知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

興味のあることは、何でも調べて文章にする。   写真は「光と影」と言われるが、この理解には、まだまだ、ほど遠い.

『中国の思い出 1(春秋・戦国時代の万里の長城)』ー日本料理店で一期一会の方と「放牧民族と農耕民族境界の長城」を見るー  

2020-05-10 20:40:50 | 外国

『中国の思い出 1(春秋・戦国時代の万里の長城)』

ー日本料理店で一期一会の方と「放牧民族と農耕民族境界の長城」を見るー

 

 北京への商用出張時に、シンガポールからのフライトの都合で土曜日の夕方に北京に入り、ゆっくりと日本料理店のカウンターで食事をしてますと、偶然となり合わせになった方から、明日の日曜日には、ハイヤーの相乗りで八達嶺長城に,ご一緒しませんかとお誘い頂き、二つ返事でお受けして、お陰様で、念願の『放牧民族と農耕民族』境界の長城を見ることができました。 

 

八達嶺長城(これは明時代の万里の長城です。)
 ウキペディアより引用

 万里の長城と言えば、秦の始皇帝が、初めて造ったもの、いまの完成した状態になったのは明の時代と言われます。 さらに、噂スズメは、こうも言います。 世界三大無用の長物として、万里の長城、大ピラミッド、戦艦大和を世界で認識されているそうですが、大和や武蔵って、そんなに無駄な物だったのでしょうか? 漫画の『紺碧の艦隊』のようにすべきだったのでしょうか? ともかく、あとの二つは、『後世に大変な外貨稼ぎをしている、エジプトの大ピラミッド』と、『騎馬民族の侵略を、失敗もあったけど、長い間に、何回も、未然に防いだ万里の長城』は、かなり役に立ったのではないでしょうか?

 

春秋・戦国(BC476-221)の時代の長城  
 七雄が並立した戦国時代は、長城もそれを象徴した配置になっており、自国自身を隣国から守りながら、匈奴に対しては、周囲の国とも連携できる。


 ウキペディアより引用

春秋時代万里の長城(紀元前770年~476年)
 この時代に長城は初めて築かれたといわれ、その当時、現在の中国の東ないしは中央部の地域に支配国があったとされています。 この地域を守るために城壁が築かれ、それが万里の長城のような造りのものでした。 しかし規模は小さかったようです。 最も早いものは紀元前650年頃に魯と斉国の間に造られました。 そしてそれは後に楚国の一部になりました。 

戦国時代の万里の長城 (紀元前475年~221年)
 領土と権力のために争いを起こすとき、周の王の影響力が衰えていました。小さな国は戦国時代の初めまでに7つの大きな国(楚、斉、魏、燕、趙、秦、漢)を築くため統治者によって吸収されました。 それぞれの国は小さな長城のような自国の防護壁を作りました。 秦(Qin)、魏(Wei)、燕(Yan)、趙(Zhao)の城壁は、上の地図をごらんください。 

 群雄割拠の春秋戦国時代ですので、趙(ZHAO)は単独での防衛は困難であったと思われます。 『趙・匈奴の戦い』紀元前256年に趙の名将の李牧が匈奴の大軍に大勝した戦い。 匈奴の小隊が偵察に来た時、李牧は数千人を置き去りにして偽装の敗退を行い、わざと家畜を略奪させた。 これに味をしめた匈奴の単于が大軍の指揮を執ってやってきたが、李牧は伏兵を置き、左右の遊撃部隊で巧みに挟撃して匈奴軍を討った。 結果、匈奴は十余万の騎兵を失うという大敗北に終わった。 その後、さらに「代」の北にいた東胡を破り、林胡を降したため、単于は敗走した。 当時、匈奴は十余万の騎兵を、動員統率できたか興味は尽きません。 

 この時代の趙王である武霊王は、異民族の騎馬隊と服装に目をつけて自国の臣下達や兵士達に、異民族が着ている服を着せて、騎射を行うように命令して騎馬隊を作り上げます。 この制度を「胡服騎射」といいます。 この制度をきっかけにして中国の人々が徐々に馬に乗る文化が出来上がります。 しかし戦いにおいては歩兵や戦車の技術が向上していたので、他国はあまり騎馬隊というものを作りたがりませんでした。

 また武霊王が騎馬隊を作り上げた時の中国の諸国は、この馬に乗る文化は異民族の文化で、文明を持っている中華の人間は、胡服を来て馬に乗るものではないとの理由や、馬を育成するのに多大な費用がかかることから、騎馬隊はあまり他国で作られることなく従来通り戦車や歩兵、弓兵を中心とした戦いが、繰り広げられて行くことになります。
 
 余談です。ずっと後の時代ですが、日本で最強の騎馬軍団は、有名な、長篠の戦い、鉄砲隊VS武田の騎馬軍団ですが、騎数9,100頭余でした。 対して織田・德川連合軍の鉄砲隊は、3,000丁(1,000丁の三段撃ち)と言われるが、実際はこの半分と思われる。 匈奴は、紀元前に十余万の騎兵動員とは、スケールが違います。 

 まず、武霊王の時代では胡の服を来て馬に乗って、騎射を行っておりました。 その為、騎馬隊の主な攻撃方法は馬に乗って馬上で弓矢を敵に向かって射る攻撃方法が一般的でした。

 この攻撃方法を行うにも血の滲むような訓練をしないとできなかったと思われます。 また剣や矛を裸馬に乗って振り回すのは、馬上で踏ん張りが聞かないためほぼ不可能な攻撃方法でした。 もしかしたら超人的な古代中国人の幾人かは馬上で矛を振り回して戦っていた可能性が、あると思いますがほとんどの兵士や将軍は馬に乗って弓で攻撃を行う方法が取られておりました。

 ここで気になったのが馬上で使い易い『弩』、これを使いこなしたのは、前3世紀末より約5世紀間にわたってモンゴリアに繁栄した遊牧騎馬民族。 周の記録に見える遊牧民族獫狁(けんいん)の子孫であろうといわれているが,確証はない。 しかし匈奴はすでに中国の戦国時代には,オルドスを根拠地として盛んに燕,趙,秦の北境を侵していた。スキタイに発生した騎馬戦法を東アジアにもちこんだのは彼らで,従来馬にひかす戦車と歩兵とによる車戦,歩戦をもっぱらにしていた中国人は,彼らより騎馬戦の技法を学んだのである

 弩(ど、いしゆみ、おおゆみ)は、東アジア、特に中国において古代から近世にかけて使われた射撃用の武器の一種。 「いしゆみ」と読むことも少なくないが、これは厳密には正しくはなく、石弓と混同されたものと思われる。 

 秦は、趙が匈奴の弩で武装した軽騎兵に攻められたのは知っていたでしょうが、匈奴のような騎兵を、簡単にはつくれなかったのは、いい馬が手に入らなかったのではないでしょうか。

 紀元前4世紀頃から中国は遊牧騎馬民族の侵入を受け続けた。 動作が機敏で頑健な北方民族の騎兵に比べ漢民族の使う馬は痩せて非力な馬が多く、重装した兵士が跨って戦う事ができなかった。 紀元前2世紀初めの匈奴との戦いでは漢民族側の騎兵は10万頭の馬を失い、強く健康な北方の馬を手に入れることが防衛の要と考えられるようになった。

『放牧民族と農耕民族』は、万里の長城を挟んで、攻防を続けますが、農耕民族側が、いい馬を手に入れられるかが、攻防のキーファクターあったようです。
                             (20200510纏め #163)

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『台湾の思い出 1(ふたつの故宮博物院 台北と北京(1)』ー中国4,000年のお宝を最後の所有は清朝の(ラストエンペラー)宣統帝溥儀ー      

2020-05-06 22:37:05 | 外国

『台湾の思い出 1(ふたつの故宮博物院 台北と北京(1)』

ー中国4,000年のお宝を最後の所有は清朝の(ラストエンペラー)宣統帝溥儀ー

 

 日経(20200425)文化欄の宮内勝典氏の記事『台湾の思い出』に、こんな表現がありました。 『台湾は長いこと日本の植民地にされていたから、きっと日本人は憎まれているだろうと覚悟していた。 ところが、まったく意外なことばかりだった。』と。 自分も、日本からの数回の商用出張、駐在地香港の取引先を台湾への招待旅行のご案内、さらに現地法人設立の準備の長期出張等、台湾には延べ日数でおよそ二年弱の滞在になりましたが、この表現には、まったく同感です。

 台湾に住む人々を、一口に台湾人というが、主な人種は先住民族が1.7%、福佬人(ホーロー人・福建人系)が73.3%、客家人が12%、外省人が13%となっており、福建人系が、4分の3弱で、従来の理解通りでした

 台湾と言えば『国立故宮博物院』ですが、北京の故宮・紫禁城には『故宮博物院』があり、台北故宮と北京故宮の『ふたつの故宮』博物院があります。 最近の情報では、2015年12月29日に故宮南院が完成しており、今では『みっつの故宮』になっています。 、

 紀元前16-11世紀の殷から、紀元前12-8世紀の西周、7-10世紀の唐、10-12世紀の北宋・遼、12-13世紀の南宋、13-14世紀の元、14-17世紀の明、17-20世紀の清、の間、およそ4千年の中国歴史の秘宝・文化遺産が歴代の王朝の変遷の中で、引き継がれ、保存・所蔵されてきたことに驚きます。

台北故宮博物院の参観は十分タフですので、途中腹ごしらえができます。 中華料理・軽食なんでも!
 ❶故宮晶華;
広東料理をメインに中国各地の料理を巧みに取り入れたメニューの数々
 ❷三希堂
「えび餃子」や「カニみそ蒸しシュウマイ」など点心メニューやスープ
 ❸間居賦
コーヒーや中国茶、ジュースといったドリンクや、ケーキやクッキーなどのスイーツがメイン
 ❹富春居
  ランチセット・サンドイッチなどの軽食にケーキやパイといったスイーツ

 

故宮博物院には、珍しい宝物があります。

翠玉白菜(清時代)・19世紀・重要文化財(ウキペディアより引用)
 

 

肉形石(清時代)・17世紀・重要文化財(ウキペディアより引用)
 

 

廬山高図(沈周作・明時代)・1467年・国宝(ウキペディアより引用)

 

山徑春行図(馬遠作・南宋時代)・13世紀・国宝(ウキペディアより引用)

 


 クビライ像(李貫道作・元時代)・約1271年 - 1294年頃・国宝(ウキペディアより引用)
 

 

蟠龍紋盤(殷時代)・約前14世紀 - 前11世紀頃・国宝 (ウキペディアより引用)
 

 故宮の宝物の変遷・流れを、ウエブ情報から抜粋しました。 この変遷と流れに、反省も含み、親近感を覚えます。

❶歴代の中国の皇帝たちがお宝を作らせ、集め続けてきた。
❷これらの中国4,000年のお宝を最後に持っていた皇帝が、清朝の宣統帝溥儀(ラストエンペラー)。
❸中国最後の王朝「清」から、アジア初の共和国「中華民国」になった時、宝物は盗まれそうになった。
❹中華民国が正式な手続きを踏んで、中国最後の清王朝から引き続いだ。
❺北京の故宮から離れる宝物 原因は日中戦争だった。
❻最後 第二次国共紛争で宝物は台湾に。

 辛亥革命により清国が消え、日中戦争勃発により文物の避難が始まるが、やがて国民党と共産党の国内紛争の中で、さらに迷走し、台湾省へと海を渡る。 中国から来た人々を「外省人」と呼び、もともとからの台湾人を「本省人」と呼ぶ。 台湾国内の政治は博物館建設にも影響を与え、民進党と国民党の政争に巻き込まれる。 質の台北故宮、量の北京故宮の意味がよくわかった。

 その歴史は蒋介石の意志によるところが大きそうです。中華思想を体現する宝物として、文化資産が北京から出て、南京そして中国各地を転々とし、国民党軍の台湾への退却に伴い、船に載せ海峡を越えて台湾に運び込まれる!日本軍、中共軍との戦いの中で、良くあれだけの資産を損傷することなく、運び込んだという執念に驚きです。 蒋介石にとっては三種の神器のようなものだったように思います。 そしてこの2つの故宮の合体が今では大陸・台湾の和解という政治的な意味合いを持って語られることに歴史の皮肉を思います。 元の黄公望という書家の風景画「富春山居図」という長大な絵巻の作品が焼け残って台北と杭州の博物館に分かれており2011年の文化交流として杭州から台北に片方が運ばれたというのは感動的な話です。 しかし中華思想は元々台湾の本省人にとっては迷惑なものでしかないのも理解できました。 人口700万人の島に200万人の本省人が49年に渡ってきたということは、考えてみれば恐ろしいことです。

 またまた余談ですが、毛沢東に主導された文化大革命で、多数の人命が失われ、また国内の主要な文化の破壊と経済活動の長期停滞をもたらしました。 これがふたつの故宮の文化遺産に、直接及ばなかったことは不幸中の幸いでした。 周恩来が、首相で居られたからと信じています。

 この故宮博物院には中華民国政府が台湾へと撤退する際に国立故宮博物院(北平・熱河・瀋陽の三か所)から精選して運び出された美術品が主に展示されており、その数が合計60万件冊。(台北に運ばれた旧故宮博物院の文物は、器物46,100点、書画5,526点、図書文献545,797点で、国立中央博物院の文物は、器物11,047点、書画477点、図書文献38点で、両院合せて総計608,985点である。)

 北京の故宮・紫禁城は、何度か行ったことがありますが、その城郭自体の大きさと、木造建築の大きさ・棟数の多さに、ただ驚くばかりでこの故宮・紫禁城内の故宮博物院は、残念ながら、訪問は出来ず仕舞いでした。 一方、台北故宮博物院は、展示品の多くは通常数カ月ごとに替えることになっており、60万点もある収蔵品は一回りするのには数年かかるだろう。計画なしに行って、狙いの名品に出会えることは、奇跡に近いと。

 この60万点ですが、次のように言われています。 ウエブ情報です。
数量では北京の故宮博物院(紫禁城)ですが、文化的価値でいえば、台湾の国立故宮博物院のほうが見応えがある、と言われています。 清王朝の宝物は、辛亥(しんがい)革命により清朝が滅んだ後、中華民国政府により保存されることとなりましたが、満州事変や日中戦争などのときに、略奪から守るため、南京や上海など中国各地に分散し秘蔵されてきました。

 その後、第二次大戦後の国内の内戦が激化したとき、国民党の蒋介石がこれらの宝物を台湾へ運ぶよう指示し、1949年までに全体の約25%に相当する宝物が台湾へ運び出されました。 この運び出しに当たっては、特に文化的価値の高いものから優先されたため、重要な宝物のほとんどは、現在、台湾の「故宮博物院」に移されてしまっています。 したがって、北京の故宮博物館は「建造物以外には価値の高い宝物は少ない。」と言われています。

 中国4000年の歴史の『みっつの故宮』の文化と宝物はの、今後、できる限り調べ続けて、行こうとあらためて思いました。
                         (20200505纏め #162)

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