知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

興味のあることは、何でも調べて文章にする。   写真は「光と影」と言われるが、この理解には、まだまだ、ほど遠い.

『武家政権を京都で創始した初代征夷大将軍足利尊氏と室町幕府』 『古代の邪馬台国・出雲・大和、と室町・南北朝時代で調べて天皇制の理解を』

2023-03-19 12:33:01 | 歴史。日本・中世

『武家政権を京都で創始した初代征夷大将軍足利尊氏と室町幕府』

『古代の邪馬台国・出雲・大和、と室町・南北朝時代で調べて天皇制の理解を』

日本史上の幕府のうち、鎌倉幕府の鮮烈さ、江戸幕府の堅牢さに比較し、その間の室町幕府は地味で安定しない印象が、否めず?

明治時代に天皇への忠誠心を煽る為に「足利尊氏は天皇に反旗を翻した、不忠の者」と宣伝、江戸時代にも徳川家の正統性を強調するのに利用された。

 

日本史の中で、南北朝・戦国・安土桃山時代へと、続く重要な時代にもかかわらず、最も難解だったのが『室町時代』! 理由は後醍醐天皇と足利尊氏を理解することの難しさでした。

 

南北朝時代の天皇系図(両統迭立で始まり最後は両統鼎立で終焉に)

両統迭立;鎌倉時代後半、後深草天皇系(持明院統)と亀山天皇系(大覚寺統)の両統から交互に皇位につくとされた皇位継承の原則。

ウエブ情報から引用

 

足利尊氏家系図(地味で不安定な室町幕府は意外に長く230年)

ウエブ情報から引用

室町幕府は1336年11月、足利尊氏が幕府の基本的法令となる「建武式目」を作成した時から始まり、3代将軍義満が、京都の室町に「花の御所」と呼ばれる大邸宅を造り、そこを中心に活動するようになったので、室町幕府と呼ばれ、1573年、15代将軍義昭の時に滅亡します。

 

一方、室町幕府の成立は1338年。 足利尊氏が征夷大将軍に任じられた事によって成立したと見られています。 1333年の鎌倉幕府の滅亡から5年後の事。 尊氏は、はじめ後醍醐天皇を助け、鎌倉幕府を倒すことに尽力しますが、後醍醐天皇による建武の新政が武家勢力を排斥したことから離反、自ら武家政権の樹立をめざします。

鎌倉時代は、初の武家政権とも言われますが、それ以前の政治体制を全否定した革命政権ではなく、多分に旧勢力と並存するバランスの上に成り立っていました。 その二元性から、朝廷一元化を目指したのが後醍醐天皇であり、武家一元化を目指したのが足利尊氏と言えます。

 

しかし、室町幕府の始まりの時期は、将軍家である足利氏そのものが一枚岩ではありませんでした。 幕府の発足直後に発生した『観応の擾乱』において、尊氏・直義兄弟による骨肉の争いが幕府方を二分してしまいます。 また、後醍醐天皇が開いた南朝の勢力が奈良の吉野を中心として全国に存在しており、政権が安定するには3代将軍、足利義満の時代を待たなければいけない状況でした。

 

室町幕府は不安定な状態が続いたのは、足利義満の時代に最盛期を迎えた室町幕府でしたが、その統治は不安定な状態が続く傾向にありました。 室町幕府が不安定だった理由、守護大名の力が強かったのです。 

 

鎌倉時代の守護は、赴任した土地の軍事を司る存在だったのに対して、室町時代の守護は南北朝時代の混乱を通して、その領地の政治までも担う存在へと成長。 このため、幕府はその領地は守護を通して支配する他なかった。

力を持ちすぎた守護大名を幕府が討伐し、三管領(細川・斯波・畠山)や四職(赤松・一色・京極・山名)といった制度を創設して、有力大名を相互に牽制させ、結局は有力守護大名の連合政権のような不安定な政権運営を続けた。

 

財源の問題、室町幕府の収入は足利家の所領であった『御料所』に依存していたのですが、この直轄地が少なく、また日本各地に点在、金額は決して多くなかったは。 また、将軍家の直轄軍である『奉公衆』の数も1万人前後と、圧倒的な軍事力を持っていなかった事も、室町幕府が不安定だった要因。

 

興味の尽きない足利尊氏と室町幕府と時代、今後の勉強のために、ウエブ情報の抜粋と引用を備忘録にしました。

 

室町幕府が滅亡した3つの原因
①直接の原因は、1573年に織田信長が将軍・足利義昭を京都から追放した事。 ただし義昭は毛利家が治めていた備後国に移り1588年まで将軍として在位していたため、この年を室町幕府の滅亡年とする見方もあります。

②間接的な原因としては、1467年から10年間に渡って続いた
応仁の乱の影響も見逃せません。 この戦争によって足利将軍家は二つに分かれただけでなく、結果として幕府やそれを支えていた守護大名の衰退も、室町幕府が滅亡した大きな原因。

 

③1493年に勃発した明応の政変、この出来事は、10代将軍であった足利義稙を管領であった細川政元や、前将軍足利義尚の母親であった日野富子がクーデターによって廃嫡し、11代将軍に足利義澄を就任させた出来事です。 こうした足利将軍家の内部分裂が、信長が1568年に足利義昭を上洛させる前には見られました。

 

室町幕府の始まりや不安定だった理由、そして滅亡の原因は、吉野の南朝の存在や観応の擾乱の勃発、滅亡の原因として挙げられる応仁の乱や明応の政変でも、将軍家が二つに分かれる状態が続いた室町幕府。 こうした失敗を学んだ徳川家康は、幕府の直轄地を増やし、大名統制においても抜かりありませんでした。

足利尊氏について

【北条氏への不信】 

1331年、父の貞氏の服喪中の尊氏は、執権の北条高時から笠置討伐の命を受け、上方に向かいます。 笠置は簡単に落ち、後醍醐天皇は隠岐に配流されました。

それから2年後の1333年2月、後醍醐天皇が隠岐を脱出して伯耆で兵をあげます。 その時尊氏は病気にかかっていましたが、またも出征の命を受け、北条高家とともに伯耆に向かうことになりました。

2度の事情を顧みない出征命令に、尊氏は北条氏に異心を抱いたといいます。1333年4月、尊氏は北条に対し公然と反旗を翻し、人質の妻子を鎌倉から脱出させます。 翌5月、尊氏は六波羅探題を攻め落とし、新田義貞は鎌倉を陥れ、北条氏が政権を担っていた鎌倉幕府が滅びました。

 

【建武の新政】

政権を獲得した後醍醐天皇は、まず内裏の造成に取り掛かります。 税を課したため民心を失い、恩賞は公家に重く武家に軽くしたため、武士たちを失望させました。 この時尊氏は、諸国から到着する武士の名を帳簿にとどめ、その労をねぎらい彼らの心をつかみます。 1336年、建武の新政に不満を持つ武士の集団を率いて、尊氏は入京します。そして後醍醐天皇を追い落とし、政権を奪取しました。 

 

【室町幕府】

尊氏は、持明院統の光明天皇を擁した後、施政方針として17条からなる建武式目を制定し、武家政権の基本姿勢を示しました。そして1338年、征夷大将軍に任命されると、弟の直義とともに政権を主導します。

尊氏は恩賞の給与や軍事指揮といった武士の統率者としての権限、直義は裁判、本領安堵といった統治者としての権限を持っていました。

 

【観応の擾乱】 

尊氏、直義兄弟によって運営された二頭政治は争いの時代を迎えます。その争いが激しかった時期が観応年間(1349年~1352年)であったことから「観応の擾乱」と呼ばれています。ちなみに擾乱とは内紛のことです。

1349年、足利家の家宰である高師直(こうのもろなお)が、直義の排除を尊氏に求めます。 尊氏はこの要求を入れ 、直義は政務を返上、直義派の上杉重能と畠山直宗は殺害されました。すると直義の養子、直冬が九州で一大勢力圏を打ち立てます。 これを討つために尊氏、師直が進発しますが、その留守中に直義は京都を脱して大和に入り、南朝に接近して尊氏追討の宣旨を得るのです。ここで兄弟の対立は決定的になります。

 

数度の決戦で尊氏、師直は敗れ、師直、師泰兄弟は上杉重能の養子、上杉能憲に殺害されました。 高一門の滅亡で直義の執政が再開されますが、その半年後、身の危険を感じた直義は京を出奔して鎌倉に入ります。 尊氏は南朝と講和を結び、自ら駿河まで出陣し、勝利しました。 捕縛された直義はその後死亡しますが、毒殺されたともいわれています。 一方、九州にいた直冬の勢力は、西中国に活動の場を移しました。1353年に南朝から尊氏の息子、義詮追討の綸旨を得ます。直冬は京都に入り、尊氏、義詮軍と戦いますが敗れて敗走。これにて観応の擾乱が終わりました。

 

【尊氏の死】

1358年4月、尊氏は京の二条万里小路の館で亡くなりました。死因は悪性の腫瘍だったといわれています。

 

武家文化の発展

【北山文化】

室町幕府の全盛期であり、文化の栄えた3代将軍義満から、その子義持の代にかけての約半世紀を、義満の弟にちなんで北山時代といい、その文化を北山文化といいます。 北山文化の代表的なものとして、北山第にある金閣が挙げられます。公家社会の阿弥陀浄土信仰、鎌倉時代から交流した禅宗信仰をひとつに融合した構造は、将軍と公家、禅宗との融合を表していて、まさに北山文化を象徴する建造物でした。 

 

義満は能の大成者となる、観阿弥、世阿弥親子を支援します。 世阿弥は貴人の好みに合うように、能を大成させました。 彼の理念とした「幽玄」は、情緒的、ロマン的な余剰を漂わせることでした。

 

【東山文化】

東山時代は、8代将軍足利義政が1443年に将軍についてから、1490年に亡くなるまでの約半世紀のことで、この期間の文化を東山文化といいます。 この時代は一揆が頻発し、京都では「悪党」と呼ばれる不満分子の跳梁、また全国では守護大名に分裂が起こり、やがてそれは応仁の乱を引き起こすことになるのです。 義政はこの社会情勢に目を向けることなく、東山山荘の造営に力を入れます。 山荘の中心は銀閣と東求堂です。 銀閣の完成は義政没年の前の年で、銀を塗る計画は間に合いませんでした。

 

東求堂は寝殿造りと書院造を含む構造で、義政はここにこもり、美術品のコレクションに励みました。この蒐集品を東山御物といいます。 東山時代には、禅の精神を融合させた侘茶や、生け花が創出されます。 また造園法では「枯山水」という岩と白砂で自然を表現する作庭がおこなわれました。竜安寺の石庭や、大徳寺大仙院庭園が有名です。

 

室町幕府を創った兄弟の争い

観応の擾乱とは、室町幕府創世記に起こった、足利尊氏とその弟直義の争いのことをいいます。 後醍醐天皇を追い落としてから始まった室町幕府ですが、当初は尊氏、直義の職務を分けた統治がうまくいっていました。 彼らは同腹の兄弟です。 それが一転、家臣や息子を巻き込んだ戦いは、互いに復讐合戦の様相を見せ、泥沼化していきます。

 

中公新書から『応仁の乱-戦国時代を生んだ大乱』という大ベストセラーがあります。 本書とあわせて読むと、室町幕府についての理解はよりよく進むでしょう。

 

足利将軍の政治

室町時代の寺院や大規模建築の造営をとおして、時の政治や朝廷との関係がわかります。 その一例として、『大塔』があります。 3代将軍足利義満は報国寺に大塔を建立しましたが、その高さはなんと100mもありました。 父義詮の法要のために建立したといいますが、それ以上に義満の権勢を誇るのに役立ったことでしょう。

大塔(相国寺の大塔、「塔マニア」には魅力たっぷりのアイテム)
金閣寺(北山鹿苑寺)で、室町幕府3代将軍足利義満が建立した「北山大塔」

 

室町幕府は鎌倉幕府と同様の武家政権から脱却し、公家社会まで支配下におさめるようになります。 そしてその支配は宗教界にもおよびました。 歴代将軍の大規模な法要は、幕府の権威を世に知らしめる場になるのです。 室町幕府の拠点は京都です。 この京都中心の政治が、後に地方の支配がおざなりになり、下克上の要因になっていきます。

 

暗殺された室町幕府6代将軍義教は、くじ引きで決まった将軍でした。 彼はいかなる政治をおこなったのでしょうか。そしてなぜ暗殺されてしまったのでしょう。 義教暗殺の「嘉吉の乱」までの史実を描きます。 僧から還俗して6代将軍になった義教の政権移行は、たやすいものではありませんでした。 当初は管領や重臣の意見をよく聞き、政策を進めていましたが、しだいに「恐怖の世」といわれるほどの強権政治になっていくのです。
 

室町幕府は意外にも長く、230年ほど続きます。しかし3代将軍足利義満時代が最盛期で、中期以降は一揆や応仁の乱、それに続く戦国時代など、ほとんど幕府の影響力がおよばない時代になっていきました。

京都に地盤を築いた室町幕府、その影響は、後に群雄割拠する下克上の時代を引き起こします。

 

昔、歴史教科で教わり、ずっと気になっていた『明治時代に天皇への忠誠心を煽る為に「足利尊氏は天皇に反旗を翻した、不忠の者」と宣伝、江戸時代にも徳川家の正統性を強調するのに利用された。(新規情報でした。)』このことを、これからも調べていきたいと思っています。

(記事投稿日:2023/03/19、#637)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『四大文明誕生は、大河川(水位変動が大きく、河床勾配が小さい)の近くで』『例外は古代アンデス文明カラル遺跡が、大河川なしで定住農耕・文字あり』

2023-03-11 10:31:57 | 歴史・世界・古代

『四大文明誕生は、大河川(水位変動が大きく、河床勾配が小さい)の近くで』

『この立地条件に合致のブラジルのアマゾン川には、古代文明は誕生せず?』

『理由は定住と農耕が発展せず、狩猟採集生活が維持され文字の発明もなし』

『例外は古代アンデス文明カラル遺跡が、大河川なしで定住農耕・文字あり』

 

 文明      河川     長さ   水源海抜   河床勾配 
エジプト     ナイル    6853㎞   1134
    0.02%
メソポタミア   チグリス   2850㎞   1150
    0.04% 
         ユーフラテス 2800㎞   3520m    0.13%
インダス     インダス   3200㎞   4500
    0.14%
中国       黄河     5464㎞   4800
    0.09%
         長江     6300㎞   5042
    0.08%

ブラジル     アマゾン川  6516㎞   5597    0.09%

 

ヨ-ロッパ中心の歴史は、古代文明の栄えた南北アメリカを、新大陸と呼ぶ。

 

古代文明

アフリカやアジアの大河の川ぞいでは、ゆたかな水をもとに農耕や牧畜が発達し、そのため文明が発達できた。 チグリス・ユーフラテス川、ナイル川、インダス川、黄河の流域の各地域で文明が発達していった。 この4地域での文明を四大文明と言う。 それぞれの文明を、メソポタミア文明、エジプト文明、インダス文明、中国文明という。

 

これらの四大文明では文字が使われていた。

世界最古の文明は、今から約5000年前のエジプトのナイル川流域におきた
エジプト文明と、西アジアのチグリス・ユーフラテス川流域におきたメソポタミ
ア文明であった。 ついで、今から約4500年前の今のパキスタンであるインダス川流域のインダス文明、今から約3500年前の中国の黄河流域の中国(黄河・長江)文明であった。
これらの4つの文明を四大文明という。

 

新大陸にもありました。 古代アンデス文明カラル遺跡です。

 

カラル遺跡(写真―1)   VS  大ピラミッド(写真―2)

紀元前: 3000~1800年頃        紀元前: 3000~1000年頃

総面積: 66ヘクタール         総面積:   180ヘクタール

推定人口:数万~十数万人        推定人口:数十万~百万余人

 

カラル遺跡(写真―1)

ウエブ情報から引用

 

比較するために、大ピラミッド(写真―2)

ウエブ情報から引用

 

カラル遺跡(パノラマ)

ウエブ情報から引用

 

カラル遺跡(中央部分)

ウエブ情報から引用

南米大陸、ペルー を中心とする 太平洋 沿岸地帯およびペルーからボリビア へつながるアンデス中央高地 に存在した古代アンデス文明。 メソポタミア文明・エジプト文明・インダス文明・黄河文明といったいわゆる世界四大文明などと異なり文字は持たない(初期の『キープ(結縄)』が数字と文字の機能を持っていた)。 今まで親しんできた、アステカ文明・マヤ文明・インカ文明(特に、古代アンデス文明)をもう少し調べてみたいと再認識しました。

(記事投稿日:2023/03/11、#636)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『古代の日本は・日本人は凄かった 1(文字なき時代の卑弥呼の謎)』

2023-03-10 23:28:37 | 日本・歴史・先史-古代

『古代の日本は・日本人は凄かった 1(文字なき時代の卑弥呼の謎)』

1万年以上にわたって、農耕なしで、採集・漁労・狩猟により定住した人々の生活と精神文化を伝える文化遺産が、世界遺産「北海道・北東北の縄文遺跡群」として登録されました。 その様なときに、センセーショナルなウエブ情報が目につきました。

 

東北大学名誉教授・田中英道監修、「卑弥呼、埴輪、縄文...、教科書から抹殺された日本史、3つの謎」

卑弥呼の“謎”

ユダヤ人埴輪の“謎”

日本人の起源の“謎”あなたは、

こんな歴史の“謎”をご存知だろうか?

ウエブ情報から引用

最も気になったのは『卑弥呼の“謎”』です。

「中国の歴史書「魏志倭人伝」に記された、日本史初の女王・卑弥呼。 「邪馬台国」を支配し、中国皇帝からも認められた「倭国の王」である。 しかし不可解なことに、卑弥呼に関する記録も、お墓も、日本では全く見つかっていない。


一国を支配するほどの権力者であれば、死後、地域の神社で祀られるのが普通だが、日本各地の神社にも、遺跡にも、卑弥呼が存在した痕跡が一切見当たらないのだ…(*日本では、聖徳太子や菅原道真、平将門など、国を直接治めていない偉人でさえも、鎮魂の祈りをささげるため、神社がつくられてきた伝統がある

 

また、“邪馬台国の人々の顔や身体には刺青がある”と「魏志倭人伝」には書かれているが、当時の遺跡や遺物をいくら調べてみても、刺青をしているような痕跡はほとんど確認されていない…

 

ちなみに、著者の陳寿という中国人は、実は日本に来たことはなく、伝聞のみ。 つまり“フィクション小説”として、この作品を記したようだが、一体、卑弥呼とは何者だったのか? 本当に邪馬台国は存在していたのだろうか?

 

今までは、歴史も歴史小説も戦国や幕末時代に興味を持っていましたが最近は、俄然古代史です。

・縄文の土偶(縄文のビーナスと遮光器土偶)、

・大和王権と出雲王朝の関係、

・大和言葉と漢文の融合、

・古墳時代の大規模古墳、

・聖徳太子の実像、

・二千年近くも続いた皇室、

・古代史からは外れますが、菅原道真の遣唐使廃止

等々、興味は尽きません。

 

次の既読著書を参考に、さらに下記情報も参考に、情報氾濫の昨今ですが、さらに調べていこうと思っていますが。 

・元首相の言、『歴史は歴史小説から学んだ』と、

・塩野七海氏と五木寛之氏の対談にあった、歴史上の人物の頭の中まではよめない。 だから著者は自由に想像できる、ほとんど

・昭和史発掘の松本清張、

・応仁の乱の評判、

・日本国紀のコピペ騒動、 

 

松本清張氏の『古代史疑義』『火の路』などありますが、『古代史疑義』は難解でした。 近く再挑戦です。

 

梅原猛氏の『梅原古代学』は著名です。 最初の衝撃を受けた著書が『隠された十字架 法隆寺論』、その二年後には『水底の歌 柿本人麻呂論』を発表、遺作が『葬られた王朝-古代出雲の謎を解く-』でした。

 

百田尚樹氏は『永遠の0』や『海賊と呼ばれた男』の著者で知られています。 最新の著書『日本国紀』がいろいろ議論されていますが、この著書の古代史部分に興味がありました。

 

先ずは、世界史の古代史の地域別区分です。 先史時代と歴史時代の区分は文献の存在有無とありますので、エジプトの初期王朝は、エーゲ海文明より古く、古代史に入るのではと思っています。

 

西洋史: 約3000年から約5000年前、古代ギリシャのエーゲ海文明の成立から、476年の西ローマ帝国の滅亡まで。

 

東洋史: 中国では、紀元前778年の秦王朝の成立から、220年の後漢王朝の崩壊まで。

 

日本史:  日本、縄文・弥生時代の後の562年の飛鳥時代(もしくは古墳時代)から12世紀末の平安朝後期まで。

 

中南米:  約3500年前の先古典期・古典期・後古典期から、15世紀に始まった植民地化まで。

 

縄文の土偶 縄文のビーナス

約4000年から5000年前といわれる、縄文時代中期のもの。 エジプトの大ピラミッドの時代に、日本でもこの豊かな表現力。

 

縄文時代の土偶:遮光器土偶

約3000年から4000年前と言われる東北地方から出土し、縄文時代晩期のものが多い。 この時代にこのファッション、ただ驚くばかりです。

 

大和王権と出雲王朝の関係

弥生時代の日本について書かれた記録は、『魏志』の中の「東夷伝・倭人の条」

とある。

 

先日(20190802)の日経文化欄に載っていました。 

キャプションは『音楽療法、江戸の昔から』です。 まさかと思うほど『昔の日本は凄かった・日本人は凄かった』にぴったりです。

 

光平有希氏の『音楽療法、江戸の昔から』の抜粋です。

音楽療法は、認知症や脳の疾患による後遺症の治療、発達障害の対応など医療現場に広く取り入れられている。 音楽を聴くだけでなく、患者が楽器を演奏したり歌ったりすることで、症状を和らげたり心身の発育を促したりする。

 

日本の音楽療法の起源については、1950年代後半、米国など静養の療法の模倣から始まったという捉え方が主流であったが、江戸や明治の文献『養生書』、『衛生書』に、音楽が心身に与える効能を指摘する場所が見つかった。 

 

江戸期を代表する養生書に、儒学者の貝原益軒の著した『養生訓』(1713年)がある。 益軒は『古人は詠歌舞踏して血脈を養う、身を動かし、気をめぐらし、体を養う』と記す。

 

同じ頃、医師の芝田祐祥は『人養問答』(1715年)でより具体的に『糸竹歌舞は鬱を開き、心を養い、気を巡らす良法なり』と書いた。 『糸竹』つまり三味線や筝。

 

19世紀になると、精神面と並行して、身体機能に音楽が作用を指摘した議論が現れた。 医師の八隅景山は『養生一言草』(1831年)で能楽の謡の発声が、呼吸機能の安定を促すとした。 

 

明治に入ると、東京音楽学校の神津仙三郎の『音楽利害』(1981年)は、『バイオリン演奏が手術時の鎮痛効果を持つ』『笛の音色が耳の神経系に作用し、てんかんなどの治療に効果があるという説。

 

東京府巣鴨病院の医長などを務めた精神科医の呉秀三は明治の終わりに音楽療法を現場で実践した。 1902年の新聞記事に、同病院は音楽界を開き、精神疾患の患者にピアノやバイオリンの演奏、唱歌の合唱などを聴かせて治療効果を測る様子が描かれている。 音楽会には患者自身が三味線を弾いたり清元を謡ったりする演目もあった。

 

興味深いのは、西洋音楽より日本の歌謡音曲のほうがはるかに患者の精神状態を動かしている様子だ。 これ以後、同病院の音楽療法には筑前琵琶や浄瑠璃、浪花節などの演目が頻繁に採用されていく。 と、あった。

 

このシリーズのテーマ『「日本は凄い・日本人は凄い」探し』に、最近、行き詰まっていましたが、今回から捉え方を変えました。 最近の現状を受け止め過ぎて残念ではあり、ちょっと寂しいですが『昔の日本は凄かった・日本人は凄かった』にします。

(記事投稿日:2023/03/10、#635)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『傘寿爺がグーグルマップで尋ねる素晴らしき、世界の絶景 1』 『メキシコにもあった「九塞溝」、Agua Azul(アグア・アスル)』

2023-03-10 15:49:11 | 風景・絶景

『傘寿爺がグーグルマップで尋ねる素晴らしき、世界の絶景 1』

『メキシコにもあった「九塞溝」、Agua Azul(アグア・アスル)』

 

幸せなことに世界の4カ国に、二十数年も住み、その間に、二十数カ国を訪問しましたが、インターナショナルビジネスマンなどと可笑しな日本語で煽てられて、仕事一本やりでしたので、写真が趣味であっても、世界の名所・旧跡・絶景は尋ねて、撮ることが出来ませんでした。 

 

今は、グーグルマップや国土地理院地図の充実した機能をフルに活用すれば、実地踏査のようには体感はできませんが、実地踏査ではできないような感激を自宅の居間で楽しむことが出来ます。

 

Agua Azul(アグア・アスル)、メキシコ

スペイン語で「青い水」という意味をもつ滝で、白い石灰石が水に溶けて、太陽光に反射することで、このような美しいコバルトブルーの青色をしています。青く透き通った川の水が上流から段差をともなって、流れ落ちる様は息をのむほどに美しい。

ウエブ情報から引用

 

比べてみたい、中國の『九塞溝』

「九寨溝(きゅうさいこう)を見てしまったら他の景色など見られない」と称賛される絶景はその美しさから、山の女神の鏡が砕けて湖沼となったとの伝説を伝えている。 特筆すべきはその色彩で、信じがたい彩度を誇る青は太陽の角度によって色合いを変え、木々の緑や紅葉の赤、雲の白と相まって万華鏡のように変化する。

ウキペディア情報から引用

中国は明の時代、地理学者・徐霞客はこういった。 「五岳より帰り、山を見ることなし、黄山より帰り、岳を見ることなし」。 現在中国ではこんなことがいわれているという。 「黄山より帰り、山を見ることなし、九寨溝より帰り、水を見ることなし」(黄山を見てしまったら他の山は見る価値がない、九寨溝を見てしまったら他の水景は見る価値がない)。

(記事投稿日:2023/03/10、#634)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『ミャンマー・バガン・世界三大仏教遺跡の一つ(信仰心の強さ)』 『3,000のパゴダや寺院のほとんどが、11世紀~13世紀に建設!』

2023-03-07 09:00:36 | 寺院・神社・教会

『ミャンマー・バガン・世界三大仏教遺跡の一つ(信仰心の強さ)』

『3,000のパゴダや寺院のほとんどが、11世紀~13世紀に建設!』

 

先ずは、神道について、自然の豊かな日本では『山川草木悉皆成仏』と言われ、自然を信じる八百万の神が親しみやすいですが、この八百万の神とは、『日本の神道で無数に存在する神々の総称』です。 『八』は多いという意味で、神は自然や人間のあらゆるものに宿ると考えられています。 

 

山川草木悉皆成仏』;「山も川も草も木も皆悉く仏に成る」という意味で、草木国土悉皆成仏、山川草木悉皆仏性などと言われ、山も川も草も木などの心を持っていない存在で、自らの意思で修行できない存在であっても仏に成れるという思想は、本来の仏教には無い思想です。

 

日本の宗教は、神道と仏教が多数派を占めています。 その日本においては、『信教の自由は、何人に対してもこれを保障する』と定められ、国教は定められていません。 また、特定の宗教を信仰していないとして自身を無宗教と認識する者も多くおります。

 

宗教とは、『霊や神を語る文化』などと簡単には言えない難しい課題です。 世界三大仏教遺跡を知ったときに、同じ仏教の遺跡でも規模や形が大きく異なることが解りました。 宗教は、どのようなものを前提としているかによって、次のように分けられているようです。

 

アニミズム………動物や自然物、先祖などの「霊」を信じる
多神教……………さまざまな権能を帯びた「神々」を礼拝する
一神教……………宇宙の独裁者である「唯一神」の権威に服する

悟りの宗教………人生の霊妙な理法を「悟る」ことを目指す

 

宗教のこと、ほんの少しでもわかるほど、宗教の起源が砂漠にある、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の『一神教』では、長い歴史的の中での、終わりなき争いには驚かされています。 同じ『一神教』でも仏教世界の、標題『ミャンマー・バガンの世界三大仏教遺跡の一つ(信仰心の強さ)』、『2,000~3,000のパゴダや寺院のほとんどが、11世紀~13世紀に建設』には凄ささえ感じます。 世界三大仏教遺跡からも夫々が独特の遺跡を残しています。 

 

世界三大仏教遺跡の一つ、広さも最大(信仰心の強さと豊かさ

  • ミャンマー・バガン遺跡群(約40平方km)

ウキペデイア情報から引用

ミャンマーの中央部、エーヤワディ川の中流域に広がる約40㎢の広大な原野に11世紀にビルマ族によって築かれた都市、及び遺跡群。 2000とも3000ともいわれる寺院や仏塔が林立するバガン遺跡。 国民の80%以上が仏教徒といわれるミャンマーにあって、今も多くの仏教徒が参拝に訪れる聖地です。

  

世界三大仏教遺跡の他の二つ

  • カンボジア アンコール遺跡群(約2平方km)(信仰心の強さと豊かさ

ウキペデイア情報から引用

カンボジアのプノンペンの北西約240kmにある世界遺産で、9世紀初頭から約600年間カンボジアを支配したアンコール朝の建築物です。 大小700にも及ぶ遺跡は、自然の浸食や戦禍により荒廃し、崩壊の危機にあり、国際支援による保存、修復が急がれています。

 

  • インドネシア ボロブドゥール遺跡(約15平方km)(信仰心の強さと豊かさ

ウキペデイア情報から引用

インドネシアのジャワ島中部のケドゥ盆地に所在する大規模な仏教遺跡で世界的な石造遺跡。 8世紀後半に建造された、世界最大級の仏教寺院であり、ボロブドゥール寺院遺跡群の一部としてユネスコの世界遺産に登録されている。

 

宗教と建造物のこと興味は尽きません。

(記事投稿日:2023/03/07、#633)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする