知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

興味のあることは、何でも調べて文章にする。   写真は「光と影」と言われるが、この理解には、まだまだ、ほど遠い.

『山は美しい 18(登りそこなった山は、傘寿プラスには遠い、活火山霧島山)』 『日本で最初の国立公園(霧島国立公園)に指定は当然の絶景』

2024-04-05 17:12:26 | 山・山岳
『山は美しい 18(登りそこなった山は、傘寿プラスには遠い、活火山霧島山)』
『日本で最初の国立公園(霧島国立公園)に指定は当然の絶景』

西方(霧島市横川町丸岡)から見た霧島山 傘寿プラスにはこの風景で十分!
 
ウキペデイア情報から引用

霧島火山の火山体地形図(霧島連山、霧島連峰、霧島山地あるいは霧島火山群とも呼ばれる)

ウキペデイア情報から引用

北海道の大雪山と同様に霧島山という固有の山はなく、個々の山岳はそれぞれ個別の名称で呼ばれる。 霧島山岳群に加えて大小の湖沼群を抱え、高千穂河原やえびの高原、霧島温泉郷などの観光地に恵まれる。 山塊の中心部は霧島錦江湾国立高原に指定されている。 日本百名山、日本百景の一つであり、2010年9月にはジオパークの一つとして認定された。

大雪山と同様に霧島山という固有の山
日本には、山塊の名称を持った山・峰が存在しない山塊があります。 
 大雪山(北海道 中央部にある 旭岳 などの山々からなる巨大な山塊)、
 赤城山(一つの大きな火山体の名称であり、同名の峰は存在していない)、
 榛名山(多くの峰・12座をもつ複雑な山容の巨大なカルデラの活火山)など。

先日NHKBS『霧島山〜多彩な表情の活火山〜』を見ました。 まさに、遠い山ですが、『山は美しい(登りそこなった山は、傘寿プラスには遠い、活火山・霧島山)』。 20余りの火山が連なる「霧島山(鹿児島・宮崎)」。 代表的な峰は2つ。 神話の舞台ともなった「高千穂峰(1574m)と、最高峰の「韓国岳(1700m)」。

古代においては天孫降臨説話の舞台とされ、高千穂峰の山頂には天孫降臨に際して逆さに突きたてたという天の逆鉾が立てられている。 「霧島」が最初に文献に登場するのは837年(承和4年)8月の続日本紀であり、諸県郡の霧島岑神社を官社とする旨が書かれている。

霧島』の語源はこの地を遠望すると、韓国岳をはじめとする霧島連山が、霧の海に浮かぶ島のように見えることからという説。 また、建国神話の舞台、高千穂峰に天孫降臨があったとき、霧が深く、物の姿がわからなかったため、神に祈り、高天原(たかまがはら)から持参した稲穂をまいたところ、たちまち霧が晴れたという故事からきたという説もある。 他に、イザナギがカグツチを斬った故事にちなんで「切り嶼(きりしま)」と名付けられたとする説や、火山活動による噴煙を霧に見立てたとする説などがある。

古代から山岳信仰の対象となっており、中世においては修験道の霊山であった。10世紀中頃に性空が修行に訪れ、山中の様々な場所に分散していた信仰を天台修験の体系としてまとめ、霧島六社権現として整備した。 軍神であるヤマトタケルを祀っていたことから、南北朝時代に勢力を伸ばした島津氏に信仰され、九州南部各地に霧島神社が建てられた

近世に入って1714年に霧島山南西部で硫黄谷温泉(霧島温泉郷)が発見され温泉保養地として知られるようになった。 1866年には坂本龍馬・おりょう夫婦が新婚旅行に訪れている。 1934年3月16日に日本で最初の国立公園(霧島国立公園)に指定された。 1950年代後半になると、えびの高原や高千穂河原が登山拠点として整備され多くの登山者が訪れるようになった。

まさに、『山は美しい(登りそこなった山は、傘寿プラスには遠い、活火山霧島山)』ですので、大切に自然を守っていきたいものです。

この掛替えのない『宇宙船地球号』『水の惑星』『緑の地球』を守っていかなければなりませんので、何とか間に会ってくれと祈りながら、みんなでやれる『節電・節水・節肉食、移動には自転車・バス・電車』と、政界・産業界のリーダーの皆様に頑張って頂きたい、CO2排出削減は次の、ビッグ3『発電業・製造業・運輸業』での喫緊対策です。 

みんなでやる『「節電・節水・節肉食、移動には自転車・バス・電車」「プラチック使用減らす(土に還るプラスチックでも製造時はCO2を!)」「木を植え、木の手入れ」をやろう』は、『発電業・製造業・運輸業』の規模縮小にはなりますが、これ以外に80億人の個人で、何かできるでしょうか。
(記事投稿日2024/04/05、#737)
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『特別展「画聖(カリスマ)の誕生」京都で開催、ぜひ東京開催も』 『水墨画で著名な絵師といえば雪舟、脅威の国宝6点・重文18点』

2024-04-05 10:58:32 | 絵画
『特別展「画聖(カリスマ)の誕生」京都で開催、ぜひ東京開催も』
『水墨画で著名な絵師といえば雪舟、脅威の国宝6点・重文18点』
『それでも、不器用・遅咲きの画聖雪舟の作品総数は36点と少ない』

15世紀後半に活躍した水墨画家・禅僧で、画聖ともたたえられる雪舟。 江戸時代に神格化され、日本の水墨画を一変させ、後世の画家に多大な影響をおよぼしたと言われるのが雪舟です。

冒頭から余談です。
一方、葛飾北斎は日本の画家、浮世絵画家、江戸時代の版画家。 雪舟をはじめ中国絵画の影響を受けたスタイルで、シュルレアリスティックに日本の風景や春画を描く、葛飾北斎ですが、実はその名前は本名ではありません。  45歳から5年ほど使っていた号(ペンネームみたいなもの)であり、しかも北斎はこの号を生涯で30回以上変えているのです。

この二人、『画聖』と、『幽霊から漫画まで描く「鬼才」』の世界での評価と影響度は、水墨画と浮世絵版画・漫画の異なる世界ですが、二人のその凄さには、ただ驚くばかりです。

京都国立博物館のウエブ情報です。 今後の調査に備え備忘録に!

 ウエブ情報から引用

展覧会の見どころ
日本美術史上もっとも重要な画家の一人である雪舟(1420~1506?)。 6件もの作品が国宝に指定されていることが象徴的に示しているように、雪舟に対する現在の評価は突出したものがあります。 しかし、それは単純に作品が優れているという理由だけによるのではありません。 雪舟とその作品に対し、歴史的に積み重ねられてきた評価の上に、今日の高い評価があるのです。
本展では、主に近世における雪舟受容の様相を辿ることで、「画聖」と仰がれる雪舟への評価がいかにして形成されてきたのかを検証します。 桃山時代に雪舟の後継者を自称した雲谷派と長谷川派、雪舟画風を流派様式の礎とした江戸時代の狩野派はもとより、これら漢画系の画家とは異なる実にさまざまな画家たちが雪舟を慕い、その作品に学びながら、新しい絵画世界を切り開いていきました。
 一口に雪舟受容といってもそれ自体複雑な性質を孕み、多角的に把握すべきものです。その多様な雪舟受容を通して、
「画聖」雪舟誕生の過程を明らかにすることを目指します。

第1章 雪舟精髄
雪舟筆と伝わる作品は数多く残っていますが、誰もが間違いないと認める作品は多くはありません。 まずは、雪舟の代表作と呼び得る作品を通して、「画聖」の原点を確認します。 雪舟の名声は決してそれだけが独り歩きしたわけではなく、その源には優れた作品の存在がありました。 ことごとく国宝や重要文化財に指定されるこれらの作品は、雪舟に対する現在の高い評価をも示しています。

第2章 学ばれた雪舟
雪舟の代表作を一覧できるのは、現代であればこそ。 江戸時代には秘蔵され、容易に見ることのできなかったものもあります。 ここでは、近世においてよく知られ、それゆえに大きな影響力をもった作品をご紹介します。 現在では雪舟その人の作ではないと見なされるものも含まれますが、こうした作品を通して、近世の雪舟理解は深まり、その主題や様式が継承されてゆくのです。

第3章 雪舟流の継承―雲谷派と長谷川派―
雪舟は、秋月や宗淵、等春など多くの弟子を育てましたが、その画系は必ずしも長くは続かなかったようです。 そんな雪舟の画風を継承、再生させたのは、桃山時代に活躍した雲谷等顔(1547~1618)や長谷川等伯(1539~1610)でした。 彼らは雪舟に師事したわけではありませんが、その後継者を名乗り、雪舟画風を規範とする作品を数多く制作しました。 江戸時代には、この二人が雪舟正系を争ったという逸話も流布しました。

第4章 雪舟伝説の始まり―狩野派の果たした役割―
近世における雪舟神格化の動きに最も大きな役割を果たしたのは、狩野探幽(1602~1674)です。 探幽の画風は、狩野派のみならず江戸時代絵画全般の一つの共通基盤となりましたが、その探幽が自らの画風を形成するにあたり拠り所としたのが雪舟だったのです。 探幽をはじめとする江戸時代の狩野派作品を通して、雪舟作品の主題・様式が継承されてゆく様相を確認します。

第5章 江戸時代が見た雪舟
江戸時代には、現在知られているよりもずっと多くの「雪舟画」が流通していました。 もちろん、それらのすべてが雪舟の真筆であったわけではないでしょう。 しかし、現在では雪舟筆と認められていない作品や、所在が知られない作品 も、当時は雪舟画として受容され、画家像の形成に一役買っていたのです。 狩野派画家が残した縮図や模本を通して、江戸時代の人々にとっての雪舟画を探ります。

第6章 雪舟を語る言葉
雪舟は、作品そのものがもつ力だけでなく、さまざまな人々が雪舟について語る言葉、言説によって、いっそうその存在感を高めていきます。 特に作品の図様を含めた情報の伝播という点で、出版物の果たした役割はきわめて重要です。江戸時代、雪舟はどのように語られてきたのでしょうか。 ここでは、版本や手紙をはじめとする文字資料を中心に、その一端をご紹介します。

第7章 雪舟受容の拡大と多様化
雪舟の神格化に寄与したのは狩野派ばかりではありません。 雲谷派や長谷川派、狩野派のように、漢画(主に宋・元の中国絵画に学んだ絵画)をもっぱらとした画家だけでなく、江戸時代の多くの画家がさまざまな観点から雪舟を規範として仰ぎ、新たな絵画世界を切り開いていきました。 特に、江戸時代中期以降に拡大、多様化してゆく雪舟受容が、「画聖」雪舟という現在の評価へと確かに繋がっているのです。

『水墨画で著名な絵師といえば雪舟、脅威の国宝6点・重文18点』
『狩野派が室町~江戸約400年の作品が国宝4点・重文37点に比べ凄い雪舟』
狩野派の内訳は、
狩野正信 国宝1点、重文 7点
    狩野元信      重文16点
    狩野永徳 国宝3点、重文 3点
    狩野山楽      重文11点

とにかく孤高の雪舟、狩野派集団、どちらも凄い。 日本は、日本人は凄い中で雪舟は群を抜く。 雪舟は『万能の天才、レオナルド・ダ・ヴィンチに比肩される画聖雪舟等楊、日本美術史の草創期に唐絵からやまと絵へという画期を形成した時代を見直し、近世への幕開けを準備した』と言われています。

雪舟等楊(水墨画家、禅僧、1420年 - 1502年または1506年)と桂庵玄樹(臨済宗の僧侶、薩南学派、1427年 - 1508年)・らが随行した、『遣明使(遣隋使と遣唐使は知っていましたが)』についても、調べるため・知るために国会図書館通いが続きそうです。
(記事投稿日:2024/04/05、#736)
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