知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

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『日本の城郭 11 忍城(水攻めに強かった平城、別名「浮き城」・「亀城」)』―忍城水攻めは、堤防・石田堤を築いて水攻めしたが、忍城を落とせなかった―

2019-10-25 22:46:15 | 城・城郭・城塞

『日本の城郭 11 忍城(水攻めに強かった平城、別名「浮き城」「亀城」)

―忍城水攻めは、堤防・石田堤を築いて水攻めしたが、忍城を落とせなかった―

 

忍城は、埼玉県行田市にある湿地帯を利用した平城です。 元々沼地だったところに島が点在する地形で沼を埋めずに島に橋を渡す形で城を築かれていたようです

「忍」は中世のころ忍氏が住み、忍荘と呼ばれていました。 「忍」の意味はアイヌ語の「ウシ」で入江や湾のことで、その方言では組木や石積の堤防を表すとのことです。

利根川と荒川の扇状地で、川の流路が頻繁に変わった湿地帯に築城された忍城、別名『浮き城』又は『亀城』は当然水攻めには強かったはずです。 忍城は、1590年頃(自然流下最後の状態)の地図の利根川本流と荒川本流の合流点の少し上流・扇状地に位置します。 先日の台風19号の被害、河川の堤防越水・堤防損壊・堤防決壊災害を見ていると、江戸時代の治水・利水事業は凄かったし、ただ現在の『その延長での対応』では『気象激化』耐えられるか心配は尽きません。 またまた、表題から脱線です。

ウエブ情報から引用

 

ウエブ情報から引用

 

先ずは忍城の鳥観図です。 かなりデフォルメされて水城に見えますが、利根川・荒川の扇状地の平城・忍城です。

ウエブ情報から引用

 

この扇状地は忍城あたりは海抜およそ18ⅿでほぼ平らで、水攻めしようとしたら堤防は長くなるハズです。 秀吉の『小田原城とその支城群』攻めの一つ、忍城水攻めは、攻め軍の大将・石田三成のアイデアか、秀吉の命令かは、不明ですが、そのため24㎞(一説には14㎞ともいわれる)堤防・石田堤を築いて水攻めしたが、忍城を落とせなかった。 

ウエブ情報から引用

 

三成は忍城から、およそ15㎞離れた崎玉(さきたま)古墳群の丸墓山古墳 海抜36ⅿに布陣したので、ここから忍城は遠見できたでしょうが、梅雨の時期とは言え、水攻めのままならぬ進捗には焦ったことでしょう。 昔、この崎玉古墳を散策し、丸墓山古墳に登ったことはありますが、三成の水攻め作戦は、知る由もありませんでした。

 

一般に城塞は、独立の山や丘、または尾根の途中や先端に、構築されますが、この忍城は、荒川流路の変遷とその痕跡の後に築城された不思議な城です。

 

忍城の天守閣、御三階櫓とは、

ウエブ情報から引用

 

江戸時代の武家諸法度や一国一城令などの発布により、天守の建てられなかった、または建てなかった城にあった3重の櫓のことです。

幕府への配慮から天守の名称を避け、そう呼んだ「実質上の天守」です。 御三階櫓は忍城で一番高い櫓なのですが、天守閣が焼け落ちた江戸城に遠慮をして、(遠慮させられた?)関東の他の多くの城のように、この櫓を天守閣とは呼ばなかったのです。 関東で天守閣があったのは、小田原、沼田、笠間の3城だけでした。 忍城址の復元では、千葉の大多喜城址を始めとする他の模擬天守ように、安易に天守閣などと呼ばないことにも好感が持てます。 ただし三階櫓にしては一回り大きくて、下から見上げると石垣の高さもあって見違えるほど立派です。

更に、噂スズメはこう言います。 天守は建てられず、その場所は家康の鷹狩りに使われたそうです。

豊臣方の忍城攻めの総大将は石田三成で、近くを流れる利根川を利用して水攻めを行い、そのため総延長24㎞にも及ぶ石田堤を建設しました。 その一部は今にも残っています。 それまでしても落城せず、結局は本隊の秀吉が小田原城を先に落城させた事による開城となりました。

このことから、忍城は水攻めでも落城せず、忍の浮き城と呼ばれるようになりました。

また、別名を亀城といわれているのには、忍城が、この巨大な沼地の中に浮かぶ姿が亀のようということから名付けられたようです。 忍城は、関東七名城の一つであり、日本三大水攻めの城としても有名です。

                (20191025纏め #129) 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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