永子の窓

趣味の世界

源氏物語を読んできて(京の郊外・大覚寺②)

2008年09月12日 | Weblog
大覚寺②

 客殿と宸殿は重文。宸殿は後水尾上皇が寄進した宮中の建物で、狩野山楽筆の豪華な障壁画が見もの。境内東の大沢池は嵯峨離宮の名残で、嵯峨天皇が中国の洞庭湖に思いを馳せて造ったとされ、かつては船を浮かべ、詩歌管弦の宴が繰り広げられたと伝わる。春は桜、秋は月の名所。11月は嵯峨菊が美しい。

 この源氏物語では、大覚寺の南に、源氏が御堂を造ったとされるについては、源融(みなもとのとおる)の山荘・棲霞寺がモデルではないかとも言われている。

◆写真:大覚寺庭園

源氏物語を読んできて(157)

2008年09月11日 | Weblog
9/11  157回

【松風(まつかぜ)の巻】  その(2)

 明石入道から、邸ができあがったところで、
「しかじがの所をなむ思ひいでたると聞えさせける」
――こういう場所を思いつきまして、と申し上げます――

 源氏は、明石の御方が人中に立ち交じるのを渋っていたのは、こういう考えがあってのことだったのかと、会得され、なかなかしっかりした考えだなと頷かれるのでした。
惟光の朝臣は、例により秘密の用事にはいつでも変わりなくお世話申す人なので、今度も差し向けられて、その邸のさまざまな用意をおさせになります。

 源氏のご造営になっておられるお寺は、大覚寺の南にあって、明石の御方の邸は大堰川の辺の、海辺に似た風情のある、やや近しい場所のようです。

明石の御方は、京からのお迎えがあって、いよいよ逃れがたく、上京と思うと、
別れが辛く、入道も夜も昼も嘆き呆けて、これからは姫君にもお目にかかれなくなるのかと、繰り言を言っております。秋の頃、いよいよ出立の日となりました。

「思ふかたの風にて、限りける日違えず入り給ひぬ。人に見咎められじの心もあれば、道の程も軽らかにしなしたり」
――船は順風で、予定どおりに着きました。人に気づかれまいとの心遣いもあるので、陸路の旅もことさら目立たぬように簡素にしました――
 
 大堰(おうい)に着きました明石の御方は、このように近くに参りましたのに、源氏がお出でになりませんので、物思いは増すばかりで、あのお形見の琴を取り出して掻き鳴らしては、辛い気持ちでいるのでした。

 源氏は親しい家司にお言いつけになって、ご到着のお祝いをおさせになります。ご自身でお出でになることは、口実をお考えになって居られる内に何日もたってしまいました。

 それにつけても、このことが外から紫の上のお耳に入ってはと、御自分ではっきりとお話しせねばと思うのでした。

◆写真:源氏物語「松風」尾形月耕画
 明石の浦を懐かしみ、大堰川のほとりのお屋敷で、源氏のかたみの琴を掻き鳴らしている明石の御方と御母の尼君。

ではまた。
 

源氏物語を読んできて(京の郊外・大覚寺①)

2008年09月11日 | Weblog
◆写真:大覚寺①

 王朝風の伽藍が優美な大覚寺は、真言宗の寺。もとは嵯峨天皇の離宮があり、貞観18年(876)、嵯峨天皇の皇女、淳和天皇皇后が寺に改めて大覚寺とした。
 鎌倉時代には後嵯峨、亀山、後宇多の三上皇が入寺し、嵯峨御所と呼ばれ、皇室ゆかりの格式高い門跡寺院となった。

 源氏物語が書かれた時代には実在した寺。京の西北に当たる。

源氏物語を読んできて(156)

2008年09月10日 | Weblog
9/10  156回

【松風(まつかぜ)の巻】  その(1)

源氏(内の大臣、殿、)       31歳の秋
紫の上              23歳
明石御方             22歳
明石入道と尼君(明石御方の父母)             
明石の姫君(源氏と明石御方の子)  3歳
夕霧(源氏と葵の上の子)     10歳

 かねてから造っておられた二條院の東の院が出来上がりまして、まず、花散里が移り住まわれました。西の対から渡殿にかけてをお住いとし、政所、家司などもしかるべく定めてお置きになります。東の対には、明石の御方をとお考えになっておいでです。

 源氏は、明石の御方には絶えずお便りをなさって、もうこの上は、早く上京するようにおすすめになりますが、

「女はなほわが身の程を思ひ知るに、こよなくやむごとなき際の人々だに、なかなかされかけ離れぬ御有様のつれなきを見つつ、物思ひ増さりぬべく聞くを、(……)人わらへに、はしたなき事いかにあらむ、と思ひみだれても」
――明石の御方は、やはりわが身の程をわきまえて、ごく高い身分の女がたでさえ、格別大切になさるでもなく、さりとて捨ててお仕舞いにもならない、源氏の君のつれないお仕打ちを見ては、かえって物思いも増すはず、と聞きますものを、(まして何ほどの自分が、ご寵愛を頼みに、そうした中に入っていかれましょう、たまには姫君を見にお出でになりますのをお待ちするだけでは)さぞかし物笑いの種にもされ、どんなに恥ずかしくもありましょうと、思い迷われますが――

「また、さりとてかかる所にて生い出でかずまへられ給はざらむも、いとあはれなれば、ひたすらにも、えうらみ背かず」
――また、そうかといって、このような田舎に生い立たれて、姫君が源氏の御子らしく扱われないのでは、まことにお可愛そうですので、一途にお恨み申して仰せに背くこともできません――

 昔、母君の御祖父の中務の宮(なかつかさのみや)がお持ちになっていました所領で今は荒れたままのお住いを、明石の入道が修理をさせて立派な寝殿にしました。大堰川の近くで、全くの田舎でもなく、京のうちでもない、閑静な山里です。

 源氏は、
「若君のさてつくづくとものし給ふを、後の世に人の言ひ伝へむ、今一際わろき疵にや、と思すに」
――姫君がああして淋しく暮らされるのを、人の口の端に上ったならば、母君が尊い身分ではない上に、田舎育ちという人聞きも悪く、姫君にとって大きな疵ともなろうとご心配でしたが、――

◆写真:秋から冬にかけての嵯峨大堰川、物語では、この辺りに明石の御方と3歳の明石の姫君が住んだとされる。

ではまた。

源氏物語を読んできて(京都の川の名・大堰川)

2008年09月10日 | Weblog
京都の川の名・大堰川

 源流付近は大堰(おおい)川、保津峡あたりで保津川、そして桂川となり淀川に合流します。これらは、すべて河川法上、桂川に統一されています。この河川名は、平安時代の紀貫之(きのつらゆき)以来の名称といわれ、川西一体の桂の地名に由来しています。

◆写真:現在の大堰川・渡月橋を遠くみる。
    そのあたりは嵯峨、嵐山


源氏物語を読んできて(155)

2008年09月09日 | Weblog
9/9  155回

【絵合(えあわせ)の巻】  その(11)

 源氏は、須磨の浦の絵日記を、そのまま藤壺へ差し上げ、他の御絵もいづれ順々に差し上げましょうとおっしゃいます。権中納言は、源氏があからさまに梅壺女御に肩入れなさるのをご覧になって、弘徴殿女御が気圧されるのではないかと、心を痛めておられます。帝は、その後も弘徴殿女御に親しまれておいでなので、まさかいくら何でもご寵愛が遠のくことはないであろうと、お思いになります。

「この御時より、と末のひとの言ひ伝ふべき例を添へむと思し、私様のかかるはかなき御遊びもめづらしき筋にせさせ給ひて、いみじみ盛りの御世なり」
――この御代に始ったと、後の人が言い伝えるような、新例を加えようと源氏は思われて、ちょっとした内々の遊びでも、目新しい趣向をお考えになりますので、またとない、栄え栄えとした時代となったのでございます。――

「大臣ぞ、なほ常なきものに世を思して、今すこしおとなびおはしますと見奉りて、なほ世を背きなむ、と深く思ほすべかめる」
――しかし源氏は、世の中を無常なものとお感じになって、冷泉帝がもう少し成長なさるのを見定めて後、やがて出家をしたいとお考えのようです――

 古来の例を引くまでもなく、若年にして高位高官にのぼり、世に抜きんでる人物は長く命を保てないものである。今の御代では、自分の地位も世評も分に過ぎている。中途で一度世に無いも同然の身に落ちぶれ果てた苦しさの代わりに、今まで命も永らえていられるのだろう。

「今より後の栄はなほ命うしろめたし、しづかに籠もり居て、後の世の事をつとめ、かつは齢をも述べむ、と思ほして、山里ののどかなるを占めて、御堂作らせ給ふ」
――今後このままの栄華では、やはり命の末が恐ろしい。静かに引きこもって、後世のために勤行を励み、一つには寿命をも保ちたいと思われて、山里の静かな土地を入手されて、御堂をお造らせになります。――
幼少のお子様方を、理想どおりにお育てになりたいともお思いになりますので、その点からも出家は難しそうですのに、いったいどのようなお心づもりで、お寺などお建てになりますのか、お心の内は推し量れません。

◆ 源氏物語屏風絵

【絵合(えあわせ)の巻】おわり。ではまた。

源氏物語を読んできて(154)

2008年09月08日 | Weblog
9/8  154回

【絵合(えあわせ)の巻】  その(11)

 帥の宮は、

 何の道にも、習っただけのものはあるものでしょう。筆をとる道と、碁をうつことだけは、深い修行もなくて天分による者も出てきますが、やはり名門の子弟の中には、抜群のご器量があるようです。故院も、あなたのことを、詩文の才は申すまでもない、琴の琴(きんのこと)を第一に、横笛、琵琶、箏の琴(そうのこと)を習い得た、とおっしゃっておられました。その上絵までもこれほどとは…、昔の墨書きの名人も逃げ出しそうなご技量とは、けしからぬことです、と冗談めいて言われます。

 故院のお話が出ましたので、みなしんみりとして、萎れておしまいになります。

 二十日過ぎの月がさし出でて、空一面が美しく映えそめた頃なので、源氏は

「書司の御琴召し出でて、和琴、権中納言賜り給ふ。親王、箏の御琴、大臣、琴、琵琶は少将の命婦仕うまつる。上人のなかに、すぐれたるを召して、拍子給はす。いみじう面白し」
――書司(ふんのつかさ)の御琴をお取り寄せになって、権中納言には和琴(わごん)を仰せつけになります。この方も人に優れて見事にお弾きになります。帥の宮は箏の御琴(そうのおんこと)、源氏は琴(きん)を、琵琶は少将の命婦がおつとめなさいます。殿上人の中で、すぐれた者を召して、拍子をとることを命じます。なんとも言えず趣深いお遊びでございます。


「明けはつるままに、花の色も人の容貌どももほのかに見えて、鳥のさへづる程、心地ゆきめでたき朝ぼらけなり」
――夜の明けはなれてゆくにつれて、花の色も人のお顔のなども、ほのかに見えて、鳥の囀る声もはれやかに満ちたりた朝ぼらけのご様子でした。

◆書司(ふんのつかさ)=後宮十二司の一つ。後宮の書籍、文具、楽器などのことを掌る。


源氏物語を読んできて(153)

2008年09月07日 | Weblog
9/7  153回

【絵合(えあわせ)の巻】  その(10)

 藤壺もいらっしゃるので、源氏はお心も優雅になられて、所々の判詞が不十分の折りには意見をお添えになるご様子など、まことに当を得ておいでで、勝負がつかないままに夜になってしまいました。

 もう一番という、最後の時に須磨の巻が出て参りましたので、権中納言はお心が騒ぎます。

「(……)かかるいみじき物の上手の、心の限り思ひすまして静かに書き給へるは、たとふべきかたなし。親王よりはじめ奉りて、涙とどめ給はず。」
――(右の弘徴殿女御の方でも、最後の巻にはすぐれた御絵をご用意されていましたが)源氏のような類なき絵の名手が、心ゆくまで思い澄まして、静かにお描きになったものは、たとえようもない出来映えでいらっしゃいます。帥の宮をはじめ、どなたも皆、涙を留めることがお出来にならないのでした――

 退居の折りに、人々がご同情申し上げていました時より、いっそう須磨での侘び住いのご様子やお心が、目の前にあるようでした。その地の風景、名も知らぬ浦々、磯までもはっきりと洩れなく書き表されて、草書に平仮名をところどころ書き混ぜられて、うたなども添えられております。誰もかれも見とれて他のことは忘れてしまい、全てはこの須磨の巻に圧倒されて、左方の勝ちと定まったのでした。

 夜明け近くなる頃、なんとなくものあわれに、様々なことが偲ばれて、源氏は盃を傾けながら、昔の話を帥の宮になさいます。

「(……)才学といふもの、世にいと重くするものなればにやあらむ、いたう進みぬる人の、命幸いと並びぬるは、いと難きものになむ。(……)絵書くことのみなむ、あやしく、はかなきものから、いかにしてかは心行くばかり書きてみるべきと、思ふ折り折り侍りしを、(……)」
――(幼い頃から、学問に心を入れて参りましたが、いくらかものになりそうにご覧なさったのでしょうか、亡き父帝がおっしゃるのには、)『学識というものは、世の中で大層重んじられるためか、その道にぬきんでた人で、寿命も幸福も兼ね備えた人は滅多にいないものだ。(学問によらないでも、人に劣らずいられる者は、その道に深入りするな)』と、学問よりむしろ、芸道をお習わせくださいましたが、たしかに拙い程でもなく、しかし取り立てて誇れるほどのものもありませんでした。)
 ただ、絵を描くことばかりは、不思議にも心から好きで、満足のいくまで描いて見たいと思っておりましたところ、(思いがけなく田舎に流離う身となりまして、四方の海の広く深い趣を見ましたので、今まで思い至らなかった隈まで会得することができました。こんな折りにお目に掛けることになりましたが、なんとなく物好きのようで、後々の評判もどうかと思いますが…。)――
 
◆絵合:荒井勝利画 新潮古典文学アルバム

ではまた。



源氏物語を読んできて(152)

2008年09月06日 | Weblog
9/6  152回

【絵合(えあわせ)の巻】  その(9)

 絵合はその日と定めて、にわかの催しのようではありますが、かりそめながらも趣向を凝らして用意なさって、左右から御絵の数々を御前にお運びになります。

「女房の侍ひに、御座よそはせて、北南かたがたわかれて侍ふ。……、左は紫檀の箱に蘇芳の花足、敷物には紫の唐の錦、打敷きは葡萄染めの唐の綺なり。童六人、赤色に櫻襲の汗衫、袙は紅に藤襲の織物なり。姿、用意などなべてならず見ゆ。」
――女房の詰め所の台盤所(だいばんどころ)に帝の御座を設けさせて、北と南の両側にそれぞれ別れて座に着きます。(殿上人は清涼殿の西隣の簀子に、おのおの好きな方にひいきしながら控えております。)
 左は、紫檀(したん)の箱に蘇芳(すおう)の木の飾り台、花足(けそく)の下の敷物は紫地の唐織(からおり)、台の上を覆う打敷(うちしき)は葡萄染(えびぞめ)の唐の綺(き)です。女童(めわらわ)が六人、赤色の上着に櫻襲の汗衫(かざみ)、袙(あこめ)は紅に藤襲(ふじがさね)の織物です。様子も心用意もひとかではないようにみえます。――

 右は、沈(じん)の箱に浅香(せんこう)の下机、打敷は青地の高麗の錦、足にからませた組紐、花足の趣など、たいそう目新しい。女童は、青色の上着に柳襲の汗衫、山吹襲の袙を着ています。

 お召しがあって、源氏と権中納言も参内なさいました。また源氏の御弟君で、絵にも嗜みのある師の宮(そちのみや)が判者をお勤めになることになりました。

 まことに名筆の限りを尽くして描き出された絵が多く、帥の宮も判断にお苦しみになります。例の朱雀院から贈られた年中行事絵も、古の名人たちが、趣深い場面を選び出して描きながしている様は、譬えようもなくお見事です。しかし、紙には限界があって、屏風絵のように山水の豊かな風趣をそのまま現せないものですから、ただ筆先の巧みさや描く人の趣向に飾られていて、今時の深みのない絵でも、古絵に劣らず華やかで、ああ面白いと思われる点は、古書より勝っているほどで、多くの論争も、今日は左右それぞれに興味のあるものが多いのでした。

◆写真:絵合わせの開始に、御引直衣姿の冷泉帝が椅子に着座されるところ。
    風俗博物館

ではまた。