これは「ムラサキケマン」かなぁ…?
昨年「ホトケノザ」と思い込んでいた野の花は、葉の付き方からみて「ムラサキケマン」かなぁ?と考え始めております。さらには、「ムラサキケマン」を『ムラサキキケマン』と読み違えていたから情けない^^;
昨日、今は亡き実姉の嫁ぎ先から訃報が入りまして、そんなことから『仏の座』の画像があったはずと思い確認したのだけれど、朝から自分に対して「ダメ出し」をしております。
「ダメ出し」転じて『ダミだし』…いえいえ、我が在所では「お葬式」のこと指す方言で『ダミ』という言葉がある。仏教に由来する言い方で「荼毘に付す(火葬して弔う)」という言葉があるから、「荼毘」が音変化して『ダミ』となったのか…確証はないのだけれど、「訛り声(なまりごえ)」と書いて「だみごえ」の意ともあるが、こちらの『ダミ』はつながりはないような気がする。大概の方言は検索するとヒットするのだけれど、『ダミ』では「ダメ」で、「葬式 方言」というキーワードで検索してみたら、2008年「日本語研究第4巻」に澤村美幸さんの論文で「ダミ」…東北地方日本海側に分布する方言という記述にようやくたどり着きましたよ。日本海側ならば、もしかすると「曹洞宗」の普及も影響しているのかも知れない。(これはあくまで『おやじぃ』の仮説であります^^;)そんな朝であります。
そんな訳で晩酌会は遠慮して…
実姉の嫁ぎ先とは言え、同じ山形県内でも風習は違うから余計な口出し、手出しはしない。(もし、実姉が生きていたなら、差配をしていたに違いないから、弟としては少々肩身が狭い^^;)弔問客と義兄との会話を黙って聞いていると、お寺への不満やコロナ禍への恨み節がポツリポツリと出て来る。(ジッと我慢して聞いている。)実姉が亡くなる一週間前に、「最期は家族と過ごしたい。」という本人の希望を入れて、最期は家族で看取ることが出来たから、それはそれで良かったとも思っている。
はてさて、「親の死に目に会えない。」のは最大の親不孝?急変の報を受けて、取る物も取り敢えず駆け付けることが『勤め』として心のどこかにあるような気もするのであるけれど、子どもたちを授かり、親として思うこと…親より先に旅立つことの方が余程『親不孝』ではある。(病気、不慮の事故と避けられない「死」は確かに存在する。)「親に『ダミだし』をさせるようなことはするな…。」と子どもたちには「ダメ出し」をしておこう…訃報を笑い話に替えてはいけないなぁ…。
長寿を全うし、家族もある程度納得した看取りだったから言えること。故人の冥福を祈るのでありますよ。