「色はにほへど…浅き夢見しえいもせす。」で終わるものと暗記していた「いろは」でありますが、48番目の句が『京の夢、大阪の夢』であるようで、夢の話を語る時の枕言葉のようなもの…「京の夢」とは官位を得て立身出世する夢であり、「大阪の夢」とは商売繁盛し富を得る夢であるとか…。
さて、私のH.N.『夢屋』は、ジョージ秋山作『はぐれ雲』に登場する問屋場「夢屋」から拝借したものであります。「男というものは、両の手のひらを組んで熱い思いをグッと握りしめても、指の間からその思いがフツフツとたぎり出さなくなったら男稼業もお仕舞いだ…。」などという原作にはない、恩師の教えを心の何処かで噛みしめながら、日々飄々と生きることを良しとして、ここまで生きて参りました。
もう20年も前の話ではありますが、県内高校生(生徒会役員)の討論会にオブザーバーとして参加する機会がありました。彼らが夢を語る場面があったのですが…、
「時間とお金があったら、ログハウスを建ててみたい。」
「カラオケボックスで、目一杯歌いたい。」etc.
大人たちは決して意見を述べていけないという設定でありましたので黙って拝聴しておりましたが、進行役が行き詰まり、最後に間違えてオブザーバーの感想を求めてしまうという失態を演じてしまったため、私は嫌われることを覚悟で思いを述べました。
「若者が夢見ることは頼もしいが、それを実行に移し、夢を叶えようという意欲が感じられない。総じて、君たちの夢はお金と引き換えに叶えようとする、タラレバの夢だね…。」実に嫌味なオヤジに映ったことだろう^^;
お金などと言う物は腐る物でもないのだから、あっても「くたま(邪魔の方言)」に成るものでもない。しかし、貧乏人の考えるお金の遣い方は、例えば宝くじが当った場合を考えてみても、一戸建てのマイホームが欲しいとか、車を買い替えたいとか、その程度の発想で止まってしまうようであり、貧乏人は貧乏人なりのお金の遣い方しか発想出来ないようであります。
そこまで大見栄を切るのであれば、お前の夢を聞かせて欲しいということになりますが、所詮私も貧乏人、発想も貧困であります。
今年一年、古老に代わって農作業を完結し、また、フツフツと若き日の思いが湧きあがってきました。近所の休耕地を活用してビオトープを作りたい。フランス人アンリ・ファーブルのような余生を目指している訳ですが、さほどお金が必要な訳でもなく、必要なのは私自身のやる気と根気だけというちっぽけな夢であります。
しかし、HPやブログという発表の手段が、いとも簡単に手に入れることができるようになった世の中は、とても便利なものですが、結局、お金との交換という高校生に訓垂れたオヤジにしては、情けない現状ではあります。
さて、明日からは、新たな四十八手を考えて、夢の続きを語りますので、どうぞ、御用とお急ぎでない方は、お付き合いのほどを…とほほ。