知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

興味のあることは、何でも調べて文章にする。   写真は「光と影」と言われるが、この理解には、まだまだ、ほど遠い.

『古代は、古代人は凄い 6(第5代ローマ皇帝ネロの光と影 2)』 『大火のローマを見下ろしながら竪琴を奏でつつ歌を歌っていた』

2024-02-08 23:10:09 | 歴史・世界・古代
『古代は、古代人は凄い 6(第5代ローマ皇帝ネロの光と影 2)』
『大火のローマを見下ろしながら竪琴を奏でつつ歌を歌っていた』
『「黄金宮殿」は、64年のローマ大火を受けてつくられた巨大施設』

第5代ローマ皇帝
ネロ・クラウディウス・カエサル・ドルスス・ゲルマニクス

 ウエブ情報から引用

世界史で「暴君ネロ」と習ったけれど……実は名君だった? と聞いてはいますが、やはり知りたいのは真実です。 先ずは波乱万丈の皇帝ネロと実母との凄まじい関係です。

真実はどこに、再度検証する『大英博物館のT・オッパー上席学芸員は、ネロは歴史の「被害者」と』
彼は皇帝として若すぎました。 当時起きた様々な問題は、ローマの社会が内部に抱えた緊張に起因し、ネロ個人の態度や政策とは関係ありません。 もし彼が実際より50年遅く皇帝になっていたら、全く違う評価を受けたでしょう。

ネロには、大火のローマを見下ろしながら竪琴を奏でつつ歌を歌っていたなど、皇帝にあるまじき逸話が残る。 しかし、その多くは創作の可能性が高いという。 出火の際にネロはローマにいなかったにもかかわらず、「火を付けたのはネロ自身」との話も信じられた。

現代のフェイクニュースと同じです。 極めて一方的で、しかも政治的な目的に基づいていたとオッパー氏はいう。 ネロのイメージは、このようなつくり話が積み重なり、事実に取って代わったのだった。 これは、歴史を学ぶ者に多くを考えさせる。 ネロ悪人像の端緒をつくったタキトゥスは、世界中の生徒学生がその名を学ぶ歴史家中の歴史家。 そのような高名な人物でさえ、歴史をゆがめる作業に、結果的に加担した。 物事を客観的に評価し、記述することの難しさを、改めて思う。

黄金宮殿
ローマ中心部の巨大遺跡コロッセオに隣接する丘の上にネロが建設した「黄金宮殿」(ドムス・アウレア)、「黄金宮殿」は、64年のローマ大火を受けてつくられた巨大施設。 ネロの死後は地中に埋もれ、後世その上に「トラヤヌス帝の浴場」などがつくられたこともあり、いったん忘れ去られた。 ルネサンス期に一部が発掘され、その壁に描かれた唐草模様風の曲線装飾「グロテスク様式」は、当時の画家ラファエロに大きな影響を与えたという。

「黄金宮殿」の内部は、高い天井の部屋が連なり、複雑に入り組んでいた。 誘導案内がまだ十分整備されていないせいか、途中で迷いそうになる。 壁の一部には曲線の文様が残る。 地中だけに薄暗いが、かつては「グロテスク様式」を際立たせるよう採光が工夫され、光に満ちた空間だったという。

「当時の画期的な技術に基づいた建物です。 ネロは、宮殿を築いた建築家や都市計画家に、大火後のローマ再建も担わせ、防災対策を施した街を築きました」。 宮殿の修復を指揮したコロッセオ考古学公園のアルフォンシーナ・ルッソ所長(61)は、こう語った。

――ネロはどんな皇帝だったのですか。
「考古学的視点から探る限り、極めて有能な君主だったと考えられます。 彼は、セヴェルスやケレルといった有能な建築家を登用して宮殿を建設するとともに、大火後のローマの街の復興にも努めました。 災害に備えて道路を広く取り、柱付きの回廊を設けて家同士の間隔を保つという、合理的な都市計画でした」

――なのに、なぜ「暴君」と呼ばれるようになったのでしょうか。
「彼は、庶民すなわち下層中産階級を優遇する政策を展開し、改革を実施して、民衆に広く愛されました。 彼らからの支持に依拠した政治を進めたのですが、一方で貴族階級や元老院とは対立したのです。だから、死後否定的に扱われたのです」

――ただ、母を殺害したり妻を死なせたりと 粗暴な印象は拭えません。
「この時代は、殺人も、近親相姦(そうかん)も、権力闘争の一環でした。 同じようなことは中世にもその後の世界でも起きたのです」

『古代は、古代人は凄い(第5代ローマ皇帝ネロの光と影』についてなお今後も調べていきたいと思っております。
(記事投稿日:2024/02/08、#724)
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『すぐそこにある緊急課題に関する本“人新生の「資本論」”2』 『この本から知りたい「人間はどうすればよいのか、打つ手は」2』

2024-02-07 18:09:39 | 読書
『すぐそこにある緊急課題に関する本“人新生の「資本論」”2』
『この本から知りたい「人間はどうすればよいのか、打つ手は」2』

この表題の本を読んだときに思い出しました。 抜粋・再掲になりますが『半世紀以上も昔のこと、当時はすでに引退されていましたが、経団連の会長時代には「財界総理」と呼ばれた石坂泰三さんとの香港での会食の末席でお聞きしました、『人間は「業」持ちだから、・・・いろいろ難しい』と。 ここは『・・・』は、共産主義と資本主義の今後についての話題でした。』

斎藤幸平氏 著『人新生の「資本論」』「新書大賞2021」受賞作!
 
 ウエブ情報から引用
この本は発売してすぐに、39万部も売れた本ですが、評価やレビューは全体的に高いのですが、批判的な意見も目立つようですと、紹介されていました。 この本の中で使われた用語ですが、『気候変動』『気候激甚』『気候危機』とありました。 この語彙の推移を、3年前に書かれていることにも驚いきました。 

今、読み返してみて、この本の『はじめにーSDGsは「大衆のアヘン」であるー』も、難しい表現ですが、かなりの内容です。 現在直面している身近なシンプルな課題ですが、地球規模の統制・管理が必要な『地球連邦政府』級の組織・機能と、そこに強いリーダーが、AIに優れたチームにサポートされなければ、なかなか実現できないではないでしょうか。 人間には、『気候変動』『気候激甚』『気候危機』に、何をどこまでできるのか考えてしまします。 『はじめにーSDGsは「大衆のアヘン」であるー』抜粋・引用します。

温暖化対策として、あなたは、なにかしているだろうか。レジ袋削減のために、エコバックを買った? ペットボトル入り飲料を買わないようにマイボトルを持ち歩いている? 車をハイブリッドカーにした? 
はっきり言おう。その善意だけなら無意味に終わる。それどころか、その善意は有害でさえある。
なぜだろうか、温暖化対策をしていると思い込むことで、真に必要とされているもっと大胆なアクションを起こさなくなってしまうからだ。良心の呵責から逃れ、現実の危機から目を仕向けることを許す「免罪符」として機能する消費活動は、資本の側が環境配慮を装って、私たちを欺くグリーン・ウォッシュに、いとも簡単に取り込まれてしまう。
グリーン・ウォッシュ
環境配慮 をしているように装いごまかすこと、上辺だけの欺瞞(ぎまん)的な環境訴求 を表す。

かつて、カール・マルクスは資本主義のつらい現象が引き起こす苦悩を和らげる「大衆のアヘン」か、「宗教」を「大衆のアヘン」だと批判した。SDGsはまさに現代版「大衆のアヘン」である。 「企業の冤罪符」か 政府や企業がSDGsの行動指針をいくつかなぞったところで、気候変動は止められない。 ノーベル化学賞受賞者のパウル・クルッツエは、資質学的に見て、地球は新たな 歴史学者の 年代に突入したといい、それを「人新世ひとしんせい Anthropocene 」と名付けた。

斎藤幸平氏のこと
 1987年生まれ。大阪市立大学大学院経済学研究科准教授。ベルリン・フンボルト大学哲学科博士課程修了。博士(哲学)。 専門は経済思想、社会思想。Karl Marx’s Ecosocialism:Capital,Nature,and the Unfinished Critique of Political Economy(邦訳『大洪水の前に』)によって、権威ある「ドイッチャー記念賞」を歴代最年少で受賞(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
ドイッチャー記念賞
アイザック・アンド・タマラ・ドイッチャー記念賞は、歴史家アイザック・ドイッチャー夫妻を記念して、毎年「マルクス主義の伝統における、またはついての最高で最も革新的な新しい書物を例証する」英語で発表された新たな本に対して授与される賞で、1969年から続いている。

その他、沢山の受賞歴がありますが、その中から選びました。
  • 2020年 -「マルクス経済学のエコロジー的転回に関する研究」により日本学術振興会賞
  • 2021年 - 著書『人新生の「資本論」』で新書大賞を受賞
  • 2021年 - 著書『人新世の「資本論」』で韓国のAsia Book Awards (ABA 아시아북어워드) 2021年優秀図書賞(一般書部門)を受賞。

この本に、まったく同感ですが、自国優先の大国と、いくつかの独裁国家の調整・管理ができない地球上では、今の逼塞感、閉塞感を、乗り超えていくには、人類は、限界のある地球に住まねばならない以上、皆で動植物を大事にする気持ちを、持って、『80億人でやる、節電・節水・節肉食・公共交通機関移動、等』の身近な対策が必須です。 贅沢な生活をやめて、皆で質素な生活をする方法以外には、ないような気がします。

先ずは、特に日本が率先してやらねばと思うこと、
この本の心配事も、重要な問題・課題ですが、浅学菲才の傘寿プラスには、今の日本は、『選挙制度』はさておいて、物事を、その都度、決められないのは、『縦割り多制度・多規制不全』に起因するのではないでしょうか。 今の逼塞感、閉塞感の改善は、せめて最低賃金の改善を最優先で実現いただきたいと思っています。 どの課題・切り口から取り組んでも、必ず『縦割り多制度・多規制』の広範囲関連します。 凄いリーダーと、それをサポートする広義AI達人の小さな集団が必要です。

特に政治家・高級官僚の方々には、日本語の難しさ『表意文字漢字と、表音文字ひらがな、カタカナも混在の中で、更にはカタカナ英語急増』を知った上で、ヒト・モノ・カネ(これらに「時間」を加えて)を数値とその推移・傾向で理解頂き、更に海外との比較で説明・議論をして結果を出して、実現をして頂きたいと、期待しています。

『ヒト・モノ・カネ(これらに「時間」を加えて)』を、最も尊敬する『知の巨人・立花隆氏』が、子供たちに教えています。 『大人たちに』ではもう遅いということでしょうか。
(記事投稿日:2024/02/07、#724)  
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『古代は、古代人は凄い 5(第5代ローマ皇帝ネロの光と影 1)』 『ローマの大火でキリスト教徒の迫害で、典型的な暴君とされたが』

2024-02-05 09:12:50 | 歴史・世界・古代
『古代は、古代人は凄い 5(第5代ローマ皇帝ネロの光と影 1)』
『ローマの大火でキリスト教徒の迫害で、典型的な暴君とされたが』
『著名な歴史小説家は言う、どんなに文字記録があっても、当時の人の心の中まではわからない? だから好きなように想像して、書けると!』

第5代ローマ皇帝
ネロ・クラウディウス・カエサル・ドルスス・ゲルマニクス

 ウエブ情報
世界史で「暴君ネロ」と習ったけれど……実は名君だった? と聞いてはいますが、やはり知りたいのは真実です。

第5代ローマ皇帝ネロ(紀元37~68)は、類いまれな「暴君」として知られます。母を殺害し、キリスト教徒を迫害し、芸術に心を奪われた末に自ら命を絶ったその人生は、小説や映画に描かれました。 ところが、その暴虐無人ぶりは虚像に過ぎず、実は帝国繁栄の基礎を築いた「名君」だった、との説が近年有力になっています。 

ネロは紀元54年、伯父であり養父でもあった第4代皇帝クラウディウスの死去を受けて、16歳で即位した。 その背後には、強い政治的野心を抱く母アグリッピナの策謀があったという。 哲学者セネカの指導を受けて当初は政治にいそしんだものの、何かと政治に口を出す母を殺害。 哲学者セネカも、彼の妻も死に追いやった。 64年に起きたローマ大火の際には、キリスト教徒に責任を負わせて弾圧した。

この間、次第に芸術にのめり込み、ギリシャ文化を熱愛。 自らコンサートを開いたり、劇場で舞台に立ったり、さらには古代オリンピックに出場して優勝したりした。 こうした姿のネロを、元老院は「国家の敵」と名指しする。 追い詰められたネロは、30歳で自害した。

「暴君」としての人物像は、「年代記」「ゲルマニア」などの著作で知られるタキトゥスや、スエトニウス、カッシウス・ディオといった著名な歴史家の記述に多くを負っている。 その後、ポーランドのノーベル文学賞作家ヘンリク・シェンキェヴィチの小説「クォ・ヴァディス」がネロの悪行やキリスト教徒迫害の様子を描き、さらにこれが映画化され、悪役イメージが定着した。 このような先入観に挑戦し、ネロの業績の再評価を試みたのが、ロンドンの大英博物館で10月24日まで開かれている特別展「ネロ 虚像に覆われた男」でした。
特別展「ネロ 虚像に覆われた男
大英博物館(British Museum)で2021年5月27日〜10月24日まで開催されている『Nero: the man behind the myth』展

英国は、ネロとの深い関係がある。 紀元60年ごろ、この地方の王族の女性ブーディカがローマ帝国に対して反乱を起こし、ネロによって最終的に鎮圧されたからだ。 その後、ブーディカは英国で英雄と見なされ、英国の歴史教科書にも登場するという。 「そのような関係があったにもかかわらず、英国内ではこれまで、ネロをテーマにした展示が開かれた形跡はありません。 今回が初めてです」と、特別展を企画した同館のトルステン・オッパー上席学芸員(52)は説明する。 特別展は2年あまり前から企画されていたが、新型コロナウイルスの感染拡大で準備が中断し、2021年5月に開幕にこぎ着けた。

落書きが語る人物像
ネロの治世下、ローマ市内をはじめ帝国内にあふれていたその胸像は、死後削られ、後の皇帝の胸像につくりかえられた。 現代まで残るネロの姿のものは少ないが、特別展ではこれらを丹念に収集。 家族や歴代皇帝の胸像や、関係者の遺物、その時代の社会を物語る工芸品や資料なども、広範囲に集めた。 イタリアの各博物館所蔵品や遺跡からの出土品が、その多くを占める。

展示コーナーの中ほど、母アグリッピナや3人の妻ら家族の胸像が並ぶ華やかな場所の隅に、あまり目立たない形で立てかけられた一つの展示品が、ネロの復権を象徴している。 イタリア南部の遺跡ポンペイで出土した漆喰(しっくい)の壁だ。 有力者宅の台所の一部だという。 そこに、無造作に落書きが刻まれている。

ポンペイの他の落書きにも、ネロの名は多いという。 また、ローマでは、いたずらで描かれたネロの似顔絵も残されている。 実は、こうした落書きこそが、ネロに対する庶民の意識を示す。 タキトゥスら歴史家が記した公式の記録とは大きく異なる人物像だ。 「エリートによってつづられた公式記録がネロを悪者扱いしているのに対し、落書きは彼の大衆人気の高さを物語っています」と、オッパー上席学芸員は語る。

ネロが汚名を着せられたわけ
オッパー氏によると、皇帝としてのネロの業績は、税制・通貨改革や古代コンクリートによる街づくり、東方への領土拡大など、実際には多岐にわたっている。ネロの死から28年後、ローマではネルヴァ、トラヤヌス、ハドリアヌス、アントニヌス・ピウス、マルクス・アウレリウスと続く「五賢帝」の黄金時代が始まるが、その際に称賛された政策の多くは、ネロの治世に基盤が用意されたという。 

「もし事情が少し異なっていたら、ネロは偉大な改革者として語り継がれたかもしれません」なのに、どうしてネロは「暴君」の汚名を着せられたのか。
一つは、タキトゥスらローマ帝国の歴史をつづった人物が、元老院と対立したネロに厳しい目を向けていたこと。 タキトゥスは、自身も元老院議員を務め、元老院寄りの視点を持つといわれる。加えて、中世になってキリスト教が広がる中で、ネロはその弾圧者と位置づけられた。

実際には、キリスト教徒は当時ローマにごく少人数しかおらず、ユダヤ教徒の一部だと見なされていたなど、状況がその後とは大きく異なっていたというが。
「同じように暴君として知られた第3代皇帝カリグラは、在任中に殺害されました。しかし、彼はキリスト教との接点がなかったため、ネロのようには憎まれなかったのです」

『古代は、古代人は凄い 5(第5代ローマ皇帝ネロの光と影』についてな今後も調べていきたいと思っております。
(記事投稿日:2024/02/05、#723)
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『自然の不思議・樹木のこと 11(屋久杉は凄い、その頂点に縄文杉』 『屋久杉は「秀吉」「薩摩藩」「明治政府」に、伐採・建材された!』

2024-02-02 22:51:22 | 植物・花

『自然の不思議・樹木のこと 11(屋久杉は凄い、頂点に縄文杉』
『屋久杉は「秀吉」「薩摩藩」「明治政府」に伐採・建材にされた!』
運良く残れた「縄文杉」は、つい58年前(1966/05/28)に、 
 屋島の標高1,300メートルの高塚山尾根筋に近い南斜面で、
 屋久島の旧上屋久町の元観光担当だった岩川貞次氏が発見。』

屋久杉は屋久島の標高500メートル以上の山地に自生するスギ。 狭義には、このうち樹齢1000年以上のものを指す。 縄文杉は、屋久島に自生する最大級の屋久杉。 スギの1個体に付された名であり、種の名称や、あるいは、縄文時代から生きている個体の総称ではない。

屋久杉を調べていて、気が付き、驚いたことは、標高約500m~2000ⅿに自生していることも驚きですが、推定樹齢1000年以上のものは、建材にはならないほどの『姿』なっていますので伐採されずに残りました。 その他の若い『姿』の良い、多くの屋久杉は、主には『太閤秀吉』『薩摩藩』『明治政府』などに建築材料として伐採されてしまいました。 

屋久杉は、屋久島の標高500メートル以上の山地に自生するスギ。 狭義には、このうち樹齢1000年以上のものを指し、樹齢1000年未満のものは「小杉」と呼ぶそうです。 また屋久島で植林された杉を「地杉」と呼ぶが、樹齢100年以内の小杉を指す語としても用いられる。 このように使い分けて呼ぶのは、主に地元で昔から生活に密着した材料であったため、工芸品でも有名。
スギ
裸子植物マツ綱のヒノキ科スギ属に分類される常緑高木になる針葉樹の1種、スギ属の唯一の現生種とされる。 大きなものは高さ60mになり、日本自生の木の中で最も大きくなる種とされる。

縄文杉
樹高
25.3m
胸高周囲
16.4m
推定樹齢
2000年代~7200年
標高
1300m
場所
大株歩道沿い
 
ウキペデイア情報から引用
解説
先ずは、ユニークなエピソードから、
『縄文杉は「秀吉配下に見付からず」に済んだのは運がよかったと思い込んでいました。 当時まだ縄文杉は発見されておらず、ずっと最近(1966年)の発見です。 もし発見されていたら、太閤様のことですから、城郭・寺院の建築材料には不向きでも『どこかの置物』にでもしてしまったかもしれません。』
1966年に発見された縄文杉は現在確認されている最大の屋久杉です。 背が低いずんぐりした樹形は台風の常襲地帯に育つ屋久杉の特徴をよく表しています。また、凹凸の激しい幹は江戸時代に利用できない巨木として切り残されたことを示しています。 樹齢7200年という説もありますが、中心部が空洞になっており、その内側から採取した資料の科学的計測値は2170年となっています。
登山者の踏圧により根が傷むことがないよう1996年に展望デッキがつくられました。 また、2009年より荒川登山口へは通年(3月~11月)車両乗入規制が行われ、登山口からは往復で10時間程の本格的な登山コースとなっています。
 2005年に折れたおよそ1000歳の大枝(全長5m、直径1m)は、数千年を生きる縄文杉の生命力や森の成り立ちを知る手がかりとして「縄文杉いのちの枝」と名付けられ、屋久杉自然館に展示されています。

ウィルソン株
伐採された屋久杉の大きさ(推測)DATA
樹高
42m
胸高周囲
13.8m
推定樹齢
2000年余
標高
1030m
場所
縄文杉登山ルート大株歩道沿い

ウキペデイア情報から引用
解説
大正時代に屋久杉を調査し、大株を紹介したアメリカの植物学者ウィルソン博士にちなんで名付けられました。 300年程前に伐採された切り株で、中は大きな空洞になっています。巨木が伐採された後、根際には次世代の3本の小杉が生えています(切り株更新)。

ウィルソン株は、豊臣秀吉の命令により京都の方広寺大仏殿造営の為に 切られたとされる。1587年の秀吉の九州制圧後、秀吉が島津義弘に命じて屋久島の木材の伐採を行ったとされており 、1590年頃に小豆島の大型船11隻が、京都方広寺大仏殿造営のための屋久杉材を大坂へ運んだとされるが、そのうちの1本と思われる。

秀吉の命により切り倒されたとされているスギの切り株である。 もし生育して現存するのであれば、屋久島最大と思われるだけではなく、日本最大の樹木であった可能性も捨てきれない。

 
各資料には胸高周囲13.8mなどと表示されているものを見かけるが、これは胸高ではなく切り口付近の周囲である。 切り口は高さが5mほどの高さであり、胸高の1.3mでは、この値よりも遙かに大きな幹周を誇っているであろう。 縄文杉の幹周を、遙かに凌駕する大きさを誇っているに違いなく、生きていたならばダントツで日本一のスギだった可能性が高い。

 
この切り株を調べた方の資料によると、樹高も60mほどの高さを持っていたとされており、伐採された梢の先端は現在でも横たわったままであるという。
おそらく樹姿も素晴らしかったと想像され、その為に材として伐採されてしまったのであろう。一方の縄文杉や大王杉は材に問題があり伐採を免れたとも言う。 大王杉に至っては、木の裏側に試し切りの跡さえも残っている。

ウィルソン株は、縄文杉へのアプローチの途中にあり、ほとんどの登山者がこの切り株の前で一息入れ、さらに奥への縄文杉への道にトライしていく。ここはちょっとした空間が広がっており、まさに一息つくにはもってこいの場所なのだ。ほとんどの方の目的が縄文杉であろうから致し方ないのであろうが、このスギの偉大さにも気づいて欲しいところである。
 伐採から400年もの時間が経つが、一向に朽ち果てることもなくその姿をとどめている。いかに屋久杉が優れた材であるかを、身を以て証明しているかのようである。

翁杉
樹高
27m
胸高周囲
12.7m
推定樹齢
2,000年
標高
1030m
場所
徒歩往復6時間ほど

ウエブ情報から引用
解説
現在の大きさは幹周13mをくだらないであろう。 この周辺から岩峰の翁岳が見えることから名が付けられたらしい。 苔生した姿が、何とも屋久島のスギらしくて好ましい。

 残念な事だが、2010年9月9日の夜から10日の朝の間に、高さ2mほどのところから折れて倒伏してしまった。倒れた幹はそのまま放置とし、自然環境教育の場とする旨、林野庁から発表があった。 幹の太さにおいては縄文杉に次ぐ大きさを誇っていただけに、非常に残念である。

大王杉
樹高
24.7m
胸高周囲
11.1m
推定樹齢
3000年
標高
1190m
場所
縄文杉登山ルート大株歩道沿い

ウエブ情報から引用
解説
急斜面にあり、根元の上と下で5.3mもの落差があります。下部に大きな割れ目があり、中は空洞になっています。 縄文杉が知られるまでは、最大の屋久杉といわれて『大王』の名前がつけられました。 現在は登山道が整備されすぎたため、スギの南西側を登る道一本となってしまっているが、かつては大王杉のすぐ脇を通る登山道も存在した。
その道からはスギの背後に残された試し切りの痕跡、空洞内の様子なども伺うこともできた。 この空洞内で登山者による火災が起きたため、その後は前述の登山道一本にまとめられてしまったようである。 縄文杉よりも大王杉のほうが、風格があるように見えるそうです。 全容をなかなか見渡せないため、少々不利な立地条件にも見える。


 
紀元杉
樹高
19.5m
胸高周囲
8.1m
推定樹齢
3000年
標高
1230m
場所
安房林道沿い

ウエブ情報から引用
解説
クレーン車による詳しい調査が行われ、着生樹の様子が明らかになりました。紀元杉は特に着生樹が多く、10種類以上が着生しています。 枯れていた先端部分は、2012年4月に安全の為に切り離され、屋久杉自然館に展示されています。(全長150cm 直径60cm)

屋久島の中でも一、二を争う樹齢を誇っている。 伝承では樹齢推定3000年と伝えられ、樹齢がはっきりとしない縄文杉よりも、こちらの方が古いのではないかとの声も聞く。 屋久島を代表する巨樹、ウィルソン株、大王杉、縄文杉らと比較しても決して引けはとらない大きさであり、老樹の威厳をも兼ね備えていると言っても良いだろう。 

一度見たかった縄文杉、今では国土地理院地図、又はグーグルマップでの散策になります。
(記事投稿:2024/02/02、#722)
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