09.9/19 505回
三十五帖【若菜下(わかな下)の巻】 その(59)
源氏はさらに昔を思い出して、玉鬘がこれという後ろ盾が無いにも関わらず、不安な境遇の中で成長しながら、才気もあり考えも深く、自分が親以上の好き心を表した時にも、いかにも気がつかない風にして、結局は髭黒の大将と堂々と結婚したことは、今にして思えば何と利巧なことよ。などと振り返ってお思いになります。
また、源氏は、二条の尚侍の君(朧月夜)を今も絶えず思い出されますが、
「かくうしろめたき筋の事、憂きものに思し知りて、かの御心弱さも少し軽く思ひなされ給ひけり。遂に御本意のごとし給ひてけり、と聞き給ひては、いとあはれにくちをしく御心動きて、まづとぶらひ聞こえ給ふ。」
――朧月夜とのこのような秘密はやはり嫌なものだと悟られて、あの靡きやすい性質が良くないと軽蔑なさるようになりました。朧月夜がとうとう出家の望みを果たされたと聞かれますと、ご自分に出家を仄めかしもされなかった恨みを、源氏はお手紙にして、
「あまの世をよそに聞かめや須磨の浦にもしほたれしも誰ならなくに」
――あなたの出家を私はひと事には聞けません。須磨の浦にわび住いをしたのは、誰のためでもない、貴女のためでしたからね――
その外にも多くの事をお書きになって、先に出家された身の辛さや、これからのご供養の中に、私の事も念じてくださるように、などと細々とおっしゃったようです。
朧月夜は、出家を源氏がなかなかお許しにならなかったいきさつがあったのですが、このお手紙にはやはりなつかしく、浅からぬ源氏との関係を思い出されるのでした。もうこれが最後のお返事になることと思われますと、さびしくて、心を込めてしたためます。
「あま船のいかがはおもひおくれけむあかしの浦にいさりせし君」
――どうして海女舟(尼の私)に乗り遅れたのしょう。明石の浦に海人としてさすらわれましたでしょうに――
とあって、濃い青鈍色(あおにびいろ)の紙の文で、樒(しきみ)の枝にさしてあります。いつものことながら非常に洒落た書きぶりは、やはり昔と変わらず面白い。このお返事が来ましたのは、源氏が二条院にいらっしゃるときでしたので、もうすっかり仲の絶えてしまわれた過去の人(朧月夜)のことですので、紫の上にも文をお見せになります。
◆樒(しきみ)=古くはシキミも含めて榊(さかき)といったらしい。ツバキ科の常緑小高木。葉は厚く長楕円形で長さ8センチ内外。
ではまた。
三十五帖【若菜下(わかな下)の巻】 その(59)
源氏はさらに昔を思い出して、玉鬘がこれという後ろ盾が無いにも関わらず、不安な境遇の中で成長しながら、才気もあり考えも深く、自分が親以上の好き心を表した時にも、いかにも気がつかない風にして、結局は髭黒の大将と堂々と結婚したことは、今にして思えば何と利巧なことよ。などと振り返ってお思いになります。
また、源氏は、二条の尚侍の君(朧月夜)を今も絶えず思い出されますが、
「かくうしろめたき筋の事、憂きものに思し知りて、かの御心弱さも少し軽く思ひなされ給ひけり。遂に御本意のごとし給ひてけり、と聞き給ひては、いとあはれにくちをしく御心動きて、まづとぶらひ聞こえ給ふ。」
――朧月夜とのこのような秘密はやはり嫌なものだと悟られて、あの靡きやすい性質が良くないと軽蔑なさるようになりました。朧月夜がとうとう出家の望みを果たされたと聞かれますと、ご自分に出家を仄めかしもされなかった恨みを、源氏はお手紙にして、
「あまの世をよそに聞かめや須磨の浦にもしほたれしも誰ならなくに」
――あなたの出家を私はひと事には聞けません。須磨の浦にわび住いをしたのは、誰のためでもない、貴女のためでしたからね――
その外にも多くの事をお書きになって、先に出家された身の辛さや、これからのご供養の中に、私の事も念じてくださるように、などと細々とおっしゃったようです。
朧月夜は、出家を源氏がなかなかお許しにならなかったいきさつがあったのですが、このお手紙にはやはりなつかしく、浅からぬ源氏との関係を思い出されるのでした。もうこれが最後のお返事になることと思われますと、さびしくて、心を込めてしたためます。
「あま船のいかがはおもひおくれけむあかしの浦にいさりせし君」
――どうして海女舟(尼の私)に乗り遅れたのしょう。明石の浦に海人としてさすらわれましたでしょうに――
とあって、濃い青鈍色(あおにびいろ)の紙の文で、樒(しきみ)の枝にさしてあります。いつものことながら非常に洒落た書きぶりは、やはり昔と変わらず面白い。このお返事が来ましたのは、源氏が二条院にいらっしゃるときでしたので、もうすっかり仲の絶えてしまわれた過去の人(朧月夜)のことですので、紫の上にも文をお見せになります。
◆樒(しきみ)=古くはシキミも含めて榊(さかき)といったらしい。ツバキ科の常緑小高木。葉は厚く長楕円形で長さ8センチ内外。
ではまた。