射幸心を煽るということで、アレパチ機が追放され、パチスロも5号機に。
そこそこに我が財布とパチンコ店の間でお金が回転している内は良いのですが
あの店では、○人がトイレで自殺したとか、らららプロフルに直行とか、
出玉に熱くなって、そこまで行き着くと不幸でしかありません。
学生時代は、ハネ物で洗剤などの生活必需品を稼ぐ程度でしたが、セブン機が
出現し、状況は一変するとともに、アレパチに至っては、昨日十万円勝って、
今日十二万円負けるなどという話が、自慢気に語られていました。
パチンカーやスロッターは、始めから負けるつもりで店に出かけないだろう。
が、店の粗利(収奪率)を50%と想定すると、既に50%の客がその時点で負けている。
さらに、収支トントンの者や一人勝ちを考えると、敗者になる確率は70~80%まで
高まっていくことになります。
それでもパチンコ店に足を向けるのは何故なのでしょう。
自分だけは負けないという能天気な考え方か、他にやることが無いのか?
はたまた、負け続けても勝者となった感覚が忘れられないのか?
こうした分配率を今の日本に当てはめた時、どう考えれば良いのだろうか。
株主への配当、内部留保金(収奪利益)は十分確保し、単年度赤字(来客数低下)
ばかりを強調し、一人勝ち・収支トントン(正規社員)は、ある程度確保したい。
もう少し収奪率を上げるため、敗者の率(非正規雇用社員で調整)を増加させるか。
しかし考えてみると、敗れるべくして敗れた敗者(お客)が運ぶお金(売上)で、
粗利(収奪金)が生まれ、収支トントンの社員や一人勝ち社員が生まれている。
敗れるべくして敗れた敗者(お客)が、足を運ばなくなれば(購買力の低下)
収支トントンの社員が、次は敗者へと導かれ、一人勝ちの社員もさらに
収支トントン社員への格下げが待っているはずである。
分配率を平等にすれば、パチンコ店(資本主義)は成り立たない。
今、必要なのは、パチンコ台を選択できる自由(機会の平等)であり、
パチンコ店に足を運ぶことができる資本力(一定給与)の確保であると思う。
結果責任は、各々が負うべきであるが、スタートラインにも着けない社会が、
まともな社会であるとは思えない。
年の終りに、パチンコから社会を考えてみました。(決して今日負けたわけではありません)
それでは、この書き込みをご覧になった方、良いお年を…。
我が家の取り餅(鏡もち)は、八つ。
お供えをする場所を再確認してみました。
「竃(かまど)の神様=火の神」、「歳得神(としとくじん)=大黒様」…我が家では神棚。
「仏壇=仏様」…仏教で鏡もちかい? 「床の間=神の座」、「籾の保管庫=米倉」
「農機具…鍬や鎌」、「井戸…家では、地下水を利用してます。」
「便所」……そうなんです。便所にお供えをするんです。
我が家の古老たるオヤジに尋ねてみました。「なぜ、便所に供えるんだ?」
応えは、「わがんねぇ。昔からそうしった。」
実に単純明快な応え(答えではない。)である。
しばらくしてから、「ん~。世話に(使っている)なっているから。」
そう、確かに世話になっている。
ご不浄なものではあるが、無くてはならないものでもある。
日本には、八百万(やおよろず)の神々がいて、『神(髪)が無いのは、坊主の頭くらいだ。』
と、言われるくらいだから、便所にも便所の紙(神)が居ても良いではないか。
総ての事物に謙虚な態度をもって接する。
火や水、先祖、収穫物、耕作するための道具、そして用を足す場所までも
一年に一度くらい感謝の気持ちをもって崇め、新たな一年を迎える。
これが日本の心じゃ。などと愛国心を持ち出す気持ちはありませんが、
トゲトゲした暗い世相の中で、森羅万象に畏敬の念を忘れないこと。
ん~。必要だよなぁ。
あ、一年間お世話になった「へらウキ」にも感謝しよう。
本日の我が家は、東京に遊学している娘も帰ってきたので、餅つき。
12月29日に餅をつかないのは、山形の我が在所の習慣と思ってましたが、
Wikipediaにも記載されているくらいですから、全国的なものなのでしょうか?
さほど気にするわけでもないのですが、古老から良くないと言われていることを
敢えてやる必要もないというのが、私のスタンス。
29日は、「苦がつくから…。」 まったくのゲン担ぎではあるのだけれども、
結局、もち米の量も、ニ升五合を2回ついて、五升。
「升(益す)、升(益す)、半升(繁盛)」で、2升五合。
つきあがりは、まず「竃の神様」に、取り餅(鏡餅)は、「歳とく神」 「神棚」 「床の間」
「モミ倉」 「井戸」 「農器具」 「便所??」 なんで「便所」なんでしょう?
今度、オヤジに聞いておきます。
メニューは、雑煮・あんこ・納豆・じんだん(枝豆)、気が向けば、クルミも入れたい。
子どもたちに鏡もちを作らせると、団子を丸めるように手を動かすわけです。
「鏡もちはねぇ、表面をきれいにするように、内側から餅を包み込むようにまとめるべし。」
決して、餅屋に就職させるつもりはないのですが、世の中で役には立たないことも
経験や知識として持っていることは、損にはならないと思いますよ。
吹雪の3日間が過ぎ、束の間の晴れ間が見られた県内、
振り返れば、重ね餅のような雲が、昨日の夕方ぽっかり浮かんでおりました。
カモがねぎをショッテ来た。
年末の休みに入り、恒例の納竿(のうかん)会を終え、帰り道の話。
夜中の2時に山形を出発し、埼玉県羽生市まで3時間。
朝の6時から入釣して、運転手は当然眠気が差すもの。
根性悪に、口の悪い輩の会ではあるけれども、帰宅するまでは安全に。
折からの強風で高速道では、横風にハンドルの取られることしきり。
Kさん:「おいおい、この4人で三途の川を渡るのだけは止めようぜ。」
夢屋:「いや~。この4人なら三途の川でも、ザッコ釣りするかもよ。」
Y君:「俺は、三途の川の手前側で釣ってるから、夢屋は対岸な!」
Y君:「ほんでもって、KさんとS君は、三途の川で船釣りをだべな!」
夢屋:「なんだよ、俺だけ死ねってか?」
夢屋:「そんときゃ、向こう岸で、おいでおいでと手招きしてやるよ。」
どこまでいっても、お馬鹿な4人組でした。
関東は晴天。山形は吹雪。
「帰ったら、おっかぁに何言われっか分かんねぇ!」
「カモは、本当にねぎを背負ってやって来るのか?」
11月15日から、カモ猟解禁。日の出とともに風船を割るような音が響きます。
近くに住む猟友会のおじさん曰く、
「よくよく考えてみると、こりゃ~えらい高いカモだぞ。」
銃の登録料や狩猟税、薬きょう代で、ひとシーズン20羽のカモを獲っても
1羽当たり数千円に成るという。気軽にごちそうしてとは言えません。
カモもサル者。結構、頭が良いようで、禁猟区と猟区を巧みに棲み分け、
なおかつ、エサがもらえる白鳥の周辺に、居候させてもらってます。
キャツラ(やつら)だって命掛ってますから…。
ちなみに、山形で道端に財布が落ちていたと仮定します。
「オレ、昨日道端で財布ショッタ。」 または、
「オイ、あの財布ショッテ来い。」と言われた場合、
「財布を背負った。」「財布を背負って来い。」と妄想してはいけません。
「ショエ、ショッタ」は、「拾え、拾った」の意味もあるのです。
当然、「ショエ、ショッタ」は「背負って、背負った」の意味もあるので
後は状況で判断するしかありません。
「(手の使えない)カモがねぎをショッテ来た。」ですから、
私は「カモがねぎを拾って来た。」と長い間、理解しておりました。
「カモがねぎを背負って来る。」
西高東低の気圧配置と寒気団は、ここ山形に大雪をもたらし、埼玉は晴天。
二日酔いの日は、頭が「ホワイトアウト」状態なので、思考は在らぬ方向へ。
目の前のなで肩のカモは、何本ねぎを背負えるのか?
大体、手が使えないんですから、カモがねぎをくわえてやって来る。じゃないの?
やっぱ、カモ汁は、笹がきゴボウだよな、絶対。
家に来る時は、ゴボウ背負って来てちょうだい。
ちなみに、ニワトリをさばく時は、一度熱湯に通して羽をむしり取るのですが、
水鳥のカモは、脂が水を弾くので、そのまま、少しずつむしり取ります。
少しずつというのがミソで、作業を一気に終わらせようとして、
大量に羽根をつかむと、脂の乗った皮まで一緒にむけてしまいます。
食材の調達(特に肉系)は、結構残酷な情景が繰り広げられる訳で、
肉塊や切り身しか知らない人は、知らないままの方が良いのカモ。
幼児体験で、鶏肉が食えなくなってしまった友人を何人か知っています。
釣れない釣りに業を煮やしていると、「カルガモ」が応援にやってきました。
我が在所のカルガモは、稲穂を食害したり、結構悪さを働きます。
ここ埼玉のカルガモは、人慣れしていて、投げたへら餌を食べに寄って来ました。
被害者は、同行の後輩S君。午前中、食い渋りの中、ひとり快調に釣り込んでいたS君が、
K先輩のイジメの標的にされました。
先輩の投げた餌が、ピンポイントでS君のウキを直撃、同時にカルガモの餌食になりました。
ここからS君は、ウキともども撃沈。
枚数・大型賞でトップを走っていたにも係わらず、沈黙の午後となりました。
一方、私にとっては、幸運を運ぶ「金のカモ」
直後に、大きなねぎを2本(大型へら2枚)を置いて行ってくれたのであります。
S君は、私にカモられるハメになり、先輩に文句を言えないS君は、
「今度来たら、あのカモを釣ってやる!」とばかりに、
「カモ捕りごん兵衛」と化したのであります。
「カモがねぎを背負って来る。」
また、やってしまいました。仕事納めに釣り納め、納めついでに酒の飲み納め。
今日は、納竿会(のうかんかい)ということで、埼玉県羽生市まで遠征。
夜中の2時出発予定が、メンバー2人が深酒し、大幅に遅れ、さらに私は
家のコタツで着所寝。ハタと目が覚めるとメンバーのひとりが私の顔を
覗き込んでいるではありませんか。「アチャ~」ということで、大急ぎで
着替えを済ませ、ひとり酒を控えた先輩の車に乗り込みます。
不思議でしょう?なぜ、メンバーのひとりが私の顔を覗き込んでいるか?
山形県の私の在所では、夜、鍵をかけない家がまだ多いのです。
「のどか」というのか「防犯意識が薄い」というのか…。
二日酔いの釣りは最悪です。ウキに集中できないし、忘れ物はするわ。
しかしですよ、大型賞はちゃっかりいただきました。1,510g
まぁ、へら釣りをしない人には解りませんよね。1,510gが大きいのかどうなのか?
それでは、賞金3,000円。
これはどうじゃ?これもまた、高額か少額か?判断の分かれるところです。
昔、永六輔さんが自身のラジオ番組の中で、「年賀状を12月に書くのは如何なものか?」
という趣旨の発言をされたことがありまして、元来、かなしがり屋(モノグサ)な私は
我が意を得たりとばかりに、パタリと年末の行事をさぼり始めました。
永さんの主旨は、除夜の鐘を聞きながら一年を振り返り、新年を迎えた気持ちを
年賀状にしたためる。というものであったはずなのですが…。
大体、凡人は除夜の鐘が鳴る頃には、もうグデングデンに酔っぱらってしまって、
紅白のどちらが勝ったかさえ知らず、翌日、娘に確認する始末ですから
しかし、今年は少しばかり趣向を変えて、一年の志を賀状にしたためようと
リキを込めて写真を撮っています。題して『鶏口牛後』…が、
牛後を追いかけて、牛舎で牛の尻を追いかけていたら、お肉屋さんの牛肉の部位が
頭に浮かびました。この辺は、「ランプ」に「ソトモモ」辺りかぁ~。
凡人には、「鶏肉の頭より、牛のヒレ肉の方に価値がある。」
新たなる古事解釈が成立した瞬間でした。
ネットの海を渡り歩いている内に、
「メス牛に角はありますか?」という質問にヒットしました。
実は、ウシとベコは、種類が違うのです。
『角の下に耳がある種類をウシ、耳の上に角がある種類をベコ』と明確に区別できる。
叔父に教えられて、白地に黒いブチのあるやつがウシで、黒いやつがベコだろう…。
そんな風に素直に信じ込んでいたのですが、どのウシを見ても角がないし、
どのベコを見ても角の下に耳がある。これはどうも変である。
ウシもベコも同じ種であることを知るのに、かなりの時間を必要としました。
ご覧の様に「ホルスタイン種」には角が無いように見えるのですが…
これが、「メス牛には角が無いの?」という疑問となったのでしょう。
仔牛の時に、焼灼処理された結果だと記憶しています。
半分写りのとなりのベコには、ちょびっと角があるのです。
むしろ、一頭一頭に黄色いタグとは別に「マーガレット・チャーミングⅡ世…」
などという、血統を示す名前があることをご存じですか?
つぶらな瞳がかわいいのですが、400kg以上ある体重で足の甲を踏まれ、
複雑骨折した先輩を私は知っています。