それはそれは「もってのほか」である^^;
数週間前に、故)三浦春馬さん主演の「僕のいた時間(2014年)」という古いテレビドラマを観ていた。「ALS(筋委縮性側索硬化症)」の若い患者さんを描いたドラマであり、前職の同期も同じ病気で亡くなっているから興味をもって観ていたのだけれど、さすがに『最期』が描かれることはなかった。有病率は人口10万人あたり7~11人ということであるから、『選ばれる』にしても「何故、自分が…」という思いが起こるのも無理のないことだと思える。
自然と『可哀想』という感情が芽生えてくるのだけれど、『可哀想』という言葉も「可愛い」という言葉も、その語源は「顔映ゆし」という言葉にたどり着くらしい。元々は、「相手がまばゆいほどに優れていて、顔向けできない。」という意から発展して、「正視しにくいが放置しておけない」という感情から相手を不憫に思う気持ちとなり、『可哀想』の意となり、一方は、気遣いいたわる感情が「愛らしい」という感情である「可愛い」に落ち着いたようである。
言うは易いのだけれど、本人の気持ちを慮るには難しく、家族の心労も計り知れないところにある。健康であることの有難さを感じるところでありますよ。
一服、一服が長すぎる^^;
さて、『おやじぃ』がそんな感情になったのも、ご近所に若い患者さんがいらっしゃるからである。知ってはいても、家族に病状を尋ねないのが『大人のマナー』と決め込んでいたのだけれど、昨日だけは様子が違っていた。助けを求められて、寝転んだ彼を車椅子に乗せるだけでも大変難儀した。年老いた両親が彼を介護するのもひと苦労である…ドラマでは描かれない部分を体験し、また、考えを改めた次第でありますよ。
はてさて、秋田県のクマ駆除の報道に『可哀想』という感情からの抗議の電話…確かに『可哀想』という思いは便利な表現ではある。それでは何ができるのかという疑問には一切応えることなく、感情だけを押し付ける。そこには、ムラ人たちの暮らしや『安全』といった問題もあるのに、危害の及ばない『外野席』から意見を述べられてもねぇ…結局のところ『おやじぃ』の心に抱く『可哀想』も同じである。相手の心情を察している風を装うだけで、何ら手を下していないのだから…。『老人』は『可哀想』な存在なのかしら?体力も落ち、動きも鈍くなる…若者たちからすれば『可哀想』な存在かも知れないが、生き方次第では、まだまだ輝けるはずである。そうそう「顔映ゆし」大人になることを目指しますかね(笑)