者支援室より、『介護保険被保険証』が郵送され、
そして『介護保険料』の請求書が同封されてきた。
『XXちゃんさぁ・・俺も高齢者となり、介護保険証を持つ身になったよ・・』
と私は微苦笑しながら、家内に言ったりしてきた。

家内は私より5歳ばかり若い身ながら、私たち夫婦は共に厚生年金、そしてわずかながら厚生基金を頂き、
年金生活の夫婦となっている。

そして原則として私の厚生年金は『老齢基礎年金』と明示され、
年金支給額より『所得税』が差引かれ、住民税の『市民税・都民税』、『介護保険料』、『国民健康保険税』などが
差し引かれている。

こうした中、恥ずかしながら『介護保険』についても、
幸いに私たち夫婦は、大病もせず五体満足で過ごしてきたので、漠然とした思いで過ごしてきた。
                     

過ぎ去る今年の3月下旬に、【YAHOO! JAPAN】を開き、たまたま『雑誌』のコーナーを見ていて、
《 介護制度手続き -親が倒れて安心な町、心配な町 》
という見出しがあり、どういうことなの、と思いながらクリックした。

そしてビジネス総合誌として名高い雑誌『プレジデント』より、3月26日(水)に配信された記事と解り、
私は安心しながら精読した。

無断であるが、保健ジャーナリストの西内義雄さんが寄稿文の中で、介護制度の手続きに関してだけ、
要旨をさせて頂く。

《・・介護制度手続き -親が倒れて安心な町、心配な町

高齢の親が脳や心臓の病気、骨折などで入院したら……。
年末年始に帰省して「親の介護」が頭をかすめた人も多いことだろう。

いったん病気になると、杖や介助がないと自由に動けなくなることも珍しくないからだ。
実は、万一親が倒れた場合、身内がいかに早く関連する制度の「手続き」をしてあげるかで、
親の「生活の質」に大きな差が出ることをご存じだろうか? 

たとえば、高額な医療費の自己負担限度額を超えた分が支給される高額療養費。
その限度額を超える分を最初から支払う必要をなくす限度額適用認定証。

自力生活が難しくなれば介護認定。
後遺症が残るなら身体障害者認定も視野に入れることとなる。

これらの制度は、ほとんどが申請しなければ何も始まらないものばかり。
いくら健康・介護保険料を滞りなく支払っていても、誰かが動かない限り何も始まらない。

 
また、その手続きはどれも複雑で時間がかかる。
          
 
介護認定を例にとると、

①まず保険者(国保なら住民票のある自治体)に申請を出す。

②その後本人への調査が入るが、結果が出るまで1カ月近くかかる。

③つまり、退院後すぐに介護保険を利用したサービスを利用したければ、
 入院中に申請を出すのがベストだが、遅れる人も多い。

④特例として認定前からサービスを利用することもできるが、
 認定されなければ全額自己負担になるし、認定されても申請をした日までしか
 自己負担の減免はさかのぼることができない。・・

⑤第1号保険料(65歳以上)の介護保険料を例にとると、
 現在(平成24~26年度:第5期)の全国平均は月額4972円だが、
 自治体別に見ると月額2800~6680円と4000円近い地域格差がある。

厚生労働省は現在、介護の必要度が低い「要支援1、2」へのサービスの一部を
全国一律の介護保険サービスから市町村事業に移行させる見直し案を検討中と伝えられている。
これが始まったら、さらなる地域格差が生まれる可能性もある。・・》
注)記事の原文に、箇条書き、改行を多くした。
          

私たち夫婦の両親は、家内は母だけとなり、私より14歳齢上の後期高齢者で84歳となっている。
家内の父は私が定年退職時の直前に病死し、その後は一戸建てに独り住まいとなっている。

2年半前ごろに膝(ひざ)を悪化して、最寄りの病院に通院している中、
市からの福祉専門の方からアドバイスを頂き、やがて家内と調整を繰り返した後、
現在は生活の一部について部分的な介護を必要とする状態の『要支援2』となっている。

こうした我が家の家内は、少しばかり経過状況は認識しているが、
私は時折聞いたりしてきたが、少なからず漠然とした心情もあったりした。
          

今回、私たち夫婦は子供にいないし、私は今年の9月下旬に誕生日を迎えると古希と称される70代に入門となり、
家内も今年の12月下旬に誕生日を迎えると65歳の高齢者となり、『介護保険被保険証』対象の身となる。

私たち夫婦は幸運にも大病に遭遇しなく過ごしてきたが、
やがて齢を重ねて、介護制度を縋(すが)ることも考えられるので、
私自身も、真摯に介護制度の手続きを遅ればせながら、初めて学んだりした。

そして私は介護保険料はここ数年は毎年8万円前後支払っているが、
てきたならば介護にお世話になりたくないなぁ、と思いながら、
自宅の付近の3キロ範囲にある遊歩道、小公園などひたすら歩いたりしている。

☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へにほんブログ村
人気ブログランキングへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする