知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

興味のあることは、何でも調べて文章にする。   写真は「光と影」と言われるが、この理解には、まだまだ、ほど遠い.

『花の世界 6.0(ハスの花と茎、二題)』ー岡山後楽園の白い大輪の花「一天四海」最後の一輪が真っ盛りとばかりに―

2024-07-13 11:43:28 | 寺院・仏閣・神社・お社
『花の世界 6.0(ハスの花、二点「一天四海」と「晩秋のハスの茎」』
『岡山後楽園の白い大輪の花「一天四海」最後の一輪が真っ盛りとばかりに』

不思議なことに、数年前の夏も過ぎた9月1日のこと、ハスの花、『最後の一輪が真っ盛り』とばかりに、凛と咲いていました。 岡山後楽園の気品ある白い大輪の花『一天四海』です。 このネーミングにも納得です。
下手の横好きの写真撮影も、白色を撮るのが苦手で『白とび』常習犯でしたが、この『一天四海』の花脈も、辛うじて、かすかに撮れました。(ウデではなく、撮影時間とこの花の精の所為です。)


日陰の池で咲いていた一輪でした。 先ずはウエブ情報です。 
『一天四海』…花の直径が30cmにも及ぶ大型のハス。白い花弁に不規則な紫の縁取りがあり、豪快かつ気品 にあふれた姿から大名蓮(だいみょうはす)と呼ばれることもあります。

『一天四海』【意味】
 天の下と四方の海。 天下のすべて。 世界中の意。
【語源由来】
 「一天」は天下中のこと。 「四海」は四方の海の意から、転じて、天下・世界中の意。

一天四海皆帰妙法(いってんしかいかいきみょうほう)という言葉があります。
 仏典の一説に由来しており、意味としては、「人間が皆仏さまの説法に耳を傾けたとき、みな仏の世界を得て、その国土は仏の国土となる」であり、より現代風に訳すと「世界全体を仏さまの教えで広め救う」や「この世の中は一つの真理が働いている」という意味となります。

当然ですが、この時期には、すでに散っていたハスが、著名な『大賀蓮』(次の一葉、ハスの茎『名残』)です。 このハスの、『由緒』にはドラマがあります。 ここでもウエブ情報です。

大賀蓮 …別名「二千年蓮」・古代蓮」淡いピンクで直径25㎝くらいの花が咲く可憐なハスです。
岡山市出身の植物学者大賀一郎博士が、1951年に、千葉県検見川にある約二千年前の地層から発見した3粒のハスの実のうち1粒が、発芽・生育に成功しました。  同じ地層から出土した丸木舟の年代測定によって、このハスの実は、二千年前の古蓮と推定されました。  その1粒から3本の蓮根が出来、後に次々と分根されていきました。 これまでに、実や蓮根によって、国内外の150か所以上に分根されています。 
二千年前の一粒の古蓮の実から咲いた可憐な花は、時代を経て、今も友好と平和の使者として親しまれ大切に されています。  大賀博士は、古蓮、ハスの開花音、ハス糸などハスに関する幅広い研究を続け、大賀ハスの発見によりハス博士と呼ばれるようになりました。

ハスの茎『名残』
このハスの茎は、上野恩賜公園の『蓮池』ならぬ『鵜の池』で撮ったものです。 『ハス』という命名ですが意外な説があります。 ここでもウエブ情報です。
日本での古名「はちす」は、花托の形状を蜂の巣に見立てたとするのが通説である。「はす」はその転訛。 
水芙蓉(すいふよう、みずふよう)、もしくは単に芙蓉(ふよう)、不語仙(ふごせん)、池見草(いけみぐさ)、水の花などの異称をもつ。 
漢字では「蓮」のほかに「荷」または「藕」の字をあてる。

ハスはよく撮りに行きますが。 ハスの茎がこれほど不思議な抽象的な図形に撮れたのは初めてです。

 

ハスの花は、撮影の対象としていいアイテムです。 葉は撥水性があって水玉ができて、大きな水玉見つけて『その水玉に他の被写体を撮りこむ』ことをいつも狙っていますが、結果が出せていません。 道具の所為にしていますが『否、
腕の所為』です。 とどのつまり『勉強・努力不足』です。
 (記事投稿日:2019/06/30、最終更新日:2024/10/13、 #107 )
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『卑弥呼・邪馬台国は神秘的? その真実を知ることは難しい 2』 『邪馬台国 vs 出雲王朝 vsヤマト王権(大和朝廷)の歴史的つながりを知るため日本古代史の「空白の150年」「空白の4世紀」を』

2024-07-13 10:24:29 | 寺院・仏閣・神社・お社
卑弥呼・邪馬台国は神秘的? その真実を知ることは難しい 2』

『邪馬台国 vs 出雲王朝 vsヤマト王権(大和朝廷)の歴史的つながりを知るため日本古代史の「空白の150年」「空白の4世紀」を』

『文字の記録がない邪馬台国と、文字の記録があるヤマト王権は、其々が北九州(?)と畿内に100年以上の時間差で存在し、邪馬台国は、後発のヤマト王権に組み込まれたか、滅ぼされた可能性?』

冒頭から余談で恐縮です。 先ずは、「卑弥呼」の名前のこと、
「卑弥呼」という名前は、中国の歴史書『魏志人伝』にのみ登場します。 
魏志倭人伝
 ウエブ情報から引用
そして卑弥呼の時代の日本には、まだ漢字が文字として使われていませんでした。 これらの点から「卑弥呼」の漢字名は、この名前を聞いた中国の役人が発音に近い漢字を当てたものと考えられています。 「卑しい」という差別的な漢字が当てられている理由としては、中国側が日本を格の低い国と見くだしていたとする見解が有力です。

 
次に「倭人・倭国」の「倭」の意味
紀元前から中国各王朝が中国東南の地域およびその住人を指す際に用いた呼称。紀元前後頃から7世紀末頃に国号を「日本」に変更するまで、日本列島の政治勢力も倭もしくは倭国と自称した。 なお倭人は、倭国の国民だけを指すのではない。 邪馬台国、卑弥呼はまちがいなく蔑称。 中国は周辺の民族自体を、『南蛮東夷北狄西戎』と。 倭国、倭人というのも蔑称だが、人偏の漢字を充てているだけまだ良いと言われています。

標題に戻ります。
日本古代史の四世紀の記録が中国の歴史書にだけで、日本の歴史にはほとんどなく『「空白の150年(266年~413年)」または「空白の4世紀」に日本で何が起きていたのか』とかと、問われています。 漢字が朝鮮半島経由で渡来し、本格的に使われ始めたのは5世紀以降ですので記録のない「空白の4世紀」は、やはり興味津々です。

今後の調査のためにこの『4世紀の空白の150年(文字の記録がない)』を箇条書きに整理してみます。 空白の150年はいつなのかと言えば、西暦266年から413年までの約150年間を指します。

名前  空白の150 年
別名  空白の4世紀
時期  266年~413年
空白の150年前夜:
卑弥呼の朝貢
   西暦238年に遼東の公孫淵が魏の司馬懿によって滅ぼされると、すかさず
 邪馬台国の卑弥呼は魏に朝貢。

邪馬台国と魏の蜜月関係
  魏の曹叡または曹芳は邪馬台国の卑弥呼を親魏倭王とし厚遇。

呉の遼東半島進出
  孫権の遼東半島への進出は確実にあったわけであり、呉は楽浪郡や帯方
   朝鮮半島にまで影響力。
  倭国で言えば魏が邪馬台国に味方し、狗奴国の裏には呉がおり、邪馬台
  国と狗奴国の戦争は魏と呉の代理戦争。

西暦266年に至るまでの経緯
  邪馬台国の卑弥呼は狗奴国を完全に滅ぼす事が出来なかった様であり、
  248年頃に死去。 倭国では男王が立ちますが、国を安定させる事が
  出来ず13歳の台与が後継者に、晋書によれば256年に倭国の女王が
  朝貢、これが台与か。

空白の150年の前期:
 邪馬台国の衰退
  空白の150年は266年からですが、空白の150年の前半では邪馬台国の
  衰退。

 大和王権の国力増
  卑弥呼の時代に九州では鉄が普及、近畿ではまだ青銅器の時代。
  雑木林が多い九州の地形に対し、大和盆地の中央には奈良湖があり、
  湿地帯が多かった事で開墾が非常にやりやすく大和王権は勢力を拡大
  邪馬台国や狗奴国が戦争を繰り広げる中で、大和王権は地形効果と
  天然の要塞に守られ国力を高めた。

空白の150年の中期:
 中国・四国地方の動向
  近畿の大和王権と九州の邪馬台国の間には、四国や中国地方などが
  存在。 四国や中国地方の諸国では九州の邪馬台国に与するか近畿の
  大和王権に与するかの選択肢はあった。

 ツヌガアラシトの来日
  朝鮮半島南部にも倭人がいた事が分かっていますが、邪馬台国が弱体化
  し頼りにならず、代わりに大和王権に後ろ盾になってくれる様に要請。

 邪馬台国の滅亡
  古事記や日本書紀の記述に、景行天皇が自ら九州に遠征。
  日本書紀によると神功皇后の時代に百済から七支刀を贈ってきた話しが
  あり、この七支刀が現存しており銘文から神功皇后の52年が紀元前369
  年。記紀には仲哀天皇や神功皇后が九州に上陸した話も掲載
  空白の150年の中期には邪馬台国は滅亡したと考えるのが妥当。 邪馬
  台国が滅亡した時期は、中国では五胡十六国となっており、北方は異民
  族の流入もあり大混乱の時代。倭国を見ている様なゆとりはなかった。

空白の150年の後期:
 倭国と大和王権
  神功皇后が摂政を行っていた時代に、田油津媛の討伐に成功するなど
  九州北部も大和王権の支配下に。 神功皇后が九州を平定する前であれ
  ば倭国と言えば邪馬台国や奴国などの北部九州に国々を指した。 神功
  皇后が九州を平定してからは、倭国と言えば大和王権を指す。

 朝鮮半島から見た空白の150年
  高句麗を北に駆逐した百済は首都を漢城に遷し国として勢い。 高句麗
  が再び南下して攻めて来る可能性は十分にあり、対策を練る必要。
  当時の東晋は山東半島まで領土を得ており、百済は黄海を渡り東晋への
  朝貢を、さらに、百済は倭とも友好を深める。

空白の150年の末期
 前秦の崩壊
  前秦は370年に前燕を滅ぼしただけではなく、376年には前涼を滅ぼし
  たが、383年に前秦は南下しますが、淝水の戦いで東晋の謝玄に大敗
  北。 急激に衰え、394年には呆気なく滅亡。

 騎馬隊の恐ろしさ
  高句麗は歩兵と騎兵合わせて5万を率いて、高句麗は重装騎兵まで持っ
  ており、日本軍は新羅の救援に赴き、公開土王妃によれば倭軍は退却す
  るも高句麗軍に蹴散らされた。

413年の謎
 倭と高句麗の共同入貢説
  空白の150年は一般的には、413年に倭国が高句麗と共に東晋へ朝貢を
  行った事で終わったと考えるのが普通。

 高句麗が嘘を述べた説
  413年には倭国は朝貢してはおらず、高句麗側が自分を大きく見せる
  為に、倭国の者を引き連れて入貢したとする説。

今後も『空白の150年(空白の4世紀)に日本で何が起きていたのか』を、さらに調べていくと、もう少し『記録のない部分の日本の古代史』が分かるような気がしてきました。
(記事投稿日:2024/07/13、 #758)
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