09.9/24 510回
三十五帖【若菜下(わかな下)の巻】 その(64)
源氏はつづけて、
「いにしへより本意深き道にも、たどり薄かるべき女方にだに、皆思ひおくれつつ、いとぬるき事多かるを、(……)院の御世の残り久しくもおはせじ。いとあつしくいとどなりまさり給ひて、もの心ぼそげにのみ思したるに、今さらに思はずなる御名漏り聞こえて、御心乱り給ふな。この世はいと安し。事にもあるず。後の世の御道のさまたげならむも、罪いと恐ろしからむ」
――昔から強く望んでいました出家も、それほどの信心もない女方に先を越されて、はなはだ見っともないことですが、(……)朱雀院のご寿命もそう長いことはないでしょう。ますます衰弱なさって心細そうにしていらっしゃいますのに、今更、貴女の思いがけない浮名をお耳に入れて、お心をお苦しめなさるな。こんなことは(源氏が不実をかぶること)心安いことです。大した問題でもありません。朱雀院の後世の御往生の障りとなっては、その罪は格別に恐ろしいでしょう――
と、源氏は、はっきりと柏木との事とはおっしゃいませんが、しみじみとお話をなさいますので、宮はただただ涙にくれて、正体もなくうち沈んでおられます。源氏もまたお泣きになって、
「人の上にても、もどかしく聞き思ひし、ふる人のさかしらよ、身に変はることにこそ。
いかにうたての翁やと、むつかしくうるさき御心添ふらむ」
――昔は他人の事でも、老人のお説教はうるさいことだと聞いたことでしたよ。それを今は、自分が代わって言うようになったのか。全く厭なお爺さんだと貴女はうるさくお思いでしょう――
と、自嘲なさって、ご自分から硯を引きよせ、墨を摺って、料紙を揃えて朱雀院へのお返事を宮にお書かせになりますが、宮は手が震えてお書きになれません。
あの細々と書いてありました柏木のお手紙へのお返事は、きっとこんなにお困りにならず書かれたであろうと想像なさると、源氏は、
「いと憎ければ、よろづのあはれも醒めぬべけれど、言葉など教へて書かせ奉り給ふ。参り給はむことは、この月かくて過ぎぬ」
――ひどく癪にさわって憎らしく、宮に対する一切の愛情も醒めてしまいそうにお思いになりながらも、とにかく言葉などをお教えになってお書かせになります。朱雀院への御賀はこの月もこうして果たせずに過ぎたのでした――
◆写真:柏木からの手紙 風俗博物館
ではまた。
三十五帖【若菜下(わかな下)の巻】 その(64)
源氏はつづけて、
「いにしへより本意深き道にも、たどり薄かるべき女方にだに、皆思ひおくれつつ、いとぬるき事多かるを、(……)院の御世の残り久しくもおはせじ。いとあつしくいとどなりまさり給ひて、もの心ぼそげにのみ思したるに、今さらに思はずなる御名漏り聞こえて、御心乱り給ふな。この世はいと安し。事にもあるず。後の世の御道のさまたげならむも、罪いと恐ろしからむ」
――昔から強く望んでいました出家も、それほどの信心もない女方に先を越されて、はなはだ見っともないことですが、(……)朱雀院のご寿命もそう長いことはないでしょう。ますます衰弱なさって心細そうにしていらっしゃいますのに、今更、貴女の思いがけない浮名をお耳に入れて、お心をお苦しめなさるな。こんなことは(源氏が不実をかぶること)心安いことです。大した問題でもありません。朱雀院の後世の御往生の障りとなっては、その罪は格別に恐ろしいでしょう――
と、源氏は、はっきりと柏木との事とはおっしゃいませんが、しみじみとお話をなさいますので、宮はただただ涙にくれて、正体もなくうち沈んでおられます。源氏もまたお泣きになって、
「人の上にても、もどかしく聞き思ひし、ふる人のさかしらよ、身に変はることにこそ。
いかにうたての翁やと、むつかしくうるさき御心添ふらむ」
――昔は他人の事でも、老人のお説教はうるさいことだと聞いたことでしたよ。それを今は、自分が代わって言うようになったのか。全く厭なお爺さんだと貴女はうるさくお思いでしょう――
と、自嘲なさって、ご自分から硯を引きよせ、墨を摺って、料紙を揃えて朱雀院へのお返事を宮にお書かせになりますが、宮は手が震えてお書きになれません。
あの細々と書いてありました柏木のお手紙へのお返事は、きっとこんなにお困りにならず書かれたであろうと想像なさると、源氏は、
「いと憎ければ、よろづのあはれも醒めぬべけれど、言葉など教へて書かせ奉り給ふ。参り給はむことは、この月かくて過ぎぬ」
――ひどく癪にさわって憎らしく、宮に対する一切の愛情も醒めてしまいそうにお思いになりながらも、とにかく言葉などをお教えになってお書かせになります。朱雀院への御賀はこの月もこうして果たせずに過ぎたのでした――
◆写真:柏木からの手紙 風俗博物館
ではまた。