夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

定年後の10年の年金生活の中、糖尿病と診断され、青色吐息となった前後は・。

2014-09-03 08:17:56 | ☆夢幻のような安楽な60代☆
私は2004年(平成16年)の秋に定年退職後、多々の理由で直ちに年金生活に入り、
現役サラリーマン時代は悪戦苦闘が多かった為か、解放感で高揚したりした・・。

そして年金生活を当初は、独りで近所の遊歩道を散策したりすると、
こんなに自由に散歩できるなんて、許されても良いのかしら、
と定年直前までの多忙期を思い重ねたりし、戸惑いながら甘受したりした。

何よりも朝の陽射し、昼下りのひととき、そして夕暮れ時に、
ゆっくりと時を過ごし、苦楽の激しかった現役時代を思いながら、微苦笑を重ねたりした。

こうした中で、純米酒の辛口が好きの私は、晩酌の時は現役時代と同様に2合、ときには3合を呑んだり、
或い日はビールの時は500mlの缶ビールを数本を呑んだり、
ときには日中に小庭のテラスに下り立ち、簡易椅子に座り、缶ビールを呑みながら、
最後の出向時代の5年間は、何かと大変だったなぁ、と思い重ねたりした・・。

この結果、身長は170センチ、体重は70キロだった私は、毎年少しずつ体重が増えてしまった・・。
          

過ぎし2008年(平成20年)の秋に健康診断を受診した後、肥満体と診断され、
やがて市の斡旋の『メタボの研修』を受講した後、
国内旅行、冠婚葬祭、或いは懇親会などに限り、地酒をある程度は呑んだりしたが、
平素は缶ビールの350mlを2本までを殆ど守ってきた。

こうした中、もう少し呑もうかしら、と思うと、
何故かしら優しい保健師の女医さんのアドバイスの笑顔が蘇(よみがえ)り、
缶ビールの350mlを2本までの夜が圧倒的に多かったりした。

やがて翌年の2009年(平成21年)の秋に健康診断を受診した時は、
体重は3キロばかり減少て、75キロとなり、
優しい保健師の女医さんのおかげかしら、と私は微笑んだりした。

そして私は悦びながら、家内に伝えたら、
『あなたの健康にも良いし・・家計費のアルコール代も減りますから・・』
と家内は私に微笑みながら、言われたりした。

この後、私は相変わらず缶ビールの350mlを2本までを守り、
幾たびか旅行を重ねた時、昼はビール、夕食の時は地酒も呑み、
日常生活は散策と買物ぐらいの運動不足、その後の猛暑でエアコンの冷風の中で昼寝も多くなり、
2010年(平成22年)の秋に健康診断の結果、ふたたび78キロに戻ってしまったのである・・。
          

この結果、『糖尿病で、内科に受診して下さい』と明記され、私は青ざめ、
翌日に自宅から徒歩10分ばかりの内科専門病院に行き、検査、そして問診の時、
『国内旅行に何とか70歳ぐらいまで行きたいので・・何なりと御指導をお願い致します』
と私は内科の医師に懇願した。

そして高橋真梨子さんが唄われた『桃色吐息』は妖艶であるが、
体力の衰えた66歳の私は青色吐息のような表情で、内科の医師のアドバイスを聴いたりした・・。

私は定年の5年前の頃から、60代は五体満足で生かしてくれ、その後は余生である、
と公言してきたが、家内との共通趣味は国内旅行であり、
糖尿病の場合は、もとより食事制約がある。

このような時、家内は旅行の宿泊先で美味しい夕食を頂いていた場合、
私は食べてはいけない料理だったら、余りにも惨(みじ)めである、と思ったりした。


やがて医師から、料理のカロリー試算表を渡された上、軽い運動を毎日して下さい、と私は言われた・・。

この後、6週間の私は、家内が料理のカロリー試算表を確認しながら料理を作って貰い、
これ以来、朝夕頂いたりした。

そして私は晩酌の缶ビールの350mlを2本さえも取りやめて、
お酒はしばらく・・さよならねぇ、と夕食の時も煎茶を飲んだりしていた。

昼食は婦女子のようなフルティ・ランチで、リンゴを一個、そして柿一個としていた。

その上、散策は時速3キロぐらいの歩みから、時速6キロぐらいのウォーキングとなり、
汗をかきながら最低30分は歩き廻り、ほぼ毎日していた。

この結果、体重は74キロとなり、4キロばか減少し、
ズボンの腰回りも楽になり、ベルトについている穴も2つばかり減り、
何かしら身体が軽快に成ったと微笑んだりしていた。

しかし、以前ゆっくり歩いた散策の時は、
この時節の晩秋の朱紅色、黄色に染められた錦繍の情景に、深い心を寄せられることができたが、
ウォーキングとなれば、風景が通り過ぎるように心を寄せる瞬時の思いが、なくなってしまった。

やむなく私は、公園を目指して、ウォーキングに専念した後、
公園内で汗をふきながら、ゆっりと散策して過ぎ行く美麗な錦繍の情景に心を寄せ、
そして帰路は、ウォーキングして、日中のひとときの定例事項としてきた。

この間、私は最寄の内科に3週間毎に定期健診を受けて、
糖尿病の範囲の対象から克服でき、悪玉コレステロールは基準値の90%、
これ以外はすべて優等生となったのは、2011年(平成23年)の3月の初旬であった。
          

そして私としては何よりも不思議と感じたのは、冷蔵庫の中にビールがあること、
台所の片隅の収納所に日本酒の一升瓶、四合瓶も忘れてしまっていることである。

かって呑兵衛と自任してきた私は、平素の夕食に煎茶でもまったく違和感が感じることなく、
過ぎている・・。

このように私は20代から何かと日本酒、ビールを中核にワイン、ウィスキーも呑んできたが、
歌を忘れたカナリヤのようにアルコールから遠ざかり、
国内旅行、冠婚葬祭、或いは懇親会、そして我が家で週に一度ぐらい呑むぐらいとなり、激少となったりした。

この後、国内旅行で家内と共に各地を幾たびも行ったりすると、
やはり宿泊処で地酒を呑んだりしてきたが、体重が増えてしまった。

やむえなく糖分の多い日本酒とお別れして、ウィスキーに氷を入れただけのオンザ・ロックに、
弱くなったので少しだけ水を入れた濃いめの水割りで呑むこととした。
そして糖尿病と宣告されて以来、 冠婚葬祭、懇親会、国内旅行など以外は、
原則として自宅で呑むのは、5日に一度ぐらいとなっている。

この間、最寄の内科専門医院に4週間毎に定期健診を受けているが、
ここ3年ぐらいは悪玉コレステロールは基準値の90%、これ以外はほぼ優等生となって、
改善努力の成果となっている。

こうした定期健診を受けるたびに隣接した薬局で、血糖値を下げる薬を頂き、
日々朝食後に飲んでいるが、これ以外は至って健康だ、と思ったりしている。
          

こうした中、過ぎし40代前後に弐合徳利、ぐい呑むを幾種類も買い求めて、
晩酌の時に、今宵はどの弐合徳利にしようかしら、と選定しながら夜の友のひとりとしてきたが、
今やガラス戸の棚に、ひっそりと鎮座していることも、忘れていることが多くなっている。

過ぎゆく人生は、無念ながら何かしら断念することもある、と私は微苦笑している。

私はこれまでの60代の10年の日々は、幸運にも大病に遭遇せずに過ごしてきたが、
健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わない。
私自身の糖尿病の再発防止もさることながら、何よりも怖いのは認知症である。

こうした根底があり、自宅の周辺3キロぐらいの中の住宅街の道、遊歩道、小公園などを
ひたすら歩いたりする中で、 季節のうつろいを享受している。

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定年後の10年の年金生活の中、何かと『都心』には苦手意識が増して・・。

2014-09-02 07:49:14 | ☆夢幻のような安楽な60代☆
私は東京郊外の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住む身であるが、
私の生家も近くにあり、この地域で1944年(昭和19年)秋に農家の三男坊として生を受けて、
結婚した前後の5年間を除き、これまでの65年近くこの地で過ごしてきた・・。

私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に築後36年を迎える古ぼけた一軒屋に住み、
お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

そして私より5歳若い家内も、お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。

こうした中で、私は9月下旬の誕生日を迎えると古希と称される70歳となり、
家内も12月下旬の誕生日を迎えると65歳となり、介護保険証を受ける身となっている。

私の住む地域では、ここ一週間ばかり梅雨寒むのようなしとしと小雨降る日が続き戸惑ってきたが、
久々に朝の陽射しを受けて、私は陽に向かい両手を合わせて、感謝したりした。

こうした後、雨上がりの清々しい小庭をぼんやりと眺めたりしていると、
人出の多い『都心』には、年金生活を10年ばかり過ごしてきた中、
齢を重ねるたびに苦手になってきた、と微苦笑したりした・・。

昨年は旅行の為に、『東京駅』、『羽田空港』を利用した以外は、
家内と『新宿』のデパートに買い物を早春、秋に行ったり、懇親会で『品川』にあるホテルぐらいだった、
と思い馳せたりした。
                    

私は地元の調布市の小学、中学校を卒業した後、1960年〈昭和35年〉の春から都心の高校に通学した。

それまでは幼年期に於いて、母に連れられ、新宿の『伊勢丹』のデパートに行ったりして、
階段の踊り場、そして新宿の地下の通り道などで、
不幸にして戦争で身体の一部を失くされ、軍歌の音色とも、その容姿を見るのが恐かった。

小学校の高学年になると、付近の調布、布田、千歳烏山の映画館に、独りでよく通ったりした映画少年のひとりで、
こうした中、次兄から都心の『日比谷』にある映画を観ようと、
新宿から築地行きの都電を乗ったが、乗り物の酔いで私はしょげたりした・・。

確かあの当時の都電は、運賃は均一13円と記憶しているが、
下車したら当然もう一度支払う必要があったので、日比谷まで頑張れ、と次兄に励まされ、
青ざめた顔で日比谷で降りた記憶が残っている。

          
          
高校は中野区に所在していたが、新宿を経由し通学したので、
『荻窪』行きの都電を利用したり、或いは中央線で『中野駅』から歩いて登校したりした。
下校は殆ど新宿の繁華街を通り、食べ盛りであったので、
街中の食堂でカツ丼とか親子丼、或いはラーメンを午後の3時過ぎに食べることが多かった。

そして、独りで映画館に立ち寄ったりしていた。
こうした中で、『小田急デパート』が開業したり、やがて『京王デパート』が開業されたりし、
特に新宿の西口は激しく変貌し、その後に高層ビルが林立していった。

こうした中、私は読書も好きだったので、『神保町』の古本街に行ったり、
ときにはロードショウと称された映画の封切館で、上映された日比谷の映画街なども通ったりしていた。

1964年〈昭和39年〉の秋に東京オリンピックが開催された数年前の出来事である。
                     
      
大学に入学してからは、映画鑑賞に没頭していたので、新宿、日比谷の映画館を中心で鑑賞していたが、
名画が上映すると名高い池袋の『人生座』と銀座の『並木座』は、私なりに欠かせない映画館となっていた。

東京オリンピックの開催していた1964年(昭和39年)の秋、
京橋の『近代美術館』に於いて、日本映画の昭和初期からの名画特集を上映していたので、
私は日参したりしていた。

そして映画を観る以外は、新宿の『紀伊国屋書店』、このビルの中にある喫茶の紅茶専門店を利用したり、
ときには『新宿御苑』を散策したりした。
          

その後、映画の脚本家になりたくて、大学を中退し、芸能専門養成所のシナリオ科に通った頃は、
銀座の『松坂屋』の裏手のビルに教室があり、数寄屋橋から歩いたりしたが、
お金に余裕のない私は、大人の街である銀座の高級店には縁がなく、
もっぱら大衆向けの店を利用したりしていた。

そして映画青年の真似事の生活を過ごし、
アルバイトや随時契約の単発仕事で何とか生計を立てていたが、
養成所の講師の知人の新劇の長老から、
映画は益々衰退して、脚本家で飯(めし)が食えるのは、少ないので、
同じ創作するならば小説を書きなさい、とアドバイスを頂いたりした。

そして私は文学青年に転身して、契約社員をしながら習作をし、
こうした中で純文学の小説の新人募集に3回応募したが、最終予選の寸前で敗退したりし、
叔父からは、30過ぎた時、きちんと家庭を持てるだけの力があるの、と言われたりしたので、
根拠のない自信ばかり過ごしてきた私でも、敗北宣言をして、通常の社会人に戻る決心をした。

この時代は高度成長期であったが、大学を中退し、もとより企業の中途入社は容易ではなかったので、
やむなくコンピューターの専門学校でソフト科に1年間学び、
何とかこの当時は大手の音響・映像メーカーに中途入社できたのは、
25歳を過ぎた1970年(昭和45年)の春であった。
                    

この音響・映像メーカー会社は、この中のひとつとして音楽事業本部があり、
レコードの有力な幾つかのレーベルを管轄していた。

私は入社試験の面接の最終時に、テレビ・ステレオなどのハード系より、
何かしらソフト系のレコード部門に心身相応しいと思っていたので、懇願して配属して貰った。

入社した直後、現場を学べ、と指示されて、
横浜の新子安にある工場の一角で、商品管理の部署に勤めていた時、
まもなく大手のレーベルが、外資系のレコード会社として独立した会社となり、私も転属された。

やがて私は、10ヵ月後に本社のコンピュータ専任として異動させられた。
本社は『赤坂見付』駅前の東急ホテル・ビルの一角にあり、私は1971(昭和46)年の早春から数が月程、通った。
この東急ホテル・ビルの2階は小売専門店が並んで、
おしゃれな高級店も数多くあったが、私は喫茶店を利用できる程度であった。

この当時も赤坂は、銀座と同様に大人の街であったので、
若いサラリーマンの身の私は、TBS方面の小料理店で昼食を食べたりした。

まもなく本社が『六本木』に移転したので、
この後の1992年(平成4年)までの20年ばかり、私は六本木の界隈の空気と共に過ごした。
          
 
         
      
1971年(昭和46年)5月に本社が六本木の所在となり、
四丁目の交差点から100メートルぐらいにあるビルが勤務地となった。

この当時の四丁目の四つ角に於いては、
本屋の『誠志堂書店』、喫茶風の飲食店の『アマンド』、『三菱銀行』の支店があり、
最寄には『俳優座』や中華料理の『楓林』があった。

そして近くには都の経営する大衆的な『六本木食堂』があったり、
イタリア料理の『カーディナル』、日本料理の大衆店の『正直屋』などの小料理店があったりした。

喫茶店は洋菓子の『クローバー』、『貴奈』をはじめとし、数多くの喫茶店があった。
こうした中で 『俳優座』のビルが新築過ぎた頃から、街は急速に変貌を始じめた・・。

レコード店の大型店の『WAVE』、そして本屋の『青山ブックセンター』に通ったり、
或いは日本料理の『美濃吉』を利用したりしていた。

          
こうした中、 私は1972年(昭和47年)の頃から、シャンソンに熱中したので、
銀座の『銀巴里』でコーヒーを飲みながら、数多くのシャンソン歌手の唄声を聴いたりした。
こうした『銀巴里』の往還の時、近くにある『ヤマハ 銀座店』で、
数多くのシャンソンのLPと称されたアムバムを買い求めて、熱中して聴き込んだりした。

そして、ときには水割りのウィスキーを呑みながら『蛙たち』でシャンソンに酔いしれた。

或いは、渋谷にもカンッオーネを主体の店にも足を運んだりした。

この当時、私の勤務上、兄弟会社のようなレコード会社が原宿のピアザビルにあって、
『原宿駅』、『表参道』などからシステムの業務提携の関係で数年通ったりした。
                    

この間、私は六本木にある会社に通勤していたが、この六本木のはずれに『防衛庁』があった。
六本木の地下鉄の駅を出ると、四丁目の交差点があり、
ここから200メートル前後に東西南北に小さな複合ビルが立ち並びんでいた。

この繁華街のはずれに防衛庁があったので、何となくとりとめのない感じを持った。

防衛庁の塀は、安すぽいコンクリートで囲みを造り、正門は頼りのない感じであった。
最初、この正門を通った時、私が高校一年の時の1960年〈昭和35年)の安保闘争の時、
全学連等のデモ隊が押し寄せた場所だったのか、と考え深げであった。


私はいつも退社後、地下鉄の駅に向かうと、繁華街を目指した人々とすれ違った。
ビジネスマンは少なく、遊びに来ている人のほうが圧倒的に多かった。
この繁華街のはずれに防衛庁があったので、誰しも違和感を持っただろう・・。

その後、地下鉄の千代田線が開通となり、『乃木坂』駅が出来て、この駅から防衛庁の正門前を通り、
四丁目の交差点までの大通りに客足が増えた。
確か1982年〈昭和57年)の頃と記憶しているが、防衛庁も塀、門扉を一新し、小奇麗になった。

そして私は退社後、この通りを歩いて『乃木坂』駅に向かった。
途中、黒人兵が日本の若い娘と腕を組んだり、或いは若い娘のグループたち、
そして30前後の女性の一部が、ノーブラで高価なブラウスを召して、さっそうと歩いてくるのを、
パブル経済の最中といえども、街の中でもかょ、と私は戸惑いながら苦笑したりした。

その後、ディスコ・ブームとなり、六本木の繁華街は益々大人のおもちゃ箱をひっくり返したように、
活気と喧騒につつまれていた。

しかし、この大通りの200メートル前後の防衛庁だけは、いつもひっそりしていた。

その後、防衛庁は市ケ谷にある自衛隊の基地に移転したが、
この跡地から江戸時代の小判が出てきた、と風の噂さで私は聞いたりしていた。


このようなことを思い馳せたりしたが、六本木のあの時代の空気を知っているひとりとして、
私は防衛庁の跡地の「東京ミッドタウン」は魅力もなく、興味がないのである。
          

          
          
1992年(平成4年)の5月過ぎに、レコード会社の合併により、渋谷の外れの勤務となり、
私が20代の後半に散策した『パルコ』、『スベイン坂』、『道玄坂』を懐かしんだりした後、
東急の『文化村』を知り、その後にライブなどで幾たびか通ったりした。


私の現役サラリーマン時代は、中小業の会社であり、管理畑が大半であったので、
世間で称されている会社の交際費を利用した社用族には皆無であり、
銀座の一流と称されるバー、料亭などの世界は知らない。

従って、私は大手企業で昇進を重ねるエリートの方たちとは、程遠いサラリーマンの身なので、
シティ・ホテルなどに関しては、『帝国ホテル』、『ニューオータニ』、
『六本木プリンス』、『品川プリンス』、『京王プラザ』等ぐらい利用した程度である。

          
つたない私としては、駅付近の商業ビル内の食事処、街中の専門料理店、
居酒屋をたびたび利用していた。
そして、ときには血気盛んな若き頃は、風俗店に行ったりしていた。
                  

2004年〈平成16年〉秋に定年退職した後、人出の多い都心には疲れた為か、或いは齢を重ねた為か、
『六本木ヒルズ』、防衛庁の跡地の『東京ミッドタウン』、東京駅に近い『新丸ビル』等の興味がない。

このように長年に於いて苦楽を共にした都心であったが、私の心は遥か彼方遠くなっている。


年金生活をしている中ときおり、新宿の『伊勢丹』、『小田急デパート』、『京王デパート』、
或いは登山、ハイキングのアウトドアの専門衣料店で買物をしたりした後、
帰路の最寄の『成城学園前』の駅ビル、付近の食事処で食事をするのが、
何かしらほっとし、気楽に食べ、呑んだりしている。

日常の多くは、小田急腺の『成城学園前』、『喜多見』、『狛江』、
京王線であったならば、『仙川』、『つつじヶ丘』、『調布』の駅付近で充分と思っている。
          
何より気楽なのは、自宅の小庭の落葉樹の四季折々のうつろいを眺めながら、
コーヒーか煎茶を飲みながら、家内とおしゃべりをしたり、
食事をするのが心身の波長に最良となったりしている。

或いは私は独りで、自宅の周辺を散策したり、或いは近くに流れる野川の遊歩道を歩いたり、
ときおり『神代植物園』に行ったりして、
常緑樹、落葉樹の季節のうつろいに心を寄せたりするのが多い。
          

                                  
私たち夫婦は国内旅行が共通の趣味のひとつであり、ときたま旅行を重ねているが、
自宅から一時間ばかりの東京駅を利用する時が多いが、高層ビルの並ぶ都心を眺めたりすると、
心の中で、めまいを感じたりしていることが多い。

そして旅先で、その地の料理、和菓子、日本酒をほめ、偶然にその地の方たちと談笑したり、
宿泊先の仲居さんにからかわれたり、或いは温泉に入浴したりして、
その地の風土を愛(め)でるのが心の良薬となっている。

         
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過ぎ去り年のリストラ烈風の中、定年退職して、早や実質として丸10年の年金生活が過ぎ・・。

2014-09-01 08:25:28 | ☆夢幻のような安楽な60代☆
私は1970年(昭和45年)の春、この当時は映像・音響の大手メーカーの民間会社に、
何とか中途入社出来たのは、25歳の時であった。

そして音楽事業本部の片隅で勤めていた私は、まもなくこの中のひとつの大きなレーベルが、
外資系のレコード会社として新設され、私も移籍の辞令を受けて、
音楽に直接に関わる制作畑ではなく、商品、情報、経理、営業などの部門を異動したりして、
35年近く勤め、2004年〈平成16年〉の秋に定年退職した身である。

私が勤めてきた中小業の多い音楽業界の各レコード会社は、
1970、そして80年代はそれぞれのレコード会社は躍進したが、
1990年代を迎えると、特に外資系は、世界市場の中でアメリカに続いて、日本が第二位となり、
抜きん出た市場となり、本国の要請で利益の追求が厳しくなり、
やかて各会社は総合見直しとなり、会社間の統廃合もあり、人員削減も行われはじめた。

そして1998年(平成10年)に売上の主軸となるCDがピークとなり、
この少し前の年からリストラ烈風となり、
私の勤めた会社も同様に、早期退職優遇制度の下で、上司、同僚、後輩の一部が業界から去ったりし、
人事異動も盛んに行われたりし、 私も50代のなかば1999年(平成11年)の2月に、
取引先の物流会社に出向を命じられた。

                 
もとより出向身分は、会社に直接に貢献できる訳もなく、まぎれなく戦力外なので、
私は本社に30年近く勤め放り出され、屈辱と無念さが入り混じ、
私でも失墜感もあり都落ちの無念さを感じたが、
半年後から何とか馴染み、自分の敵は自分だ、と思いながら精務した。
          

                  
この間、出向先の物流会社も大幅なリストラが実施されたり、
私が30年近く勤めてきた出向元のレコード会社でも、リストラ烈風となる中、
私の同僚、後輩の一部が定年前の退社の連絡、或いは葉書で挨拶状を頂いたりし、
私は出向先で2004年〈平成16年〉の秋に定年退職を迎えたのである。

そして、私は出向身分であったので、何とか烈風から免れたのも事実であり、
定年前の退社された同僚、後輩に少し後ろめたく、退職後の年金生活に入った理由のひとつとなった。
                    

この間、私が50代のなかば1999年(平成11年)の新春に出向の辞令の直後、
私たち夫婦は、定年退職後の生活を具体的に話し合ったりした。
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
定年後に於いて、どのような生活をしたいか、そして生活資金などを話し合った。

やがて結論としては、定年の60歳まで働き、主(あるじ)としての収入の責務を果たした後は、
定年退職後の60歳以降は、私は働くことを卒業し、お互いのささやかな趣味を互いに干渉することなく過ごして、
私たち夫婦の共通の趣味のひとつの国内旅行を四季折々できればよい、という事になったりした。

こうしたことを実現したく、現役時代の収支、そして退職金、退職後の年金推定を算出した。

私たち夫婦はたった2人だけの家庭であったので、もとより子供、孫もいないので、
何かと私たち夫婦の私の退職後の生活収支は、ある程度算出し易かった。

ただし私は1944年(昭和19年)9月生まれであるので、
年金の満額の支給は62歳であり、それまでの2年間は満額のほぼ半分となるので、このことも配慮した。

この時の私は、幸いに住宅ローンを終えていたので、
年金が満額となった62歳からの生活の収支は、
私たち夫婦の共通趣味である国内旅行費、そして冠婚葬祭など諸経費は例外として、
原則として生活費は年金を頂く範囲として、収支の概要を作成したりした。

こうした結果、私の年齢、家内の年齢を主軸に
1998年(平成10年)から私が80歳を迎えるまで、
年次別の収支と残額を作成し、パソコンに入れて、計画、実績、差額を毎月入れることとした。
                                 

こうした中で、定年退職時まで半年を迎えた2004年(平成16年)の春、
私は右腕が肩より上に上げたりすると何かと重く、痛みを感じたので五十肩かしらと思い、
毎週土曜の休日になると、自宅から最寄駅の駅前の近くにある整形外科に通院したりした。

思い当るとすれば、この当時は毎朝の4時45分に起床し、
自宅の付近の始発バスに乗り、小田急線の『成城学園前』駅より遠方の通勤場所に通い、
音楽商品のCD、DVDなどのある東京ドームより広い商品センターで奮戦し、
帰宅は早くても夜9時過ぎであったりした。

こうしたことを50代の後半に5年過ごしてきたので、疲労の蓄積かしら、と苦笑したりした。

やがて5月の大型連休になると、私の責務の範疇である自宅の庭の手入れの樹木の剪定、草むしりは、
やむなく放置していた。

そして7月頃になると、家内の父が腎臓癌で入退院を繰り返してきたが、
更に悪化状況になり、家内の母と家内は一日交代で、ある大学病院の個室で夜通し看護する身となった。
この間、家内は40代の初めからテニスに熱中していたが、これ以降断念したりした。

家内は我が家から2時間以上の電車に乗り、入院している病院に通ったりし、
帰宅後は疲労困憊の日々となった。

                    
こうした我が家として結婚生活の中で最大の危機のような状況もあり、
やむなく私は有給休暇を利用して、定年退職時は10月20日であったが、
早めの8月の月末で通勤を断念して、実質の定年退職時となった。
                              

世の中の数多いサラリーマンは定年退職に於いては、
職場で多く方に囲まれて花束を贈呈され、拍手喝采中、職場を去ることが多く、
この退職する数週間前の頃から歓送会が幾たびか開催されている、と私は学んだりしていた。

確かに私が30年近く勤めてきた出向元のレコード会社でも、リストラ烈風の前には、
私も先輩方たちの歓送会に幾たびか出席したりしてきた・・。

そして私の同僚のふたりが、私が定年退職の時、歓送会の幹事をすると私に約束してくれたが、
リストラ烈風の中、私が出向3年生の時に肝要な同僚のふたりが、リストラをされて退社し、
はかなくも30年近く勤めてきた出向元のレコード会社の中での私の歓送会は、まぼろしとなってしまった。

しかしながら私が出向時の直前に営業本部に所属していたので、盛大な歓送会を開催して下さり、
私は今でも感謝している。

こうした中、誰しもがリストラ烈風の中、のどかな定年退職時の歓送会などは、
開催されることは少なくなった。

私の場合は物流会社の中のひとつの商品センターに出向であり、
職場はセンター長をはじめとする私を含めて正社員の5名の中、
若手の20代を中核とした男性の契約社員、アルバイトの10名前後、
そして30代と40代の多い女性のパートの120名前後の職場であった。

この最後の勤務8月の月末日、商品センターが出荷作業が一段落した後、
朝礼形式の全員並ぶ中、私は退職の挨拶をした後、女性のパート方達から花束、贈呈品、
そしてこの後に、色紙に多くの方からの短かなメッセージ、ある方からは丁重なお手紙の礼状を頂いたりした。

そして物流会社の本社に挨拶に出向いた後、
夜のひととき、商品センターの有志10数名から歓送会を開催して下さり、
後日の9月中旬に物流会社の本社、商品センターの有志で20数名で歓送会をして下さった。

或いは私が30年近く勤めてきた出向元のレコード会社の有志20数名は、
リストラ烈風の中でも定例的な懇親会を幾たびか開催してきたが、
10月下旬の時、私は定年退職を迎えることができたことに御礼の言葉を述べたりした。

このようにリストラ烈風の中、のどかでおめでたい退職時の情況は、私の場合は出向身分もあり、
大きく変貌してしまったのである。
                    

私は実質として退職した9月の始めから、自宅で五十肩を労(いたわ)りながら、
家内の父の危篤のような状況を憂いたりしていた。

やがて9月の中旬に私は、小庭の枝葉、雑草は伸び放題だったので、
とりあえず五十肩を気にしながら玄関庭、主庭の雑草の草むしりをした。

こうした中で主庭の草ぼうぼうの中で、草むしりをしている時、小さな幼い樹が三本を見つけた。

樹高は10センチぐらいで樹元の幹回りは3ミリぐらいの、かぼそい樹であった。
そして私は、小鳥が飛び立つ前のささやかな贈り物が成長したのかしら、と微笑みながら、
抜き取るのをやめて放置した・・。

 
          
この後、家内の父は10月初旬に死去し、仮通夜、通夜、本葬、告別式、初七日と日々を過ごした後、
私の定年退職時の10月20日の正式日に迎え、退職後の書類、退職金などで銀行廻りをしたり、
関係先、知人に退職の挨拶した御礼の葉書を郵送したりし、慌ただしい日々を過ごしたりした。

こうした中、定年退職後の失業保険に関して、当初は申請して、5ヶ月分の失業手当を頂こうとした。
しかし、私は長年に及び管理畑の身であったので、これといって特別な技術もなく、
たまたま家内の父が死去された後の失墜感も加わったりした。

そして、この数年前の頃は大企業もリストラ烈風で失業された人達も多く、
私は勤める意志なく、求職される方たちの真摯な様子をホームページ、新聞、テレビのニュースなどで知ったので、
失礼と思い、失業保険の申請書を破棄したりした。

こうした心情の中、定年退職記念旅行は延期、失業保険は断念した予定外のことであったが、
人生は予定通り進まないことも多くあるので、私なりに後悔はしなかった。
          


そして11月下旬に亡くなった家内の父の四十九日の法要、納骨を終えた後、
家内の母と家内と私は、お寺の付近の最寄駅の延長にある亀山湖の観光ホテルに3泊4日で滞在した。

こうした時、私は亀山湖の湖畔を独りで散策していた時、五十肩の違和感が消えたり、
この当時は60歳の年金生活を始めた頃であったので、
天上の神々は、いつまでも50代ではない、と采配して下さったと思いながら微笑んだりした。


そして翌年の2005年(平成17年)の入梅前、私は草むしりに専念していると、
あの幼い三本の樹は、少し成長していたので、この中の一本を庭の片隅に移植して、
私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
秘かに定年退職時の記念樹と私は決めたりした・・。

小さい樹ながら、早春には芽吹き、春には主幹と枝は成長して若葉の情景となり、
               
秋を迎えると、あまたの葉は黄色に染まり始め、やがて晩秋には黄色の色合いに染め、
               
12月の初めの頃に落葉して、そして冬木立となる。
          
この間、めざましく伸長したので、やむなく剪定を繰り返して、樹高は5メートルまでとしたりした。
               
        
こうした中で、小庭に私の定年退職の記念樹として植えた樹も大きく育っている。
つたない半生を歩んできた私が、せめて定年退職時の記念樹と思いながら、
ときおり四季折々ながめることが多い樹となっている。

過ぎし今年の4月の初旬、澄み切った清々しい晴れ間となっている中で、
小庭にあるアカネモチは朱紅色の新芽、そしてキンモクセイの黄緑色の新芽も伸びだし、
名も知らぬ落葉樹は芽吹きが終わり、幼い葉を眺めたりした。
               

このようなことを思い馳せたりしていると、定年退職日は実質として8月31日となり、
9月1日からは年金生活をしてきたので、早くも丸10年は過ぎた、と独り微苦笑を重ねたりしている。

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コメント (2)
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