知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

興味のあることは、何でも調べて文章にする。   写真は「光と影」と言われるが、この理解には、まだまだ、ほど遠い.

『古代の巨石文明 東西(ユーラシアvsアメリカ)の時間差』

2020-06-16 10:38:36 | 歴史・世界
『古代の巨石文明 東西(ユーラシアvsアメリカ)の時間差』

先ずは、『大きく4000年の差、大ピラミッド(BC2500頃)と、オリャンタイタンボ遺跡(AD1500頃)』の比較です。 どちらも鉄器はなく、青銅器時代です。  『大河の畔の定住農耕』と『人類のルーツ、アフリカからの距離』でしょうか。


エジプト ギザの大ピラミッド(BC2500頃)
今から4500年前に青銅器はあったが鉄器のない時代に、完成時の高さ147ⅿの人類史上最高の建造物がアフリカ大陸の北端のエジプトに建造され、その後4000年も、この建造物の高さ記録を維持した。 この建造物のシンプルなデザインと美的センスには、さらに驚きます。 階段状に出来上がった四角錐に、磨き上げた白色石灰石の化粧石が貼り付けられ、『4500年前には白色に輝いていた』、神秘的でさえあります。 この化粧石の貼り付けは『上から』か『下から』の論争がいまだにあるそうですが、『上から』は無理です。 巨石建造はできるだけ重力には逆らわないが鉄則です。 
 
ウエブ情報(ギザのピラミッドは完成時の想像図の写真)から引用


オリャンタイタンボ遺跡(AD1500頃)
一方、それから、およそ4000年も経ってから、同じく青銅器はあったが、鉄器のない時代に、完成した巨大石造建築物があります。これはその石の切り出しからの運搬(引き下ろしと、引き上げ)が現在の知識では、想像を絶します。 

一番近くの花崗岩の石切り場は、直線距離で10キロ、実際の運搬距離では少なくとも15キロ離れた川(ウルバンバ川支流のパタカンチャ川の流れ込む谷間)の向こうにある。
6枚屛風岩のある地点は150mほどの高さ。 花崗岩の石切り場のある地点は330mほどの高さ。 つまり、6枚屏風岩の建造者は60-80トンもの重量のある巨石を330mの高さの山上で切り出し、一度山の麓まで降ろし15キロもの距離を運ぶ途中で、川を渡らせ、再び、150mもの丘の上に上げたことになる。 それほど昔ではないので、切り出し場所は残っている。 この凄さだけでもこれから生涯、調べていきたいと思っています。 条件が揃わず、実地踏査は不可能ですので、グーグルマップの精度・拡大向上を期待しています。
 
ウエブ情報(オリャンタイタンボ遺跡の画像)から引用
巨石文明と人類の関わりあいは、これ『不可思議なり』の一語に尽きます。


❶エジプト ギザの大ピラミッド(BC2500)
この巨大な石造コンプレックスが4500年前のものです。


❷エジプト アブ・シンベル大神殿(左)小神殿(右)

移設前想像図)(BC1250)
 
ウキペデイア情報(アブ・シンベル神殿)より引用 

 この『水辺』の巨大石像群の風景を想像しただけでも、古代人の穏やかな生活が目に浮かびます。 それに比べ、発電所を作り、便利さと豊かさだけ追っかける、現代の人間の、うすっぺらな生きざまが分かります。 

アブ・シンベル大神殿(左)小神殿(右)(移設後)(BC1250)
 
ウキペデイア情報より引用

オリジナルは、砂岩でできた岩山を掘り進める形で作られた岩窟神殿。 大神殿と小神殿からなる。 建造主は新王国時代第19王朝の王、ラムセス2世。 大神殿は太陽神ラーを、小神殿はハトホル女神を祭神としている(小神殿は最愛の王妃ネフェルタリのために建造されたものでもある)。
 
建設後、長い年月の内に砂に埋もれていたが、1813年にスイスの東洋学者ヨハン・ルートヴィヒ・ブルクハルトによって小壁の一部が発見され、 1817年にブルクハルトの知人であったイタリア人探検家ジョヴァンニ・バッティスタ・ベルツォーニによって出入り口が発掘された。 

1960年代、ナイル川にアスワン・ハイ・ダムの建設計画により、水没の危機にあったが、ユネスコによって、国際的な救済活動が行われた。 1964年から1968年の間に、正確に分割されて、約60m上方、ナイル川から210m離れた丘へ、コンクリート製のドームを基盤とする形で移築された。 現在ではアスワン・ハイ・ダムの建設によってできた人造湖のナセル湖のほとりにたたずんでいる。 この大規模な移設工事がきっかけとなり、遺跡や自然を保護する世界遺産が創設された。 アブ・シンベル神殿は世界遺産の象徴的な遺跡で、文化遺産として登録されている。 


❸アステカ オルメカの巨石人頭像(BC1200 ~紀元前後)メキシコ
オルメカとは、ナワトル語で「ゴムの人」を意味し、スペイン植民地時代にメキシコ湾岸の住民を指した言葉である。 巨石や宝石を加工する技術を持ち、ジャガー信仰などの宗教性も有していた。その美術様式や宗教体系は、マヤ文明などの古典期メソアメリカ文明と共通するものがある。 オルメカ文明に続いたインカ文明には文字がなかったが、絵文字や数字を用い、ゼロの概念を持つなど、数学や暦が発達していた。
 
ウエブ情報(オルメカ文明の画像)から引用


ウエブ情報(オルメカ文明の画像)から引用

 この人頭像を見て日本人に似ているという人がいるが、それは、『日本人に・・・』のというよりは人類のルーツがアフリカ系であるので当然でしょう。

 

❹マヤ アグアダ・フェニックス(BC750~100)メキシコ

ウエブ情報(マヤ史上最大の遺跡を発見、浮かび上がる謎)から引用

 この種類の写真は、少し違いますが、余談です。 国内なら『国土地理院地図の陰影起伏図やアナグリフ』で見られます。 例えば、江戸城の武蔵野丘陵東端や、大阪城の上町台地の北端の起伏状態がよく見えて、昔の武将もこれを見たように縄張りしています。 『グーグルマップ』で、どんな場所が、どこまで見ることができるかこれから確認します。 

 本題に戻ります。 実は、東西の時間差が、いつも気になっていました。 理由は、ユーラシアに遺跡は、アフリカら近いこと、アフリカから遠い南北アメリカは北から文明が発達、南に伝播している。 あとは、アフリカからの島嶼伝いルート、特に赤道沿いのルートに興味津々です。 ここでどのルートでの伝播は別に『アグアダ・フェニックスの巨大基壇』は今後の課題です。 

ウエブ情報です。
 アグアダ・フェニックスの巨大基壇(暗褐色)の3D画像。 この構造は、3000年ほど前に作られたもので、航空機からLiDARと呼ばれるレーザー技術で検出した。 中米メキシコで、マヤ文明が栄えた地域としては最古かつ最大の構造物が発見された。南北1400メートル、東西400メートルにわたって広がる土の基壇(上に建物を建てるための基礎部分)で、今から3000年前に造られたものという。6月3日付の学術誌「Nature」に論文が発表された。 
 
マヤ文明の最盛期は「古典期(西暦250年〜900年)」とされるが、近年の研究では、その1000年以上前により大きな構造物が造られていたとする見方が広がりつつある。今回の発見は、この考えを支持するものだ。 
 
発見場所は、メキシコの首都メキシコシティーから東に約850キロ、タバスコ州にあるアグアダ・フェニックス遺跡。この遺跡は、マヤ文明発祥の地とされるマヤ低地にある。 
 
発端は2017年のLiDAR調査。レーザー技術を使い、航空機から密林の樹冠の下に広がる構造をとらえる調査方法だ。 すると、何百年もの間、なかば森に埋もれ見過ごされてきた放牧地から、驚くべきものが浮かび上がった。巨大な基壇と、そこへ通ずる少なくとも9本の道路だ。 

 

❺アステカ テオティワカン(BC200~AD600)メキシコ


 ウキペデイアより引用 
 いくら、亜熱帯・熱帯雨林地帯とは言え、これだけの建造物を造るための『人と富』がいかに準備できたかと、又、現代人が設計したような「対象と非対称の組み合わせ」です。 

ウキペデイア情報です。
テオティワカン人の宇宙観、宗教観を表す極めて計画的に設計された都市で太陽のピラミッド、月のピラミッドそして南北5キロにわたる道(「死者の大通り」)が基点となり各施設が配置されている。この都市で祀られた神々は、農業・文化と関係深いケツァルコアトルや水神トラロック、チャルチウィトリクエ、植物の再生と関係あるシペ・トテックなどである。 
社会についてはあまり知られていないが、規模から考えると神権的な権威が存在し、高度に階層が分化し、発達した統治組織があったものと推測されている。市内には職人の地区が設けられ、盛んな商業と交易の中心地であり、農民たちの巡礼となって集まる信仰の中心地でもあった。 
テオティワカンとは、ナワトル語で「神々の都市」という意味で、これは12世紀頃にこの地にやってきて、すでに廃墟となっていた都市を発見した、メシカ人(アステカ人)が命名した。アステカ人はテオティワカンを後々まで崇拝の対象とした。


 
❻アステカ トルテカ帝国のピラミッド(AD700~1000)メキシコ

ウキペデイアからの引用
 

 
トルテカ帝国(トルテカていこく)は、メソアメリカ(メキシコ)に、テオティワカン崩壊後、チチメカ侵入前までに存在したと考えられてきた伝承上の帝国。 トルテカ帝国が存立したとされる時期は、年代で言えば7世紀頃〜12世紀頃に当たるが、12世紀とされるチチメカ侵入を11世紀に置く研究者もいる。テスカトリポカとトピルツィンとケツァルコアトルの伝説などで知られるこの帝国は、メキシコ中央高原を支配したとされた。


❼チチェン・イッツァ カスティーヨ(AD870~880)メキシコ
 
ウキペデイアから引用

エジプトの大ピラミッドには、ピラミッド数字がありますが、これは難しくこれからの勉強になります。 絵文字だけだったチチェン・イッツァのカスティーヨは、将に『暦のピラミッド』です。 

ウエブ情報です。
マヤの最高神ククルカン(羽毛のあるヘビの姿の神。 ケツァルコアトルのマヤ語名)を祀るピラミッド。 基底55.3メートル四方、高さ24メートル(頂上の神殿部分は6メートル)。 通称の「カスティーヨ」はスペイン語で城塞の意。「ククルカンのピラミッド」、「ククルカンの神殿」とも呼ばれる。 

大きな9段の階層からなり、4面に各91段の急な階段が配されていて、最上段には真四角な神殿がある。 ピラミッドの階段は、4面の91段を合計すると364段で、最上段の神殿の1段を足すと、ちょうど365段である。 また1面の階層9段は階段で分断されているので合計18段となり、これらはマヤ暦の1年(18か月5日)を表す。 このことから「暦のピラミッド」とも呼ばれる。

北面の階段の最下段にククルカンの頭部の彫刻があり、春分の日・秋分の日に太陽が沈む時、ピラミッドは真西から照らされ階段の西側にククルカンの胴体(蛇が身をくねらせた姿)が現れ、ククルカンの降臨と呼ばれている。 
カスティーヨ内部には初期のトルテカ=マヤ方式のピラミッドが内蔵されており、この神殿にはジャガーをかたどった玉座や生贄の心臓を太陽へ捧げたチャクモール像が置かれている。 

 

❽マヤ エル・カラコル(AD906)メキシコ

現代の天文台の原型のようです。
 
ウエブ情報です。
エル・カラコルというあだ名のつけられた「天文台」は906年に建設された。約9メートルの岩の上に建てられ、高さは約13メートル。中心部に螺旋階段が作られており、ドーム部には縦に細長い窓の作られた厚い壁で構築されている。なお、この窓は天体観測における重要な照準線になっており、西側は春分と秋分の日没、月が最北端に沈むときの方向2つを確認することができる。その他、基壇となっている岩の北東隅は夏至の日の出、南西隅は冬至の日の出の方角をそれぞれ差している。


❾インカ サクサイワマン遺跡(AD1438 ~1536)ペルー
 

 


 写真はウキペデイアからの引用 見事な三段構えですが、今だからこそ言える、スペインの攻城が『ドンキホーテ』や『蟷螂之斧』のようであったらと思います。

ウエブ情報です。
ペルーの南東部に位置するインカ帝国の古都クスコ市の北に立地する。 同市はインカにおける聖なる動物ピューマをかたどって建設されたとする説があるが、この説に従えばサクサイワマンはピューマの頭に相当する。 巨石を惜しみなく用いたインカ文明特有の堅固な石組みが階段状に3段ずつ、幅数百メートルの平地を挟んだ南北の丘に築かれている。インカの天上・地上・地下の3つを意識した独特の世界観が反映された結果、3段という段数が選択された。格段は石で作られた階段で結ばれている。 

遺跡を構成する石組みは巧みにデザインされており、リャマやヘビ、カモ、魚等の動物をかたどった箇所がある。これらはそれぞれ数メートルから十数メートルの規模を持つ。かつては東西に並ぶ3つの巨大な塔が建っていたがスペイン人によってことごとく破壊され、現在はその基礎のみが残っている。 

インカ帝国の第9代皇帝パチャクティの命によって1438年以降に建設が開始され、約50年後の第11代皇帝ワイナ・カパックの在位中に完成したとされる。フランシスコ・ピサロをはじめとするスペイン人による征服で首都が陥落した後の1536年に行なわれたクスコ奪還戦では、マンコ・インカ・ユパンキ率いるインカ軍の拠点となった。


❿インカ オリャンタイタンボ遺跡(?~AD1536)ペルー

 この6枚屏風岩、繰り返しですが、数十トンの巨石の切り出し・運搬は永遠の謎でしょうか!
 

ウエブ情報(オリャンタイタンボ遺跡)より引用

 
写真はウキペデイアからの引用


写真はウキペデイアからの引用

数百年前とは言え、6枚屏風岩の建造者は60-80トンもの重量のある巨石を330mの高さの山上で切り出し、一度山の麓まで降ろし15キロもの距離を運ぶ途中で、川を渡らせ、再び、150mもの丘の上に上げたこと、現在でもできないし、やらないことだと思います。 

ウエブ情報です。
オリャンタイタンボ(西:Ollantaytambo)とは、インカ帝国の砦の遺跡である。 1536年、マンコ・インカ・ユパンキがスペインに対し反乱を起こした際、立てこもったが、スペイン軍の攻撃の前にオリャンタイタンボは放棄された。 

オリャンタイタンボ遺跡はピルカノータ・ウルバンバ川沿いの町ビサクの北方50kmのウルバンバ川支流パタカンチャ川が流れ込む谷間のオリャンタイタンボの町に存在する。川岸の平地と急な斜面に築かれた建築物はインカの都市建設の主な特徴を備えており、標高2846mにあるこの砦は正面に6枚岩の壁を備え、その威容を誇っている。

① 銃器・鉄製の武器
インカの武器はワラカと言われる片手の投石機、吹き矢、弓矢、金属では銅製の戦斧、投槍だった。

② 騎馬
南北アメリカ大陸に馬はいなかった。荷役としてはリャマやアルパカが使用されたが、人が動物の上に乗るという発想は無かった。

③ 軍事技術 
インカでの戦闘は攻城戦がメインでそこで投石機が使われた。東西に伸びたユーラシア大陸では築城技術、攻城戦技術ももちろん進歩したが、広い場所での大戦の兵法も進化し、その技術は東洋から西洋まで伝えられた。ピサロの父ゴンザロ・ピサロはスペインによるイスラム帝国からの領土解放運動レコンキスタの戦闘にも参加したという。ユーラシア大陸の西端のスペインもユーラシア大陸の戦闘技術と肉薄していた。

④ 文字 
インカは、マヤ、アステカとも異なり、文字を持たなかった。その代わりキープという縄の結び目でソロバンのような計算も可能な記述方法を持っていた。言語情報もある程度持つことが出来た。

(記事投稿日:2018/12/31、最終更新日:2023/09/22、#181)

 

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