『世界の寺院・神殿・教会・墓所 4(天子が事前に作る寿陵)』
『昔から馴染みの古墳名「仁徳天皇陵」には、別の名称が沢山!』
寿陵とは、中国の皇帝が生前にあらかじめ造営する陵墓。 驪山 (りざん)の始皇陵が最大だが,渭水北方の前漢の亭陵,洛陽付近の後漢の帝陵,醴泉 (れいせん)の唐の太宗の昭陵も有名です。 一般臣下の場合は,生壙・寿域・寿穴・寿堂などと呼ぶようです。 この『寿陵』について調べていたら、仁徳天皇について貴重な情報を見つけました。
今後の日本の古代史、邪馬台国・出雲王国・大和王朝、三王朝説・四王朝説、漢字圏・漢字文化圏・大和言葉等々、興味が尽きることはありません。
先ずは、関連情報です。
- 世界三大墳墓の大きさの比較を見ると『古代の日本は、日本人は凄かった』としみじみと思います。 小さな島国で、当時の人口で、この巨大な墳墓が造営できたか興味津々です。 古代の人口は、西暦200年頃は約60万人、西暦725年頃は約450万人と推定され、稲作で人口が急増した時代。
堺市ホームページから引用
- 『倭の五王』(中国大陸の歴史書には当時の倭国にかんする記録が(少なくとも『記紀』よりは信頼できる形で)残されています。 日本も中国も漢字圏・漢字文化圏にも関わらず、大王(天皇)の名前さえ異なる。 因みに『天皇』と呼ばれ始めたのは、西暦608年に、聖徳太子が隋(今の中国)に送った国書の中に「東の天皇、つつしみて、西の皇帝にもうす」という記述があり、これが「天皇」という称号が使われるようになった始まりだとされています。ウエブ情報から引用
ここからは、今後の調査のため備忘録にした、ウエブ情報の抜粋・引用の長文ですのでご放念ください。
仁徳天皇陵古墳のデータ、古墳の名前多数
大仙古墳、大仙陵、大山古墳、大山陵、大千陵、大川陵、仁徳陵古墳、仁徳天皇陵、百舌鳥耳原中陵などがあります。これらの呼称のほかに、仁徳御陵などの「御」、伝仁徳天皇陵などの「伝」をつける場合があります。
大雀(オホサザキ)(仁徳天皇)
大雀は葛城(かづらき)の曾都毘古(ソツビコ『大和言葉が先にあり、これに漢字を当てた』)の子で、西暦365年に誕生しました。 つまり、記紀で父親とされている品陀和気(ホムダワケ、応神2)と、じつは同じ年齢だったのです。 だから西暦381年という、二人がともに17歳のときに、大雀が髪長比売(かみながひめ)(泉長比売)を横取りする事件が起きたわけです。
『余談・脱線です。
628年に書かれた『隋書』の「倭国伝」に、「(倭国に)文字はなく、ただ木を刻んだ(刻木)、縄を結んで(結繩)文字代わりとした。 仏法を敬い、百済に仏典を求めて始めて文字を得た」と書かれていることから、「日本には仏教渡来以前には文字がなかった」などと言われています。
「刻木(こくぼく)」というのは、漢字の始祖とされたチャイナの三皇時代の倉頡(そうきつ)が考案した「書契(しょけい)」のことで、書契とは「木に文字を刻む」という意味の言葉です。
「結繩(けつじょう)」は、縄目を結んだ記号のことで、ひらたくいえば「縄文文字」ということになります。』
その事件というのは、わざわざ日向から、天皇の品陀和気のためにと送られてきた女性を、なんと大雀は自分が欲しいと言いだし、その獲得に成功してしまうというものです。 ときの国王を相手にまわして、大雀という青年にそんな大胆なことができた理由は、そのころまでに父親である葛城の曾都毘古の勢力が、強大なものに成長していたからなのです。
ちなみに葛城の曾都毘古は、魏志倭人伝に記録された一大率(イタイソツ(女王国の官人)、一高岩狭津)の子孫です。 すでに西暦247年に、壱岐の一大国の支配者だった一大率は、その航海力を利用して、奴(ナ)国より北の国々を検察してまわるという役割をはたしていました。 その子孫である曾都毘古も、朝鮮半島を攻撃したことが記録されています。
したがって大雀は、邪馬台国にちょくせつの血のつながりを持たない、最初の国王だったのです。 だから、現実に王位につくまでの経過は順調なものではなく、何年もの歳月を要しているのです。
もともと、前国王の品陀和気(ホムダワケ『大和言葉が先にあり。これに漢字を当てた』)(応神2)は、宇遅能和紀郎子(ウヂノワキイラツコ)を太子としました。 その二人は親子とされていますが、じつは兄弟でした。 学問に秀でた宇遅能和紀郎子は、品陀和気の治世中からすでに、国政に深く関与しています。 西暦389年には、高麗王からの外交文書を読んで、その内容に怒り、破り捨てるということもしています。 そのとき、兄にあたる品陀和気でさえ、まだ25歳という若さだったのです。
西暦394年に、品陀和気が30歳で逝去しましたが、太子の宇遅能和紀郎子はただちに即位することができませんでした。 なぜなら、そのときまでに倭国の最高実力者になっていた大雀が、それに協力しようとしてくれないからです。 やむを得ず宇遅能和紀郎子は、国王の座を大雀に譲ることにします。
ところが、その申し出も、大雀に固辞されてしまいます。 大雀の血統は皇統にはありませんから、皇統にある太子をさしおいて、事実上、王位を奪い取るという形になることは、大雀としては絶対に避けたいわけです。 記紀では、二人が王位を譲り合う「美談」としてまとめられていますが、実際はそのようなものではなく、かなり陰湿だったのです。
その二人の確執がそのように続いたため、倭国に国王がいないという異常事態、つまり空位期間は約6年間にも及んだようです。 太子でありながら、自分ではどうすることもできないという状況に追いつめられた宇遅能和紀郎子は、ついに自殺してしまいます。 そこでようやく大雀は、国王の座を獲得することに成功したのです。
大雀という名前のササキの部分は「三狭城(サソキ)」を意味し、かつての載斯(サイシ、三岩州)国を指すものです。 つまり、大分県の旧・海部(あま)郡が、大雀の領地だったのです。 中国の文献に記録された倭王の「賛」や「讃」は大雀のことですが、その漢字はササキ(三狭城)の「三(サン)」の音に合わせて選ばれたものです。
倭王の讃は、宋にあてた上表文のなかで、父祖が東奔西走して、倭国の平定に貢献したことを述べています。 大雀の父親は葛城の曾都毘古で、その祖先は一大率(女王国の官人)だったのですから、その上表文の内容は嘘でも誇張でもないのです。
大雀は17歳のときに髪長比売を妃としたのですが、二人のあいだには子供がありませんでした。そこで大雀は、宇遅能和紀郎子の遺子である伊邪本和気(イザホワケ)(履中天皇)を養子にし、太子とします。 そして、その母親だった八田若郎女(ヤタノワキイラツメ)(じつは、ハタノワキイラツメ)を、のちには新しい妃として迎えることになります。
ただし記紀では、このような事実はすべて伏せられています。 そこでは宇遅能和紀郎子に妃がいたという記録はなく、八田若郎女は宇遅能和紀郎子の妹とされています。これらの系譜の問題については、ほかの場所にまとめることにする予定です。
このようにして大雀はみずから、次期国王の座をふたたび、皇統に返すということをしたのです。 じつは、その行為を称える意味で、大雀の中国風の諡号を考えた人々は、「仁徳」という字を選んだのです。 ひろく信じられているように、しばらく租税を集めなかったので「仁徳の人」と称えられた、というわけではけっしてありません。
大雀が逝去したのは西暦427年のことで、そのときの年齢は63歳でした。 古事記では、大雀の逝去時の年齢を83歳としていますが、それは弟である水歯別(ミヅハワケ)(反正天皇)を、その子とするための数字の操作です。 それに応じて日本書紀でも、その治世の67年(426年)から87年(427年)までを「二十余年、事無し」として、治世年の水増しをはかっています。
もしも、「二十余年、事無し」ということが事実なら、その間のことは、いまのわれわれにはまったく分からないことになってしまうわけですが、その心配はいりません。 じつは、自分の死期が近いことを悟った大雀は、426年の旧暦10月に陵地を選定し、翌年の旧暦1月に逝去したのです。 二十年も前から自分のための陵墓の準備をしていたわけではないので、誤解のないように。
今から1,700年程前の3世紀から7世紀の約400年間、大王や王(豪族)が亡くなると、土と石を使って高く盛った大きな墓を造りました。 今、この墓を古墳とよび、造っていた時代を古墳時代とよんでいます。 全国に16万基以上はあるといわれる古墳のなかで、日本最大の古墳が堺市にある仁徳天皇陵古墳です。
墳丘の大きさ486メートルと、エジプト・ギザのクフ王のピラミッドや中国の秦の始皇帝陵よりも大きく、世界三大墳墓の一つに数えられる世界に誇る文化遺産です。
古墳の陵域は濠を含めて約47万平方メートルと、甲子園球場が12個も入る広さです。古墳を造るには、1日最大2,000人の人々が働いても15年以上かかったといわれています。
古墳を上空から見ると、丸と四角を合体させた前方後円墳という日本独自の形で、墳丘の周りには水を湛えた濠が三重に巡り、大仙の名にふさわしい神秘的な悠久の仙山として、地元では大仙陵と呼んで親しんできました。
仁徳天皇陵古墳は、東アジア世界に進出した「倭の五王」の中の一人を葬った墓といわれ、古代史を解明する上で重要な文化遺産です。 現在は、北の反正天皇陵古墳と南の履中天皇陵古墳とともに、百舌鳥耳原三陵として宮内庁が管理しているため中に入ることはできません。 それでも濠の外からその巨大さは十分に実感して頂くことができます。 また、堺市博物館には、仁徳天皇陵古墳に関する資料を展示しています。
仁徳天皇について、『古事記』、『日本書紀』で第16代天皇と伝えられ(江戸時代後期から明治時代には祖母にあたる神功皇后が第15代天皇に即位したとして第17代天皇となっている場合があります。)、諱(いみな〈本名〉)は大雀・大鶴鷯(おおさざき)で、仁徳は8世紀頃につけられた諡(おくりな〈死後に送る称号〉)です。
『日本書紀』では亡くなった年齢は書いていませんが、在位87年で没したと記されています。また『古事記』では83歳で亡くなったと記されています。 一説によると、神功57年(257年)に誕生したといわれ、仁徳元年(313年)1月3日に即位し、仁徳87年(399年)に崩御したので、単純計算で 143歳の長寿で亡くなったことになります。
父は応神天皇(おうじんてんのう)、母は仲姫命(なかつひめのみこと)で、異母弟の皇太子・莵道稚郎子(うじのわきいらつこ)皇子を助け、異母兄の大山守(おおやまもり)皇子を退け、皇太子と皇位を譲りあいますが、皇太子の自殺に伴い即位します。 都を難波高津宮(なにわのたかつのみや)に定めて、葛城磐之媛(かずらきのいわのひめ)を皇后とし、のちの履中・反正・允恭天皇(第17-18-19代と兄弟で継承)をもうけます。
民家から炊事の煙がたちのぼらないのを見て、人々が困っているのを察し課役を三年間免除したり、難波の堀江・感玖(こむく)大溝・茨田(まんだ)堤・横見堤などの築造や茨田屯倉(まんだのみやけ)の設置などを行ったと記されています。このような善政を行ったので、古来より聖帝(ひじりのみかど)とたたえられ、理想的な天皇とされてきています。
同時代の中国の資料『宋書』には「倭の五王」が記され、その最初に記された王「讃(さん)」の発音が、「おおさざき」に通じることから、仁徳天皇が「讃」ではないかという考えがあります。仁徳天皇がこの「讃」王なら、永初2年(421年)に宋の南朝に朝貢して安東将軍・倭国王にはじめて任命され、邪馬台国の時代(3世紀の後半)から約150年間途絶えていた日中間の国交を回復し、それを柱として東アジア外交を展開した国際感覚豊かな大王ということになります。また、その他に「倭の五王」の「珍(ちん)」とする考えもあります。
「讃(さん)」王は、宋に使節を派遣した永初2年(421年)を中心に活躍し、元嘉15年(438年)には没したとみられ、単純計算で在位年数は17年ないし25年前後です。また、「珍(ちん)」王は、元嘉15年(438年)の近い年に即位し、元嘉20年(443年)には退位していて、同じく在位年数は6年前後となります。いずれにしても、『古事記』や『日本書紀』などの日本の記録とは合わないのですが、仁徳天皇を考えるうえでは重要な資料になります。
「倭の五王」の陵は、どの古墳が候補としてあげられるでしょうか。「倭の五王」が中国と交渉を持った時代、つまり西暦413年前後から西暦502年頃の5世紀前半から6世紀初頭に造られたと考えられている畿内の古墳を、墳丘規模順に列挙すると、仁徳天皇陵古墳-応神天皇陵古墳-履中天皇陵古墳-ニサンザイ古墳-仲姫命陵古墳となります。
これを時期順に並び替えると、仲姫命陵古墳-履中天皇陵古墳-応神天皇陵古墳-仁徳天皇陵古墳-ニサンザイ古墳となります。しかし、他にもいろいろな組み合わせが考えられますが、「倭の五王」最後の「武(ぶ)」王が雄略天皇であることは確実で、その陵は仲哀天皇陵古墳ではないかという説が強く、これらを考慮すると「倭の五王」の陵は、履中天皇陵古墳-応神天皇陵古墳-仁徳天皇陵古墳-ニサンザイ古墳-仲哀天皇陵古墳との説が一番有力なようです。
ともあれ、「倭の五王」の時代には、日本列島から大陸に文物、特に朝鮮半島に産する鉄を求めて、さかんに海外進出した時期で、仁徳天皇はその時期に活躍した大王の一人かもしれません。
(記事投稿日:2022/07/27、#557)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます