『世界の古代の四大文明は、形こそ違うが、殆ど同時期に最盛期に』
―想像を超える凄さは、この大ピラミッドとずっと後発のオリャンタイタンポ―
表題は、こうしてみましたが、大ピラミッドだけは、四と。 昔のことですが、夢中になって読みました。 グラハム・ハンコックの1995年に出版された『神々の指紋』(日本では1996年刊行)は、有史以前の超古代文明についての考察がなされており、全世界で600万部を超える世界的なベストセラーになった。 その後も、旺盛に著作活動を続け、『創世の守護神』『神々の世界』『異次元の刻印』などを著した。
先史・古代史の世界に興味を持たせてくれた、グラハム・ハンコックのフィクションの時代から、ノンフィクションに戻ります。 四大文明は大河川の扇状地、または河口に発達していますが、『木』の中国文明と、『石』の他の三文明は少し異なっているように思います。 あとは大河川の『河床勾配』による『急激な洪水』または、『ゆっくりした水位の変化』か、が文明発展に影響があったのではないでしょうか。
四大文明=四大河文明ともいわれますので、まずは、治水の困難さ(洪水に備えた)を知るために、大河川の『河床勾配』計算してみました。 数値のとり方が難しいのか最近はウエブ情報にはありません。
文明 河川 長さ 水源海抜 河床勾配
エジプト ナイル 6853㎞ 1134ⅿ 0.02%
メソポタミア チグリス 2850㎞ 1150ⅿ 0.04%
ユーフラテス 2800㎞ 3520m 0.13%
インダス インダス 3200㎞ 4500ⅿ 0.14%
中国 黄河 5464㎞ 4800ⅿ 0.09%
(参考情報 長江 6300㎞ 5042ⅿ 0.08%)
(参考情報 アマゾン 6516㎞ 6697ⅿ 0.09%)
(1)エジプト文明の象徴 ギザの大ピラミッド(BC2550頃 )
ウェブ情報(ギザのピラミッドは完成時の想像図の写真)から引用 (日本の縄文時代に、このデザインのセンスには驚きます。)
ウィキペデイアから引用(日本の縄文時代にこれを設計・建造)
クフ王のピラミッド断面図
1.入口 2.盗掘孔 3.上昇通路入口 4.下降通路 5.未完の地下室 6.上昇通路 7.女王の間 8.水平通路 9.大回廊 10.王の間 11.控えの間 12.脱出孔
今までに138基が発見されている。 そのほとんどは、エジプト古王国からエジプト中王国時代のファラオかその家族のための神殿と墓である。 ピラミッドは古代エジプト語では「上昇」を意味する「メル」という単語で呼ばれていた。
前4千年紀末には上下エジプトを統一するエジプト古王国(エジプト第1王朝)が成立した。 その後、国家機能の整備とともに、ピラミッドの建設が大々的に行われ、真正ピラミッドは、その後技術革新と大型化が続けられ、その建造の最盛期に建設された第4王朝のクフ、カフラー、メンカウラーの3王のピラミッドは現在も、なおその威容を留めており、古代エジプトを象徴する建造物となっている。 その後に続く。エジプト中王国で、大ピラミッドの建造のピークは終わった。
●BC2650頃、第3王朝2代目ジェセル王がサッカラに階段ピラミッド
●BC2600頃、スネフェル王がダハシュールに2基のピラミッドを建設。
南側に屈折ピラミッド、北側に赤のピラミッド
●BC2550頃、クフ王がギザにピラミッドを建設(最大のピラミッド)。
カフラー王、メンカウラー王もピラミッド建設(ギザの3大ピラミッド)
その後は、地下王墓と神殿が中心になる、エジプト中王国、エジプト新王国へと続いた。
(2)ソポタミア文明の中心 ウル ジッグラト(BC2100頃)
ウィキペデイアから引用
ウルのジッグラト復元図。 三層構造で基壇上に月神ナンナルの至聖所があった。 基幹構造は日乾煉瓦、外壁は瀝青で仕上げられていた。
瀝青とは、石油 産地で 原油 の変質物のアスファルトやピッチが発見され,それを総称して瀝青と呼んだ。 天然アスファルトがさらに変質して硬い 黒色 の 固体 になって加熱しても溶融せず, 無酸素 の状態であれば 熱分解 を起して炭化水素を主とする油状物と ガス が生成する。
ジッグラトまたはジグラートとは古代メソポタミアにおいて、日乾煉瓦を用い数階層に組み上げて建てられた巨大な聖塔である。「高い所」を意味する言葉である。 神の訪れる人工の山としてメソポタミアの諸都市に建造されたと考えられている。しかし、機能的には不明な点も多い。
ウルのジッグラト(エ・テメン・ニグル)は紀元前2100年頃、ウル第三王朝のウル・ナンムが建造したとされている。規模は第一層が底面62.5m×43m、高さ11m、第二層が底面38.2m×26.4m、高さ5.7mで、最上部に月神ナンナを祀る神殿を載せていた。メソポタミアでは建築に用いられる質の良い木材が少なかったこともあり、現在でもよく使用される日乾煉瓦や焼成煉瓦が用いられた。 規則的に凹凸ができていることによって単調ではなくなり、陰影のある外観となっている。また、底面の各辺や壁体の稜線は中央で膨らみがつけられているところからすでに『視覚的補正効果』をねらった表現がなされていたと考えられる。 イラクにある。
ウルのジッグラトは、ギザの大ピラミッドと比較、❶スケールと、❷表面仕上げ(大理石の化粧石)と、❸シンプルな四角錐のデザインと、❹内部構造の見事さで大分異なります。
(3)インダス文明、モヘンジョダロは水道の整備された都市(BC2600頃)
ウィキペデイアから引用
紀元前2500年から紀元前1800年にかけ繁栄し、最大で4万人近くが居住していたと推測される。 しかしその後は短期間で衰退した。 原因としてさまざまな説があげられたが、近年の研究ではインダス文明は大規模な洪水(河床勾配が原因)で衰退したと考えられている。
四代文明は大河川の下流で発展したが、エジプト文明は、ナイル川の緩い河床勾配で、人間が雨期乾期のゆっくり変化する水位差約10ⅿ(水位が高いときに石材運搬)に、うまく順応できたが、インダス文明は、チグリス・ユーフラテス川の大きな河床勾配に原因する。 大洪水で、エジプト文明のように長期、恒常的に発展ができなかった可能性がある。
ウィキペデイアから引用
不可思議な例としては、見上げるほどの高さを持つ井戸がある。 背高のっぽな井戸とその周囲の住宅跡や道路との間には数世紀の年代差があり、この井戸が造られた当時、これらの家や道路は砂や土の下に埋もれていたのだ。 これが、エジプトとは違う『河床勾配』の差によるものかもしれません。
(4)中国文明・夏の実在と、神話の三帝、堯・舜・禹は(BC2300頃)
『夏』(か、紀元前1900年頃 - 紀元前1600年頃)は、『史記』『竹書紀年』などの史書に記された中国最古の王朝。 中華の『華』は、古代には『夏』と同じ意で用いられた。 夏・殷・周を三代という。 史書には、初代の禹から末代の桀まで14世17代471年間続き、殷の湯王に滅ぼされたと記録されているが、考古学の裏付けがないことから、多くの研究者は『幻』と考えてきたが、近年の発掘で、ついに実在が確認された。 『夏』が誕生した紀元前2000年頃は、黄河流域だけでなく南の長江流域などでも多様な文化が同時多発していた時代。
ウィキペデイアから引用
ウィキペデイアから引用
ウィキペデイアから引用
ウェブ情報です。
世界最大の青銅製仮面。 異形を呈する巨大な青銅製の仮面であり、三星堆文化の代表的な考古遺物の一つ。 中国語名は「青铜纵目面具(青銅縦目面具)」、日本語名は「青銅縦目仮面」「縦目青銅仮面」「青銅縦目面具」など。 幅138㎝、高さ64.5㎝。 大きな耳と、奇妙に突き出した眼(瞳孔)を具えており、はるか彼方をも見通す神の顔を表したものと考えられている。 突出した瞳孔は長さ16.5センチメートル、径9センチメートル。 額の中央に穴が開いているが、それが失われたものと考えられている。 口は微笑みをたたえている。1986年に二号祭祀杭より出土した。
番外編で、縄文時代の芸術を、世界の先史・古代の4大文明と並べてみました。 当時の日本は、巨大な神社・神殿なき縄文時代でも芸術があった。 研磨石器はもとより、火焔型土器も世界最古です。
歴史のことですが、センセーショナルなキャッチフレーズが躍る昨今ですが、縄文時代は、いろいろ興味があります。
やはり特に、魅力を感じるのは、次の3点(写真は、地球史の中に貼り付け)。
❶『世界最古の縄文磨製石器』、
❸『土偶・縄文のビーナス』国宝(縄文時代晩期、約4,000~5,000年前)
❷『土偶・縄文のマドンナ』国宝(縄文時代晩期、約2,8 00~3,3 00年前)
以上から、世界の歴史の中で、日本の縄文時代と縄文人の凄さも、よく解りました
(20200517纏め #167)