『竹久夢二の「I came, I saw」(再起をかけて渡米を決行)』
―夢二のアメリカ文化から受けたカルチャー・ショックは、やはりあったー
『I came, I saw, I conquered. (「来た、見た、勝った」: Veni, vidi, vici, 古典ラテン語:ウェーニー・ウィーディー・ウィーキー)』この名言は共和政ローマ期の政治家・軍人のカエサル(シーザー)の数ある名言の一つでした。 これ英語とは異なり『V・v・v』なんです。 偶然ではなくカエサル(シーザー)のセンスには驚くばかりです。
竹久夢二氏は、1年3カ月のアメリカ滞在中、西海岸各地で個展を開くが、米不況もあり、あまり受け入れられず不調。 現地の日本語新聞『日米』紙上の『I came, I saw.』に、未発表のスケッチ風作品13点を発表。 それに短いエッセイを付け加えた。 夢二氏にとって何が『I came, I saw.』であったでしょうか。
1931年47歳、父・菊蔵、没(享年79)、この年5月7日、渡米告別展を新宿三越他で開催の後、5月7日に横浜を出航し、ホノルルを経由して渡米とありました。 当時の現地の邦人向け紙『日米』の『I came, I saw.』欄は、当初は夢二氏創設の欄と思っていましたが、どうもすでにあった欄のようです。 当時の、大概の日本人は、米国の風景に、同様の初印象を持ったのでしょうか、『I came, I saw.』欄は、時期を得たものだと思います。
白人女性の肌の白さを、裸婦像で表現した日本人画家で、自分が知っているのは、竹久夢二と藤田嗣治の二人です。 自分は別の遭遇で『I came, I saw.』、がありましたが、二人とも、白人女性の肌の白さに『I came, I saw.』を感じたのではないでしょうか。
油彩画『西海岸の裸婦』ウキペデイアより引用。
先ずは、ウエブ情報です。
波乱万丈の生涯をおくる竹久夢二ですが、神戸一中(県立神戸高校)中退後、早実在学中は、スケッチを新聞社に投書していた。 数多くの美人画を残しており、その抒情的な作品は「夢二式美人画」と呼ばれた。 大正ロマンを代表する画家で、「大正の浮世絵師」などと呼ばれたこともある。 また、児童雑誌や詩文の挿絵も描いた。 文筆の分野でも、詩、歌謡、童話など創作しており、中でも、詩『宵待草』には曲が付けられて大衆歌として受け、全国的な愛唱曲となった。また、多くの書籍の装幀、広告宣伝物、日用雑貨のほか、浴衣などのデザインも手がけており、日本の近代グラフィック・デザインの草分けのひとりともいえる。
夢二の研究者・鶴谷寿氏(アメリカ文学の研究者であり、竹久夢二の研究者)が『夢二アメリカの旅I came, I saw.』の引用ですが 、芸術家夢二のアメリカ文化に対する批判と、日本文化についての反省などの視点から、夢二のアメリカ文化から受けたカルチャー・ショックを論じた。
岡山市の夢二郷土美術館に展示されている『西海岸の裸婦』は夢二の幻の油彩画と言われているが、この裸婦像は、エックス線分析の結果、初期のデザインは下腹部に布のようなものが、描かれていたと、2017年9月16日に、同美術館が発表した。 あの清楚な、和服美人を描いていた夢二には『完全な裸体を描くことは、日本人として抵抗があったのではないか』と館長は話していた。
と、日経新聞に載っていました。 凡人の勘繰りですが、これも『I came, I saw.』でしょうか。 ここで余談です。
この夢二氏が渡米後の、四半世紀も後のことですが、島国・日本国から、渡米、シカゴに出張した時、地上からカーブで立ち上がる数十階のビル(将に、現在の横浜のランドマークタワーの恰好)を下からスーッと見上げていったら、後ろに転倒しそうになった記憶があります。 早速、飛び込んでみると、1階から5階まで吹き抜けで、中央が階段状の滝でなんとその両側が階段でした。 田舎者の自分にとって衝撃の『I came, I saw.』でした。
この時は、以前に仕事で担当していた厳しい取引先、シカゴが本社の通信販売会社シアーズ・ローバック社のシアーズタワー、当時世界一を見に行ったときです。 前述のビルの方を先に見た所為か、はたまた、シアーズ社のカタログで見慣れた所為か『I came, I saw.』ではありませんでした。 自分が過去に驚かされた『I came, I saw.』は、エジプトのギザの大ピラミッド・万里の長城・明の13陵・ケルンの黒の教会等々でした。 心残りは、毛沢東が破壊させた今は存在しない『函谷関』が見られなかったことです。
(20180507纏め、 20200618改 #182)