
舞台となるのはいつものベルギーの小都市セラン。
映画は無残な遺体で見つかった〝名もなき少女〟の死の真相を探る若き女医ジェニー(アデル・エネル)の日常を中心に描かれる。
亡くなる前夜、診療所のモニターには必死にドアベルを押す少女の姿が記録されていた。
ドアベルの音を無視しなければ彼女の命を救えたのではないかという贖罪の意識にとらわれたジェニーは、必死に少女の身元を探索する中で、予想もしなかった事態に直面する。
ダルデンヌ兄弟は、<犯人捜し>というミステリ的な語り口を採りながらも、もはや彼らのトレードマークと言ってよい手持ちキャメラを多用した迫真的なドキュメンタリー・タッチでジェニーの揺れ動く感情を掬い取ろうとする。
患者である少年ブライアンの不審な行動がきっかけとなり、不法滞在していたアフリカ系の少女は娼婦だったこと、背後に暗躍する闇組織の存在など、正視し難いさまざまな真実が明らかになっていく。
烈しい屈折と愛憎に満ちた家族というのは、ダルデンヌ兄弟の描く普遍的なテーマであるが、この映画でも研修医ジュリアンやブライアンがそれぞれ抱える肉親との葛藤やおぞましい暗部が露わになる。
さらに、彼らのデビュー当時から通奏低音としてあった、移民という安易な解決を拒む困難な主題がここで一挙に浮上してくるのだ。
疲弊したセランという街の佇まいには、EU離脱を表明したイギリスや狂信的な移民排斥をアピールするトランプ政権といった緊迫した現在の欧米の政治状況の縮図を見るようである。
しかし、「午後8時の訪問者」は、決して声高なメッセージを主張するだけの政治的な映画ではない。
見終わると、アデル・エネルが演じた、反グローバリズムの時代を果敢に生きる、ナイーブでイノセントな魅力に溢れたヒロインの柔和な表情がひときわ印象に残るのである。

20年というインターバル。
1996年に生まれた「トレイン・スポッティング」は、アンダーワールド、ブラーといった英国ミュージックを盛り込み、「人生を選べ」と言いながら無節操にドラッグに明け暮れる若者たちを描いていた。
映画はその世界を斬新なスタイルと弾けんばかりの熱量で映像化した。
で、その20年後....。
まったく同じキャストが再結集したキャラクターたちはオッサンになり、かつてのような能天気なエネルギーも、あっけらかんとした楽観性も持ち合わせていない。
むしろ人生に失望し、こんなはずではなかったという悔いを抱えている。
そこをどう描くか、というのが本作の最大のポイント。
結果から言うと、ボイルは賭けに勝った。
これはたんに彼らのその後を写した続編ではなく、まったく異なる角度からみつめ、異なるテーマを描いた。
むしろインパクトで勝負していた前作よりもドラマとしてはより成熟した。
前作で金を持ち逃げしたレントンが、久しぶりに故郷に戻る。
裏切った仲間たちに、それでも会わずにはいられないのは、他に行くところがないから。
だが、更正するどころか相変わらずキレまくっている仲間たち。
そんな彼らの男として、父として、人間としての痛すぎるあがきがしかし、感傷的になることなく、どこかに希望を残しながら描かれる。
音楽ファンが思わず膝を打ちたくなるような、新旧まざったサウンドトラックの使い方も巧い。
とくに絶妙なのは、前作でテーマソングのように印象的だった曲を、現在のキャラクターの心情に合わせ重々しいリミックスに変えていること。
さらに前作ファンなら“あの曲”がいつ響くのかとつい期待するところだが、レントンが20年ぶりに実家の自分の部屋に戻りかつてのレコード・コレクションを手にとったとき、思わずそれを掛けるものの一瞬でやめる。
若い頃の思い出が蘇ることに対して怖くなる。
こんなディテールも、さすが。
果たして、人生でまだ一度も負けを味わったことのないようなティーンたちが本作を観たらどんな感想を抱くのだろうか。
だが少なくとも、この懲りない男たちのパワーに圧倒されるだろうし、主人公たちと同世代ならなおさら、彼らの咆哮がぐさぐさと心に突き刺さるだろう。
敗北も実体験することが勉強だ。

さらに運悪く、降り立った町の人々が話す言葉が少年の方言とは異なっていたために、彼は孤児となって都会を流離うことになる。
インドから始まる実話映画は、主人公が再び家路を辿るのは何とそれから25年後のこと。
そのタイムラグにこそ物語の鍵がある。
その後、オーストラリアのタスマニアで暮らす養父母の元に引き取られ、今はメルボルンの大学で経営学を専攻する主人公は、近頃、記憶の中に浮かんでは消える故郷の村の残像に苦しんでいる。
いったい自分は何者なのか!?
不明瞭な過去に引き戻され、未来に向けて共に時間を紡ごうとする養父母や恋人たちのせめぎ合いは、まるで人生そのもの。
今という時間は、過去と未来、その2つの空間に挟まれているからこそ、均衡を保てている。
未来はおろか現在与えられたあり余る幸福をも拒絶して自室に閉じ籠もってしまうのは、過去の喪失によって行場を失っているから。
身勝手にも思える、時間の挟み撃ちに遭って七転八倒する。
一方、養母は、自分の思いとは裏腹に手元から離れていこうとする息子に対して、決して、医学的理由や単なる同情から養子縁組に踏み切ったのではないことを、渾身の言葉で伝えようとする。
ある日、雷に打たれたように啓示を受けたからだと。
そんな生まれながらに神のような女性を、ニコール・キッドマンが。
恐らくキッドマン自身も、かつて自らも実践したハリウッドセレブによる養子縁組の深層に潜む、真のボランティア精神とは何かを、この役を通して伝えたかったのではないだろうか。
ラストに訪れる25年目のホームカミングが圧倒的な感動と共に語られがちな本作からは、劇中の人物と同じく、自己の証明に真摯に取り組んだ俳優たちの切実な思いが伝わって来るようだ。