『世界の城郭 21(マイアミ沖にある忘れられた未完成星形要塞)』
「ドライ・トートゥガス国立公園に、世界的に珍しい洋上のジェファーソン砦!」
「この多角形要塞・星形要塞(稜堡式城郭)の不思議な築城の背景と歴史が」
世界の『城・城郭・城塞・宮殿』を調べていたら、『島一つをそっくりを洋上の星型要塞化!』を見つけました。 マイアミには沢山の思い入れがあります。 私用(姪家族がマイアミ在住)・商用(マイアミは30数年前にはパナマから南米への中継空港で)何回も旅行・トランジットをしました。
商売最優先の時代に中南米パナマに駐在させて頂きましたので、素晴らしい『邂逅』も『一期一会』もありました。 その一つに、千歳一隅の『魔のバミューダトライアングル』の一辺に沿って『バミューウダトライアングル』の角付近のカリブ海洋上のセント・キッツ島行き(SKD・セミノックダウンビジネス)がアドベンチャー飛行になったこともありました。 『恐怖の単発小型機フライト(カリブ海洋上、バミューダトライアングルの縁を飛行、セント・キッツ島行き)』で投稿済みです。
ドライ・トートゥガス国立公園の位置
ウキペデイア情報から引用
フロリダ半島の最南端にある無人島『ドライ・トートゥガス国立公園 は、フロリダ・キーズのジェファーソン砦地区地区』とドライ・トートゥガス地区を保護している米国の国立公園。 公園の面積は262㎢、大半は水域で、メキシコ湾、キー・ウエストの西方約109 km (68 マイル) にある。 豊かな海洋生物、色とりどりのサンゴ礁、難破船と海の底に眠る財宝の伝説で有名(魔のバミューダ海域、トライアングルの西側の頂点から近い)。 公園の最大の呼び物は、ジェファーソン砦で、巨大なしかし未完成の海岸の要塞で、西半球最大の石像建築物で、レンガ製ですが、その数は16百万個超でできている(比較にはなりませんが大ピラミッドは平均2.6トンの石材を230万個)。
魔のバミューダ海域
ウエブ情報から引用
バミューダトライアングルは、フロリダ半島の先端と、大西洋にあるプエルトリコ、バミューダ諸島を結んだ三角形の海域。 古くより船や飛行機、もしくは、その乗務員のみが跡かたなく消える事故が多発。 科学的に解明できないことで、オカルト、超常現象のネタとして扱われることが多かった。
ジェファーソン砦
ウエブ情報から引用
珊瑚礁に囲まれた小さな島には、200年前に建てられた要塞が未完成のまま残っており、捕虜収容所としても使用されていました。
ウエブ情報から引用
内部は2階建てで、アーチ型の壁で区切られた回路が続いており、回路沿いにある小部屋には大砲を撃つための小窓があったり、外には武器庫や兵士の住居だった建物の跡地なども見られます。
銃の発達は、多角形要塞・星形要塞(稜堡式城郭)を造り、大砲の発達が多角形要塞・星形要塞(稜堡式城郭)を終焉に、と理解してますので、この度のジェファーソン砦は、なぜ築造されたか、これからの課題になりました。
とりあえずウエブ情報の抜粋・引用を備忘録にして、将来の調査に備えました。
1824年12月下旬と1825年1月上旬、スペインが米国に5百万ドルでフロリダを売却したおよそ5年後に、米国海軍のデヴィッド・ポータ 提督がドライ・トートゥガス諸島を視察した。 提督は、カリブ海の海賊を鎮圧するのに役立つ海軍基地の場所を探していた。
彼は、自分の見たものに感銘を受けず、海軍長官に、ドライ・トートゥガスはいかなる海軍の施設にも向いていないと知らせた。 ドライ・トートゥガスは、わずかに海面に顔を出す小さな砂の島で構成されており、真水がないうえ、砦を築くための土地もほとんどなく、いずれにせよおそらく砦を支えられるほど頑丈ではないと報告した。
ポーター提督は、ドライ・トートゥガスは海軍基地には向かないと考えたが、米国政府の他の者は、サンゴ礁や小島周辺の船を導く灯台建設には適した島であると考えた。 ブッシュ・キー と呼ばれた小島、後にガーデン・キー と呼ばれるが、灯台の場所として選ばれた。 灯台はガーデン・キー灯台 として知られるようになった。 建設は1825年に始まり、1826年に終わった。
1829年5月、ジョン・ロジャース提督が、投錨地としての適性を評価するため、ドライ・トートゥガスに立ち寄った。 ポーター提督の体験に反し、ロジャースは自分が見出したものに喜んだ。 彼は、ドライ・トートゥガスが11の小さな島、周囲のサンゴ礁、堆で構成されており、堆の上で海が分かれていると報告した。
外港と内港があり、外港は常時安全な投錨地として利用可能で、多数の船舶が投錨できるほど広かった。 さらに重要なことに、内港は戦列艦に十分な水深を有すると同時に、せいぜい110 m(120 ヤード)しかない狭い入口を兼ね備えていた。
ロジャースは、万一、敵対勢力がドライ・トートゥガスを占領すれば、メキシコ湾での米国の船舶輸送は恐ろしく危険なものとなり、『絶対的な制海権』を握られてしまう。 しかし、占領して米国が要塞化すれば、ドライ・トートゥガスはメキシコ湾岸の防御のための『前哨基地』となるであろうと述べた。
一連の技術研究と官僚的な遅れのため17年間もかかったが、1846年、ジェファーソン砦(第3代大統領トーマス・ジェファーソンに因んで名付けられた)の建設が、ようやくガーデン・キーで始められた。 既存のガーデン・キー灯台と灯台守の小屋を砦の擁壁内に取り込めるように、新しい砦は作られた。
灯台は、1876年に砦の隣の壁の上に現在の金属製の灯台が設置されるまで、ドライ・トートゥガス諸島水域を航行する船を案内する重要な機能を果たし続けた。元のレンガの灯台は1877年に取り壊された。
砦の構造は、3層6面の420の重砲を持つ砦で、99mの2面と145mの4面を有する。 壁面の角には堡塁が設けられ、取り付けられた壁面に沿った防御射撃を可能にするよう設計された大きな突起である。 重砲は、壁の中の一連の屋根のない砲郭または砲室に取り付けられ、銃眼と呼ばれる大きな開口部を通して海へ向けられていた。 ジェファーソン砦は、難攻不落の巨大な砲床であり、強力な砲の射程範囲内に来る無謀な敵船を破壊することができるように設計された。
砦を維持するために必要な兵と士官のための宿舎、火薬庫、倉庫、その他の建物は、砦の巨大なレンガ壁の内側の練兵場にあった。 軍は、砦の建設支援のため、民間の機械製作工、大工、鍛冶屋、石工、一般労働者、収容している囚人、奴隷を雇用した。 1863年、南北戦争の期間中は、ジェファーソン砦の軍の囚人の数が非常に増加したため、奴隷をもはや必要としないほどであった。当時は、22名の黒人奴隷が、建設プロジェクトのために雇われていた。
ジェファーソン砦のピーク時の軍人数は1,729名であった。 加えて、多くの士官が家族を、限られた数の下士官と兵が妻を洗濯婦(通常は1中隊あたり4人)として連れてきた。 灯台守とその家族、料理人、民間の医師とその家族、その他の人もいた。 ピーク時にはジェファーソン砦に全体で2,000人近くの人が暮らしていた。
砦は、南北戦争の間中、北軍の手中にとどまった。1865年、南北戦争の終結と共に、砦の人口は、486名の兵士または民間人と、527人の囚人からなる1,013人に減った。 ジェファーソン砦の大部分の囚人は兵士で、その一般的な罪は脱走だった。 民間人の囚人の犯した最も一般的な罪は強盗だった。 しかし、1865年7月、4人の特殊な民間の囚人が到着した。
サムエル・マッド博士、エドマン・スパングラー 、サミュエル・アーノルド、マイケル・オローレンで、彼らはエイブラハム・リンカーン大統領の暗殺の共犯として有罪判決を受けていた。 ジェファーソン砦は、マッド博士とその仲間達が到着したときも、まだ建設中であり、 収容されていた期間中ずっと、そしてその後数年間建設が続いたが、完全にできあがることはなかった。
1867年、マッドは、黄熱の蔓延時に砦で行った医療行為が高く評価され、結局、アンドリュー・ジョンソン大統領によって恩赦、釈放された。 1888年には、ジェファーソン砦の軍事的有用性は減じ、頻繁なハリケーンの発生と、腐食、消耗させる熱帯の気候の影響により生じる砦の維持コストはもはや正当化できなくなった。
1888年、軍は砦を米国公衆衛生局 に検疫所として運営するよう引き渡した。1035年1月4日、フランクリン・ルーズベルト大統領は、船でこの地を訪れ、ジェファーソン砦国定史跡に指定した。 1970年、歴史遺産登録制度に登録された。
1992年、ジェファーソン砦を含め、ドライ・トートゥガスは国立公園となった。 ドライ・トートゥガス島には、いまだいかなる静水もなく、季節河川すらみられない。 それ故、「ドライ」という名がある。 こうした状況で生き残ることは困難なため、島の一つは空軍兵訓練用の軍のサバイバル映画の撮影場所として使用された。
この素晴らしい『ドライ・トートゥガス国立公園』を含め、『宇宙船地球号・奇跡の星・水の惑星』は、真剣に大事にしたいものです。
(記事投稿日:2021/11/05、#419)