「ケイトウ」の花言葉に「気取り屋」が…
「ケイトウ(鶏頭)」は、中国を経由して奈良時代には渡来したようでありますなぁ。鶏のトサカにも似た花の形状から「鶏頭」という名がついたと言われておりますが、今では多様な園芸品種が出ておりまして、画像は『おやじぃ』が子どもの頃から見慣れた『古いタイプ』のケイトウの花に思えるのでありますが…果たして、鶏のトサカに見えますかねぇ^^;
さて、「何が問題かわからない。」と発言し、物議を醸しだしている福田自民党総務会長でありますが、その前提条件が「ある団体から強い影響を受けて政治を動かしているのであれば…」ということであって、一部の発言箇所だけを切り取って、「何が問題かわからない。」という部分だけを問題視することに『おやじぃ』は疑問を持っているだけである。霊感商法や献金問題など、信者が『被害』と感じれば問題ではあるけれど、『幸福感』を感じているとすれば『問題』と言えるのか?骨董品の『壺』に数千万円の値が付いたとしても、「へぇ~!」と驚きを持って眺めているけれど、『おやじぃ』は買い求めたいとは思わない。(買うだけのお金も無いけれど^^;)喉から手が出るほど欲しい人には、それだけの『価値』があるのだろうから…。一方、安倍元総理を銃撃した容疑者に関しては、教団の『二世被害者』として、減刑の声も多数上がっているのだとか…これまた、疑問を感じている。マスコミから流される容疑者の境遇については、同情の余地もあるけれど、それはまだ、本人の言葉ではなく「裁判」の過程で事実が明らかにされるべきだと思うのでありますけれどね。このように、一部発言の「切り取り」や「取材」で世論が誘導され、「右向け右!」と言われれば、無条件に右を向いてしまうような世の中の方が余程怖い社会だと思っているんですけれどね…。
努力が報われ「生ビール」に変わったら…
はてさて、誠にちっぽけな志でありますなぁ^^; 今、「努力は必ず報われる。」などと教え諭す先生(大人)は居るのだろうか?「報われない努力はある。しかし、成功者はすべからく努力している。」とか「報われない努力は、努力とは言えない。」と語れるのは、やはりその道の成功者の言葉にしか思えない。一般庶民は、日々の生活のためにアクセクと働き、『ちっぽけな幸せ』を感じて生きている…その道のトップに立とうなどと考えてもいませんもの。(これは『おやじぃ』の場合ですけれどもね^^;)『一億総中流社会』と煽てられていた内は良かったのだけれど、今や貧富の差によって、スタートラインから差が設けられてしまっている。この差を子どもたちに『努力』で埋めろと言われても、相当な体力と能力がなければ埋められないと思うのでありますよ。(努力を重ねて這い上がる子どもたちも確かに存在する。)
だからこそ、スタートラインや走るための条件(教育)くらいは、平等であって欲しいと思うし、それを叶えるのも政治の力だと思うのでありますけれどね。「幸運と不運」は確かにあるし、『不遇な境遇に生まれ育ってしまった』ということもあるだろう。『結果の平等』を求めるつもりは毛頭ありませんけれどね、『差を埋めるための努力』ではなく、『努力の結果が今の自分である。』と胸を張れる社会であって欲しいんだわなぁ…『機会の平等』を求めていくことも『おやじぃ』たちの務めであったんだよなぁ…。
#戦争反対 ケイトウ…「傾倒」…国が傾き、倒れるまで戦うことに何の意味があるのかなぁ…。