知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

興味のあることは、何でも調べて文章にする。   写真は「光と影」と言われるが、この理解には、まだまだ、ほど遠い.

『世界の城郭 6(べログラトチク要塞 どんな攻防にも耐える!)』―地球上の生物で、戦い続けるのは人類、今は使えない究極兵器の持合いで― 

2020-05-25 17:30:24 | 城・城郭・城塞

『世界の城郭 6(べログラトチク要塞 どんな攻防にも耐える!)』

「地球上の生物で、戦い続けるのは人類、今は使えない究極兵器の持合いで」

 

 城郭は、いつ見てもロマンを掻き立てます。 この要塞は、自分たちの家族・同胞を守るために『ロケハンと予想縄張り』を繰り返し、最終的に、ここ『ベログラトチク地域の奇岩群は防御面で天然の要塞』になっており、城壁は要塞の南東部と北西部にのみ建てられている。

 ベログラトチクは「小さな白い町」を意味し、バルカン山脈のふもとの丘陵地帯にあり、セルビア国境のすぐ東、ドナウ川から50キロメートル程度のところに位置している。 町は不思議な形をした奇岩・ベログラトチク岩で知られる。岩は範囲90平方キロメートルにわたって広がり、最も高いところで200メートル程の高さを持っている。町は奇岩と中世のベログラトチク要塞で知られ、観光旅行先となっている。

 古代から中世には、いろいろな砦や城が造られました。 ヨーロッパのドイツ語圏内だけでも、19,000以上もあったとも言われ、ヨーロッパ全域では数万と想像ができます。 日本でも山城が殆どですが、4-5万と言われてます。 これほどの群雄割拠の争いが、多い人間の社会には、やはり驚くばかりです。

 今回の『べログラトチク要塞』ですが、ドローンの空中撮影の映像を見ますと、とにかく天然の山城・要塞にぴったりの岩塔を城壁にできる天然の要塞で、単に守りやすいだけではなく、夢を感じさせるような縄張りであり、造作です。 城の区分をあらためて、ウエブ情報の『城/砦/城塞/宮殿とは - 西洋ファンタジー用語ナナメ読み』のからの引用です。 これからの世界の城郭の調査の参考にすべくリストしました。

駐屯地/ギャリソン(Garrison)
「駐屯地」は、陸軍のような活動拠点が定まらない部隊がほうぼうで用いる基地施設。 軍事基地というよりは事務所や寮といった感じで、生活に必要な施設が揃えられているものが多いようです。 なお、街の一角がそのまま駐屯地として使用されることもあります。

城塞/城砦/シタデル(Citade)
「城塞」は街を防御するための砦。城壁で囲まれた都市の入口など要所に更に砦を設置したもの。 シタデルの語源は「市民」を意味するラテン語の「Civis」より。

要塞/砦/フォート/フォートレス(Fort) 
「砦」「要塞」は要所防衛のために作られた、防備強化された軍事基地。
兵士らが詰めるため寝泊りすることはできますが、城のように生活することを考えられているわけではありません。

城郭都市/城壁都市/城市(Fortified Town) 
「城郭」は「城と城壁」の意味で、城(および街)とそれを囲む防壁を併せて指す言葉。 壁で囲まれた都市のことを「城郭都市」や「城壁都市」などと呼びます。

城/城郭/キャッスル(Castle)
領主や将軍らの居住施設を兼ねた、戦時の防衛拠点となる建造物。
武器庫や食料庫などの設備を持ち、敵襲時に備えます。

宮殿(Palace)
王族やその一族らの居住施設で、基本的に軍事機能は持ち合わせていません。
居住性は元より、権威の象徴を重要視して華美に作られます。

 ここでは、このユニークな要塞『べログラトチク要塞』の遠景と縄張り(ウキぺデイアより引用)を紹介の上、実戦記を調べてみました。

 

縄張りと平面図

 

表面のゲート(First Outer Cityから全容の望む)
 

 

 

Inner City(からSecond Outer CItyを見下ろす)

 
この守りに強そうな堅固な要塞ですが・・・、

 この地に最初の要塞が建造されたのはこの地域がローマ帝国の一部だった時代、当初は監視用のもので、厳密には防衛用の城砦ではなかった。 14世紀になるとブルガリアのツァールであったイヴァン・スラツィミルがこの古い城砦を拡張し、守備隊を置いて要塞化した。 これが現在の要塞の直接の前身となった。 イヴァン・スラツィミルの治世中、ベログラトチク要塞は首府ヴィディンのババ・ヴィダ要塞に次ぐ、最重要の要塞のひとつとして扱われるようになった。 

 その後1396年にオスマン帝国軍の攻撃を受けて占領された。 オスマン帝国はこの地域でのハイドゥクのような反乱勢力の鎮圧を進めるために要塞をさらに拡張した。 19世紀になると更なる変化がもたらされた。 それはこの時代のオスマンの典型的な建築術を用いて全面的な改築が実行され、要塞はさらに拡張された。 特徴的なヨーロッパ風の意匠はこの拡張に参加したフランス人とイタリア人の技術者によって付け加えられたものである。 

 1850年にはベログラトチクの反乱が発生し、要塞はその鎮圧に重要な役割を果たした。 1885年にセルビア=ブルガリア戦争に使われたのを最後に実戦に用いられることはなくなった。 

見た目の印象よりは、静かな要塞の歴史であったようです。
                  (記事投稿日:2020/05/24、#169)                   

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