知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

興味のあることは、何でも調べて文章にする。   写真は「光と影」と言われるが、この理解には、まだまだ、ほど遠い.

『李香蘭の名前と、米国日系紙の記事と、過去分のデジタル化と!』 「フーヴァー研究所は、海外で発行された日系新聞デジタル化を!」

2021-11-23 15:03:15 | 歌・音楽・歌手

『李香蘭の名前と、米国日系紙の記事と、過去分のデジタル化と!』

「フーヴァー研究所は、海外で発行された日系新聞デジタル化を!」

20211121付日経新聞文化欄に、川崎賢子氏の見出し『李香蘭 日経紙のスクープ』と載っていました。 川崎氏の著書には『もう一人の彼女 李香蘭/山口淑子/シャーリー・ヤマグチ』(岩波書店)がありました。

ウキペデイア情報から引用

 

ウキペデイア情報から引用

李香蘭さんの波乱万丈の人生の内容でしたが、読んでいるうちに、この表現が気になりました。 『研究者にとって、コロナ禍による打撃は、調査旅行ができなくなったというだけではない。 国会図書館や大学図書館の利用にも制限が設けられた。 たよりになったのは、コピー郵送システム、そしてウェブ上で公開されているデジタル・アーカイブである。 

日本国内の図書館や公文書館では、デジタル化がなかなか進まない現状がある。 ところがアジア歴史資料センターという、「アジ歴」で親しまれるアーカイブがある。 国立文書館、外務省外交史料館、防衛相防衛研究所からの文章の提供を受けデータベースを構築して公開している。 その「アジ歴」にスタンフォード研究所の資料がリンクすることになった。 フーヴァー研究所は、海外で発行された日系新聞のデジタル化を精力的に進めている。 海外の日系新聞は、日本人の越境や移動を知るうえで貴重な資料である。』と、

川崎氏の、『知りたいのは、三つの芸名で中国、日本、ハリウッドで活躍した女優の消息だった。 その名は、戦時下の満州映画協会や上海租界の映画界そして香港映画では李香蘭、戦後日本では山口淑子、ハリウッドではシャーリー・ヤマグチという。 

戦時中に「日本語が上手で日本びいきの中国人女優』を装うことを強いられ、李香蘭の芸名で政治に翻弄された彼女の苦悩については、劇団四季がミュージカル「李香蘭」で上演した。 戦後、本名の山口淑子で日本映画界に再デビューし、ハリウッドにわたり国際派女優として知られた。 芸能界を引退後は参議院議員も務めた。 2014年94歳で世を去るまで、波乱万丈の人生であった。

その彼女の足跡が、日系新聞資料に残されていたのである。 一つは「新世界朝日新聞」いま一つは「日米新聞」。 長谷川一夫と共演した「白蘭の歌」「支那の夜」「熱砂の誓ひ」等も、かの地でも人気を博していたことが知られる。 が、それだけではない。 プロパガンダのために伏せられていたはずの李香蘭の素性を暴露する記事が掲載されていたのである。』とありました。

1941/02/11、当時に日劇で「歌う李香蘭」というショーのチケットを求めて、日劇を7周半も取り巻き消防車も出動した。 当局ににらまれて「日本の劇場に立つのであれば技芸証が必要」だと言い渡された。 李香蘭じつは日本人・山口俊子という暴露記事となった。

更に、『サンフランシスコの「日米新聞」は「私は日本人ヨ、満州国・銀幕の女王・李香蘭は純粋の大和撫子とは判明」というスクープを飛ばしているのではないか。

海外の日系新聞のデジタル化情報が、『李香蘭/山口淑子/シャーリー・ヤマグチ』の、神話の再生産になったのでしょうか。 『「銃後皇国民として再出発する満映スター李香蘭」、じつは佐賀県出身の山口俊子さん』の記事にいたっては、極秘の戦略はいずこへ?と、かえって謎が深まる。

デジタル化後進国の日本に驚くのは、現行の新聞のデジタル化・ペーパーレスが行き詰っている中で、過去分の新聞業界のデジタル化・ペーパーレスにいたっては、前途多難とわかりました。

(記事投稿日:2021/11/23、#429)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『奈良のこと 3.2(飛鳥・白鳳彫刻の爛熟期の傑作、微笑少ない世界に)』 『半跏思惟像・国宝「如意輪観世音菩薩」モダンな微笑はどこから』

2021-11-22 13:35:48 | 旅行

『奈良のこと 3.2(飛鳥・白鳳彫刻の爛熟期の傑作、微笑少ない世界に)

『半跏思惟像・国宝「如意輪観世音菩薩」モダンな微笑はどこから』

「中宮寺」世界三大微笑のひとつ「国宝・木造菩薩半跏像」の微笑みに魅了される。 これほどの美しい仏像は写真ですが始めてみました。 国宝第1号も、即納得です

ウエブ情報から引用

世界三大微笑像の1番目、「弥勒菩薩半跏思惟像」(みろくぼさつはんかしゆいぞう)で、日本の国宝第1号です。 飛鳥時代から奈良時代にかけての作品が多く、日本には大陸から6世紀から7世紀の弥勒信仰の流入と共に伝えられました。 その像は日本に一つだけではなく、京都府京都市にある広隆寺の「宝冠弥勒」や奈良県 中宮寺「木造菩薩半跏像(伝如意輪観音)」が国宝として知られています。 この他にも東京国立博物館や寺院、美術館などに安置されています。

「宝冠弥勒」の右手の中指を頬にあてて物思いにふける姿は傑作とされ知られています。『日本書紀』(720年に完成)に記されているのによると、推古天皇11年(603年)、聖徳太子から譲り受けた仏像、または推古天皇31年(623年)新羅から請来された仏像のどちらかがこの像に当たるのではないかと言われています。 

 

半跏思惟像は、インドや中国、朝鮮半島に多数残っています。 日本で流行するのは、飛鳥・白鳳文化のころで、奈良時代になると急速に衰退したといいます。 七世紀を中心に流行した大変古代的な仏像の姿であると言われます。

 

半跏思惟像は、仏像の一形式で、台座に腰掛けており、足は、左足を下げ、右足は足先を左太ももにのせて足を組み、手は、折り曲げた右膝頭の上に右肘をつき、右手の指先を軽く右頰にふれて思索する(思惟)姿の弥勒菩薩像(みろくぼさつぞう)のことです。

 

中宮時のご本尊である国宝・木造菩薩半跏像は、材質はクスノキ、像高132.0cm(左脚を除く坐高は87.0cm)です。 寺に伝わる伝承では、「如意輪観音(にょいりんかんのん)」と呼ばれていたとされています。 当初は弥勒菩薩像として造立された可能性が高いとされています。 また、国宝指定の際の呼び方は「木造菩薩半跏像」となっています。

 

全身が艶のある黒っぽい色になっていますが、足の裏などにわずかに当初は彩色され、別製の装身具を付けていたと思われる痕跡が残っています。 経年で彩色が失われ、現在の色になったようです。この落ち着いた色合いが、やさしい微笑みにあっているような気がするので、当初のお姿が想像できません。

 

文献上の始めて登場するのは、建治元年の『太子曼荼羅講式』で、同書に「本尊救世観音」とあるのが本像にあたると考えられていいます。それ以前の伝来は不明となっています。 制作時期については、飛鳥、白鳳の諸説があるようです。 少し細かく見ると、中宮寺の像には、飛鳥期の仏像の様式と、白鳳期の仏像の様式が混在するのだそうです。

 

頬にそっと指をあてて思惟している姿と、浮かべる微笑みが美しく、特にファンの多い仏像で、この微笑みを見ようと何度も訪れる方も多いようです。 本尊・国宝木造半跏思惟像(如意輪観世音菩薩)を守るための本堂の全面修理が完了しています。 この時、国宝木造半跏思惟像には何も処理をしていないとのことですが、何度も目にしている参拝者は、国宝木造半跏思惟像の雰囲気が違って見え、磨き上げられた。

 

世界三大微笑像の2番目、モナリザ

「謎の微笑」と言われレオナルドダヴィンチが描いた絵です。 現在はルーブル美術館に保管、モナリザは角度によって、見え方も変わるのでマジックがかかっているかのようです。 天才と言われるレオナルドダヴィンチも巧みな技法を使ったのでしょう。

 ウエブ情報から引用

 

世界三大微笑像の3番目、スフィンクス

古代エジプトの古王国時代に一枚岩から作られた石像で、カイロ郊外、ギザのギザ台地の三大ピラミッドのそばにあります。 スフィンクスとは、エジプト神話やギリシア神話、メソポタミア神話などに登場する、ライオンの身体と人間の顔を持った神聖な存在あるいは怪物です。

埋没していた時代のスフィンクス(デビッド・ロバーツ画、1838年)  ウエブ情報から引用

 

この時代ライオンは「聖獣」とされていました。 そこからライオンはスフィンクスとなりファラオ(エジプトの王)を守護神となったと思われます。 紀元前2500年頃、第四王朝カフラーの命令により、第2ピラミッドと共に作られました。 スフィンクスの前足の間から発掘された碑文の最後に「Khaf」の文字があったことから、カフラーが命令したのだろうと想像できます。

 

スフィンクスの微笑は、王様を守るために表情を顔に表わすことなく、常に冷静でなければならない、そんな感じの表情に見えます。

 

微笑のチカラとは

世界三大微笑像は、なぜこんなに人々を魅了するのでしょう。 場合によっては、今起こっていることに対して「微笑」をみると涙が出そうになるくらいの気持ちになっていくと思います。

微笑は、カウンセラーやセラピストの役割があると思えます。 その微笑を見たくて、拝見し「もう少し頑張ろう」と思えることが微笑のチカラです。

 

世界三大微笑像は写真でもその微笑は効果があります。 じっくり見ているとカウンセラーやセラピストにもなってくれそうです。 そんな微笑の表情ではないかと思いました。

(記事投稿日:2021/11/22、#428)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『インパクト時の呼吸 3(野球界、ベーブvs イチロー vs 大谷)』 『「永遠の野球少年」「異次元のヒーロー」とか、いろいろ言うが』

2021-11-21 08:34:05 | スポーツ

『インパクト時の呼吸 3(野球界、ベーブvs イチロー vs 大谷)』

『「永遠の野球少年」「異次元のヒーロー」とか、いろいろ言うが

『この記事の最初の投稿日は2019/06/09、凄い大谷二刀流の軌跡』

 

子供ファンに囲まれる大谷翔平選手

ウエブ情報から引用

米大リーグで今季、ベーブ・ルース以来103年ぶりの「2桁勝利、2桁本塁打」に挑んだエンゼルスの大谷翔平選手(27)。 今季の登板は終わり、自身初の10勝には届かなかったが、23試合に投げて9勝2敗の成績を残した。

 

11月19日、MLBは21年度のMVPを発表。 エンゼルスの大谷選手のMVP受賞が満票で決まった。 日本人では01年のイチロー以来の快挙となった。 今季の大谷は野手として、155試合に出場し、46本塁打、100打点、打率.257と、投手としては9勝2敗、防御率3.18、130回 1/3、156奪三振と、異次元というべき数字を残していた。 そしてイチローの01年の成績は692打数242安打、8本塁打69打点、打率.350、56盗塁と、首位打者、盗塁王、新人王は同時受賞をしていた。

 

スポーツジャーナリストの声・異次元の証明が、これです。 『ショウヘイは完全なベースボール・プレーヤーだ。 100マイル(約161キロ)を超えるボールを投げ、100マイルを超える打球速度で400フィート(約122メートル)以上の飛距離を打つ』と。

 

この大谷選手は、『永遠の野球少年」、「武士の中の古武士」、「世界中の少年の憧れのスーパーマン」とも例えられそうですが、この4年の間の苦難(投げられなかった2019年、投打とも不完全燃焼の2020年)と、凄まじい精進と、努力を再認識したいと思います。  更に驚くべきことは、2021年の成績さえも満足していないという発言もありました。 まさに異次元の世界です。

 

日本JBLの成績(4年間通算)

          登板 勝利 敗北 防御率  打数    安打 打率  本塁打

2013~2017  85     42     15     2.52 1,035   296   0.286  48

 

米国MBLの成績

      登板 勝利 敗北  防御率 打数   安打 打率 本塁打

    2018    10    4       2       3.31    326    94    0.285    22

  2019    -  -      -    -       384   110   0.286    18

     2020      2     0       1     37.80    153     29   0.190      7

     2021    23     9       2       3.18    537   136    0.257   46

 

『大谷翔平ならベースボールを変えた「偉大な5人」に入る』と、報知新聞社の

 2021/11/20 の報道です。 スポーツ報知/報知新聞社 大谷翔平(ロイター)

 

大谷の大活躍は球史にどう位置づけられるのだろうか。米大リーグの歴史に詳しいヒルマニアは、5本の指に入る偉大さであり、ベースボールを変える出来事だと指摘した。

 

米国民はいつの時代もランキングを作るのが大好きな人種である。 2004年に発刊された2674ページにもわたる大著「トータルベースボール」には、米大リーグの重要な100人を独自に選出している。それによると

〈1〉ベーブ・ルース(通算714本塁打を放ち、球界に本塁打ブームを巻き起こした)

〈2〉ジャッキー・ロビンソン(黒人など人種の壁を破った選手)

〈3〉アレキサンダー・カートライト(野球の規則を作った人物)

〈4〉マービン・ミラー(選手会理事長として労使交渉のリーダーシップをとって地位           向上に貢献)

〈5〉ブランチ・リッキー(ファームシステム確立&前記ロビンソンの登用)となって           いた。

 

当時メジャー4年目のイチローは56位、野茂英雄は入っておらず、逆に日本球界で通算868本塁打を放った王貞治が71位に入っていた。

その後の球界で彼ら上位5人に食い込むような人物は現れなかったが、今年の大谷翔平は旧来の先発投手の概念を変えた。過去、6例しかなかった先発登板時にDHを解除して打席に入ったのが19試合(他に交流戦でナ・リーグ本拠地で1試合)。それに加え登板翌日にもDHとしてフル出場。9勝を挙げた一方で合計46本塁打に26盗塁をマーク。リーグ最多の8三塁打だけでなく、アグレッシブなランニングでユニホームを汚しながらの数々のプレーは、野球少年がそのまま成人したような、ベースボール本来の“打って投げて走って”を実践した。

 

ただ、投打二刀流で比較されるルースは登板中を含め1918年に計781イニング、翌19年には計1100イニングもグラウンドにいたが、大谷はわずか138回2/3だけ。この点だけマイナスポイントだが、実は投打で対戦した人数をカウントすると計1172 打席となる。この数字はルースの1042打席(18年)、1113 打席(19年)を上回っており、いかに多く投打で対決したかがうかがえる。

 

投手だけで考えると300回を超える投手はこの数字を超えるものの、1999年に271回1/3を投げたランディ・ジョンソン(Dバックス)の1183打席以来の数字になるのだ。

 

米球界にとどまらず、大谷は米プロスポーツ界からも注目を浴びて、AP通信選定の最優秀運動選手賞の候補にもなろうとしている。 今後、大谷を抜けるのは大谷しかいない。この活躍を何年も続けていけるようなら、前記ランキングの5番目に入ることも夢ではないだろう。

(ベースボールアナリスト・蛭間豊章)』

 

昨今、米国と日本、否世界中を明るくしてくれるニュースです。 経済効果が,『どうのこうの』という現実から少し離れて、異次元の大谷選手に、来シーズンも『大リーグ』での大活躍を見させていただきましょう。

(記事投稿日:2021/11/21、#426)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『記紀1300年 神話と史実のはざま(このテーマが日経新聞に)1』 ―初代神武~15代応神までは神話の時代、16代仁徳以降は実在!-

2021-11-17 06:05:36 | 歴史・日本

『記紀1300年 神話と史実のはざま(このテーマが日経新聞に) 1

―初代神武~15代応神までは神話の時代、16代仁徳以降は実在!-

日本書紀・30巻+系図1巻が39年かけて完成したのは720年。 その8年前・712年に古事記・3巻が4カ月で成立した。 奈良県では記紀1300年を記念して『記紀・万葉プロジェクト』と銘打ち9年間にわたり多彩なイベントを展開している。

日本語の元の大和言葉に漢字を取り込み、平仮名・片仮名をも創作して、今ではカタカナ語で、英語・仏語・西語などの外国語も取り込んでいます。 言語・言葉は進化していると言われますが、韓国・マレーシア・タイ・インドネシアでは、漢字(表意文字)はやめて、元の表音文字に戻っています。

昔は学校でも詳しくは教わらなかった日本の古代史ですが、『八百万の神のこと』、『天皇制のこと』、『日本語(文字なしの大和言葉、神代文字、伝来漢字、平仮名、片仮名など)のこと』等々を思うにつけ、最近のカタカナ語の氾濫などの、今の世相を見ていますと『温故知新』の大事なことを痛感します。

最近、やっと脚光を浴びていています。 縄文・弥生時代も含め、日本史古代のことが、どんどん解明されることが楽しみです。 例えば、 

  • 中国の魏志倭人伝(中国の歴史書「三国志」の「魏書」第30烏丸鮮卑東夷伝倭人条の略称)まで載っている邪馬台国のことや、卑弥呼のこと。

ウキペデイアから引用 

  • 初代神武~15代応神までは神話の時代、更には、北九州王朝説や出雲王国のこと。
  • 21代雄略天皇の九州平定と、その後、天皇の実質的な祖先とされる、26代継体天皇から1500年も、奈良―京都―東京を都に、現在まで続いた天皇制。
  • 神話の時代から、実質的な祖先とされる、26代継体天皇から1500年も、現在まで続いた天皇制は70数回の遷都を繰り替えした。
  • 遷都も、70数回と天皇崩御に関連しますが、崩御した場所からは、別の場所に遷るという死生観にもあるように考えられます。

テレビ番組のドラマでも、ドキュメンタリーでも、取り上げられるのは、中世(鎌倉時代から織豊時代以前)または、近世(織豊時代以降)が多かったようです。 やはり興味が尽きないのは、天皇制を含め、古代です。 

その古代は紀元前700年ごろから紀元後700年ごろまでの14001500年間、最大でその前後100年を加えた16001700年間です。  現在から1600年さかのぼると継体天皇の時代、1700年さかのぼると卑弥呼女王の時代です。

つまりこの国の歴史の半分以上です。 この古代を知ることには夢があります。

 ウエブ情報から引用

先ずは表題の『記紀1300年 神話と史実のはざま(このテーマが日経新聞に)』の『抜粋・引用』です。

『南九州・高千穂を出発して大和を目指す「神日本磐余彦尊(後の神武天皇)前に立ちはだかる強敵・長脛彦と決戦に臨む磐余彦尊の弓の先に金色の鴉(とび)が止まり、その輝きに敵は戦意を失った。 日本書紀が記す神武東征伝のヤマ場だ。

神武東征については、弥生~古墳時代に九州から畿内に人々が大移動した形跡が見当たらず、現在では史実ではないとみられている。 他方、倭の中心が九州北部から畿内に移ったのも確かで、記紀をどう解釈すべきかの議論は続く。』

ウキペデイアから引用

大和政権のルーツは渡来人の可能性が強いので、原住民や敵対する同族への優位性を示すために神話を作った可能性があります。 東征ついては評価が分かれています。 史実とは、無縁な作り話とみる説と、皇室が九州から東に移動して畿内に大和朝廷を開いたという史実を反映したものであるという意見もあります。

『日本書紀が完成したのは720年。 その8年前に古事記が成立した。 天皇家の正統性を示すために編まれた古事記が神話を軸に物語を重視する一方、国としての体裁を整えるべく初めて編纂された公式歴史書である日本書紀は、史実が神話や権力者の思惑と混然一体となっている。』

                                 古事記            日本書紀    

編纂時期・軌間      7124カ月       68172039

巻数             3巻           30+系図1巻   

和歌数           112首            128

形式        物語調・和化漢文        編年体・漢文

扱う時代     神話の時代が3巻中1巻     神話の時代は30巻中2

目的      国内向けに天皇家の正統性を   国外に向けて日本をアピール

性格        天皇家の正統性を       史実や神話が混然一体

『近年「神話と史実が再び曖昧にされつつあるのでは」との懸念を研究者らが口にする。 その土地ゆかりの神話や伝承で地域の文化や経済を盛り上げようとする動きが盛んになり、行き過ぎがないかを心配しているのだ。』

『昨年、百舌鳥・古市古墳群が世界文化遺産となった際には学術的には被葬者が特定されていないのに「仁徳天皇陵古墳」などと宮内庁の治定通りの名で登録された。』

『神話や伝承は含蓄に富む貴重な先人の遺産だ。 だが文化財は学知の積み重ねで価値が磨かれてきた。 その努力に敬意を払わず、歴史の真実性を軽視して話題性や経済性を優先するなら、それはご法度だろう。 日露戦争後、ナショナリズムの高揚の中で日本文化の独自性、優位性が強調され、歴史は国民道徳の教材となり、史実よりも神話や物語が優先された。』 

古代史初期は、倭国の平定(邪馬台国)➡出雲王国の国譲り➡大和王朝への流れであったように思えます。

 

倭国・邪馬台国(紀元1世紀から3世紀ごろ)

1世紀中葉になると、北部九州(博多湾沿岸)にあったとされる倭奴国(ここで云う国とは、中国で云う国邑すなわち囲まれた町のこと)の首長が、後漢の光武帝から倭奴国王に冊封されて、金印(倭奴国王印)の賜与を受けている。

倭国王は、大陸南朝の王朝に対しては倭国王もしくは倭王と称し、国内的には熊本県の江田船山古墳出土の鉄剣の銘文に「治天下獲□□□鹵大王」とあるように、王または大王、治天下大王(あめのしたしろしめすおおきみ)と称した。

 

古代出雲(紀元前1世紀から4世紀ごろ)

弥生時代からヤマト政権が成立する直前まで、出雲には「王朝」とも呼べる巨大な勢力が存在していました。したがって、考古学の成果からは「古代出雲の王朝の存在」と「その王朝がヤマト王権に取り込まれる形で衰退していく経緯」を少なからず肯定できるのです。

簡潔に言えば、大王と呼ばれた近畿地方の王が「前方後円墳」を頂点とする墓制を敷き、各地の王がそれに従うかたちで『ヤマト政権』が成立した、というのが一般的な理解なのです。

出雲西部の「荒神谷遺跡」や「加茂岩倉遺跡」から出土した大量の銅鐸や銅剣がこの地域の盛大さを物語るが、豊富な神話、各地からの大量の出土品、古墳の種類の豊富さから、この地域に古くから栄えた大きな勢力があったことは確実であるとされている。 

 

出雲国(投馬国)(紀元2世紀から紀元3世紀ごろ)

「出雲」という国名は歴史的仮名遣では「いづも」である。 古事記や日本書記に「出雲」の表記が見えるほか、須佐之男命が歌を詠む場面では「伊豆毛」(古事記)、「伊弩毛」(日本書紀)といった表記も使用されている。

 

大和朝廷(紀元4世紀から7世紀ころ)

隋書では、俀國は百済・新羅から東南、水陸三千里にあるとされ、その国の領域は、東西に五カ月で、南北に三カ月とされている。 607年に倭國王多利思北孤から派遣された遣隋使の使者が持参した隋への国書では、倭国王の表記を用いず、「日出處天子」と記している。 日本が発展する中で「倭」という文字は国名に相応しい意味ではないと気付き、それが理由となり「日本」という国名に改めていったという説が存在する。 その後、7世紀後半に至るまで国号の表記は倭国・倭のままであった。

 

その後、奈良時代の738年に表記は「大養徳」に改められた。 747年には元の「大倭」に改称。 その後、757年頃から「大和」に定められたとされる。平安時代以降は「大和」で一般化した。

 

国名に使用される「ヤマト」とは、元々は「倭(やまと)、大倭(おおやまと/やまと)」等と表記して奈良盆地東縁の一地域を指す地名であった(狭義のヤマト)。 その後、上記のように「大倭・大養徳・大和(やまと)」として現在の奈良県部分を領域とする令制国を指すようになり、さらには「日本(やまと)」として日本全体を指す名称にも使用された。

 

今後の課題は、古代史初期は、倭国の平定(邪馬台国)➡出雲王国の国譲り➡大和王朝への流れであったであろうとの夢を暫くは追いかけることです

 (記事投稿日:2020/11/15、最終更新日:2021/11/17、246

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『権大僧正・作家・瀬戸内寂聴氏と、哲学者・古代史作家・梅原猛氏を悼む』「私のつき合った梅原さんは、一口で言えば純粋無垢なロマンチスト」

2021-11-12 06:53:28 | 読書

『権大僧正・作家・瀬戸内寂聴氏と、哲学者・古代史作家・梅原猛氏を悼む』

       『私のつき合った梅原さんは、一口で言えば純粋無垢なロマンチスト』

  『「女子大生・曲愛玲」「花芯」で文壇デビューした瀬戸内寂聴氏を偲ぶ』

ウキペデイアから引用

昔、有楽町の阪急ビルのオフィスフロアで勤務していたことがあり、当時近くのA新聞社に友人が務めておりました。 事件記者ドラマのテレビ番組全盛時代でしたので、憧れの事件記者が紹介してくれたのが『梅原猛著 隠された十字架 法隆寺論』でした。 

 

先日、日経の文化欄に、瀬戸内寂聴氏の『梅原猛さんを悼む 純粋無垢なロマンチスト』という記事が載っていました。 

 

梅原さんは、京都に住んでいた寂聴さんを突然訪ねて、当時評判になっていた『地獄の思想』という本を差し上げた(寂聴さんはすでに読んでいた)。 この時、梅原さんは言った『あなたの書く小説も地獄のようなものばかりでしょう。 我々はいい友達になれますよ』と。

 

寂聴さんは、こう言っています。 『私のつき合った梅原さんは、一口で言えば純粋無垢なロマンチストだった。 その上に稀有の天才性を持っていた』と。

 

このお二人は、

先ずは、お二人の印象深い作家遍歴をウエブ情報からです。

 

梅原猛氏は、

1972年、47歳で『隠された十字架 法隆寺論』を刊行、法隆寺に建立に関する独特の解釈。 『隠された十字架 法隆寺論』(1972)で展開。 法隆寺聖徳太子一族の霊を封じ込め鎮めるための寺院とする説。 その中から、大胆な仮説を刊行して毎日出版文化賞を受賞している。 

 

48歳で『水底の歌 柿本人麻呂論』を刊行された。 これらの作品で、自分を含む一般の方々にも読まれ始めた。 柿本人麻呂の生涯に関する新説。 『水底の歌』(1972 - 1973年)で展開。 

 

『柿本人麻呂は低い身分で若くして死去した』という近世以来の説に異を唱え、高い身分であり高齢になって刑死したとする説。 正史に残る人物、柿本猨を柿本人麻呂とする。 梅原説の信奉者の有名人には井沢元彦がいる(ただし『水底の歌』が成り立たないことは『猿丸幻視行』に書いてある)。

 

司馬遼太郎とは長年の交友があり、司馬の作品である『空海の風景』の正直な批評を出したが、彼を激怒させて以来、二人は犬猿の仲となる。 その後は和辻哲郎文化賞の選考委員を互いに務めた縁で仲が直り、司馬の死去に関しては、追悼文も書いている。

 

司馬氏夫人もこの作品『空海の風景には、こう言っていました。(司馬氏の激怒がわかる。)

本作は生前の司馬が最も気に入っていた作品で、サイン本を献本する際にも必ず本作を用いたほどであり、そのため冨士霊園の「文學者之墓」(日本文藝家協会会員の共同墓)にも本作を埋葬したという。

 

瀬戸内寂聴氏は、

1956年『痛い靴』を『文学者』に発表、同年『女子大生・曲愛玲』で新潮同園雑誌賞を受賞。その受賞第1作『花芯』で、ポルノ小説であるとの批判にさらされ、批評家より「子宮作家」とレッテルを貼られる。

 

1988年に出した『寂聴 般若心経』は1年で43万部を売るベストセラーとなる。1992年、一遍上人を描いた『花に問え』で谷崎潤一郎省を受賞した。『源氏物語』の現代日本語文法訳でも、その名を知られている

 

ぼーっと生きていたら、気が付かなかった作家・梅原猛氏の著書に出会えたのは、有楽町界隈の洒落たスナックでA新聞社事件記者と、ご一緒できたからと、今でも、感謝しております。

 

記者には、大きく分けて新聞記者、雑誌記者、放送記者と呼ばれる3種類の職種があり、さらに新聞社では、当時は次のように別れていたようです。

政治部記者・社会部記者・文化部記者・経済部記者・国際部記者

 

この梅原猛著『隠された十字架 法隆寺論』を紹介されたとき『隠された十字架』のタイトルと、あの時代の聖徳太子とキリスト教を関連付けたところに驚きました。 それ以来、梅原氏の著書『塔』をはじめ、いろいろ読み漁りました。 

 

驚いた理由ですが、当時、奈良県明日香村岡にある『酒船石』は、麓から標高差、約30mの丘の上にあり、両サイドは、欠かれて、30-40%が欠損している。 片側は京都の野村邸に現存しており、今でも、知られる松本清張氏の「説」の拝火教の儀式用を思い出したからでした。

 (記事投稿日:2019/02/10、最終更新日:2021/11/12、#071)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする