月に一度の広報誌配布で考えた…
「広報広聴活動」は自治体の需要なお仕事ではあると理解するのだけれど、地区委員として昨日配布依頼を受けた全戸配布の資料(紙量)は7種類、隣組回覧の資料も7種類だった。『おやじぃ』の集落は中規模だけれど、それでも仕訳に小一時間掛かってしまう。さぞや大規模な自治会の区長さんは大変だろうと思うのでありますが…「広報紙」にまとめられる内容のものもあるようで、これから単身や勤め人の区長さんが増える中での活動にそろそろ限界を感じているところです。そもそも、この回覧板読むのだろうか?「SDGs」などと言いながら、この紙量は何事ぞと言いたくもなって来た。お陰さまで、定例の『晩酌会』に遅れてしまいましたけれどね。(少々嫌味を込めて、いつか言ってやろう^^;)
さて、本日のお題『三度目の正直』…「占いや勝負事で、一度や二度は当てにならないが、三度目は確実である。」という格言ではあるのだけれど、『三度目』の「目」は「定(サイコロ)の目」なのだそうである。サイコロを振って、期待する「目」が出る確率は何度振っても6分の1と小学校でも教える確率なのだけれど、出るとも出ないとも分からない『三度目』に何故人は期待するのだろうか?ちなみに『三度』の由来は不詳らしい(笑)
同居猫『シロ♀』も『おやじぃ』も退屈です^^;
はてさて、「三度笠」「仏の顔も三度」「三度三度」と、『三度』にまつわる言葉は数々あれど…。「三度笠」は「三度飛脚」…江戸・大阪間を毎月8の日に飛脚を走らせたことに由来し、「仏の顔」の場合は、「釈迦族」に攻め入った族を三度説得して戦を回避したという故事(説)があるようである。『三度目の正直』は、失敗をした者への慰めや励ましの言葉としても使われるけれど、何度振っても確率6分の1であるから、失敗する者は何度でも失敗する…「三度の飯」より博打が好きな者の賭け事ならば『期待(願望)』以外の何ものでもないんだよなぁ^^;
ならば、勝利の確率を上げるために、『失敗した目』は、その試行ごとに潰していかなければいけない。『恋は盲目』…元々、出ない目に期待するから失敗するのであって、『仏さま』なら『三度目』までは許していただけると勝手に解釈することにする。いや、待て待て、この技は『仏さま』には通用する手であって、『神さま(かみさん)』には通用しないに違いない。かと言って、『神罰』が怖いから何度目まで許していただけるのか迂闊に実験もできないのでありますよ。これが『三度目』の由来が不明な理由…ホントかね(笑)