知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

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『イスラム教徒vsキリスト教徒の攻防が最も激しかったスペインの中でアルハンブラ宮殿は奇跡的に遺った!』

2025-02-13 10:59:45 | 寺院・仏閣・神社・お社

『イスラム教徒vsキリスト教徒の攻防が最も激しかったスペインの中でアルハンブラ宮殿は奇跡的に遺った!』

『この「巨大な・華麗な宮殿」で「堅固な城塞」がレコンキスタのキリスト教徒の為政下で遺った、やはり奇跡!』

『現在まで無傷で遺ったアルハンブラ宮殿の奇跡は、イスラム教徒側のハンマド12世と、キリスト教徒側イサベル女王の英明な二人の知性による、無血開城の実現で!』

アルハンブラ宮殿・要塞
半島状の台地の先端に築城(江戸城・大阪城と同じ立地(縄張り)条件
 
ウエブ情報から引用

崖上の堅固な城壁

 ウエブ情報から引用

アルハンブラ宮殿内部

 ウエブ情報から引用

グラナダ王国最後の王ムハンマド12世は、イサベル女王の軍に、涙をためながら無血開城して去っていったと伝えられています。  宮殿を見たイサベル女王は、あまりの美しさに感動し、建物の保存を決意。 その美しさゆえ破壊されずに、奇跡的に今日に伝えられているアルハンブラ宮殿。 イスラム建築の最高峰といわれ、ユネスコ世界遺産にも登録されています。 アルハンブラ宮殿の意味は「赤い城」。

イスラム教の美術は、偶像崇拝はないので、絵画的ではなく幾何学的。 アルハンブラ宮殿は、外部は質素・シンプル・直線的、内部は質素だが比較的カラフル。 イスラムの幾何学模様とは、線で描いた幾何学模様を繰り返し均等に配した、イスラムの世界で見られる3大装飾(幾何学模様、カリグラフィー、植物模様)の一つ。 5から12角形から構成されるものが多く、単純なものから複雑なものまでパターンは無限で、モザイクタイル、絨毯や木彫細工など多くのイスラム美術で見られる。

キリスト教徒は、モスクは変えたが、宮殿は変えなかったので、アルハンブラ宮殿は変えなかった。 スペインのアンダルシア州グラナダ県グラナダ市南東の丘(サビーカの丘)の上に位置する城塞・宮殿である

宮殿と呼ばれているが城塞の性質も備えており、その中に住宅、官庁、軍隊、厩舎、モスク、学校、浴場、墓地、庭園といった様々な施設を備えていた。 現代に残る大部分は、イベリア半島(アル=アンダルス)最後のイスラム王朝・ナスル朝の時代の建築とされ、初代ムハンマド1世が建築に着手し、その後のムスリム政権下で増築された。 スルタン(王)の居所であるとともに、数千人が居住する城塞都市でもあった

夏場非常に暑いと言われるグラナダの中でもとても涼しい場所に位置し、ウマの背のような形をした緑多い丘に立地する。 建築の材料には、煉瓦、木材、練土などのもろいものが多く、彫刻を施した石材などは最低限しか使用されていない。アルハンブラ宮殿の中心は、いくつかの建造物に囲まれた中庭(パティオ)におかれ、他のイスラム建築の例に倣っている。

キリスト教徒が、よく残したアルハンブラ宮殿・要塞の今後の調査のために、ウエブ情報を抜粋・引用で備忘録にしました。
歴史
アルハンブラは構造的には一つの城塞都市であるが、当初から全体の形が計画されていたのではない。 異なる時代に建てられた様々な建築物の複合体であり、時代により、建築様式や形状などが異なっている。 その前半はムーア人王朝の栄枯盛衰と共にあり、9世紀末イベリア半島南部を版図としていた後ウマイヤ朝末期の、アルカサーバと呼ばれる砦が原形であるといわれている。 これは、アラブ人が農民の反乱軍からの防御壁として築いたものである。

イスラム教徒がイベリア半島に進出する前、8世紀初頭まで、この地は西ゴート王国の支配下にあった。 711年、ウマイヤ朝の北アフリカ総督であるムーサー・イブン・ヌサイルが武将ターリクに命じ、トレドまでを占領。その後数年で、イベリア半島全域がイスラム圏となった。 この地に、最初に栄えたのが後ウマイヤ朝であるが、このときの都はまだコルドバであり、グラナダの丘の上には軍事要塞アルカサーバだけが建てられていた。 現在、アルハンブラの最も西の部分である。

11世紀前半、1031年の後ウマイヤ朝滅亡後にキリスト教徒の国土回復運動であるレコンキスタが本格化し、カスティーリャ王国のアルフォンソ6世が1085年にトレドを降伏させ、後にフェルナンド3世が1236年にコルドバ、1246年にセビリアを陥れた。 このレコンキスタは、イスラム圏にとってはキリスト教徒による再征服活動であり、イスラム圏に残されたのは、グラナダを中心とするアンダルシア南部地方のみとなった。

アルハンブラ宮殿が大きく拡張されたのは、このレコンキスタが進展した時期であり、グラナダを首都としたナスル朝(1238年 - 1492年)の時代に入ってからである。 メディナ出身のデアル・アフマド家の血を引くムハンマド1世、およびその息子のムハンマド2世が60年も歳月をかけ、水道を設置し、アルカサーバの拡張工事を行い、宮殿(14世紀に取り壊され、現在は残っていない)を造った。

その後も歳月と共に建物や塔が建築されていったが、大きな変貌を遂げるのは、ナスル朝の黄金時代を築いたユースフ1世とその息子のムハンマド5世の時代である。

ユースフ1世時代には、城廊では、マチューカの塔、コマレスの塔、正義の門、スィエテ・スエーロスの門、宮殿ではコマレス宮を中心とする建物が造られた。14世紀の学者イブン・ファドルッラー・(アル=)ウマリー、(シハーブッディーン・(アル=)ウマリー,とも)の歴史書によると、スルタンは月曜と木曜の朝にサビーカの丘にある法廷で人々と共に座し、コーランのうちの10章や預言者ムハンマドの言行録(ハディース)の一部を朗読。 宰相(ワズィール)が人民から話の聞き取りなどを行ったと伝えている。 この集まりにはスルタンの親族らも参加していたという。

ムハンマド5世の時代には、城廊では、ぶどう酒の門(城廊のなかでは唯一アラベスク模様の装飾がある)、宮殿ではライオンの中庭を中心とする建物が造られた。ライオンの中庭は、長さ28メートル、幅16メートルで、庭を囲む4つの建物には124本の大理石円柱が立ち並んでいる。 中庭の東側にある諸王の間には、10人のアラブ人貴族を描いた絵画がある。 これは、初代のムハンマド1世から十代のアブー・サイードまでのナスル朝スルタンであるという説と、重臣が法廷を開いている場面であるという説があり、後者の説に基づき、「裁きの広間」とも呼ばれている。

ムハンマド5世没後、ナスル朝はおよそ100年間存続するが、新たな建造物はほとんど建てられなかった。

1492年1月2日、カトリックのレコンキスタによってグラナダが陥落するとアルハンブラ宮殿にも一部手が加わった。グラナダがキリスト教徒の手に渡った直後に、カルロス5世がこの地を避暑地として選び、カルロス5世宮殿を建設。当時イタリア留学であったペドロ・マチューカが、正方形の建物の中央に、円形の中庭を設けるという設計をし(現在も未完成)、スペインにおける純イタリア様式の成功傑作と称されている。

スペインは、この地を1718年まで城代に管理を任せていたが、カルロス1世(カール5世)の時代に入ると、この宮殿を自らの帝国の支配の中心地にする考えを持っていたと言われており、いくつかの改築が行われている。 カルロス5世の噴水や、カルロス5世の宮殿の建設が始まり(宮殿は完成することはなかった)、モスクは教会へ変えられ、礼拝堂や修道院が建築されている。

現在のスペイン国家は、公式にはレコンキスタの過程でイスラム的な文化を払拭(カトリック教会側から見れば浄化)して建てられたカトリック教国であるが、現代にアルハンブラ宮殿が残されていることからも、民衆がこの宮殿の文化的価値を肯定したとも推察され、この要塞の様式がパティオなどの建築文化に与えた影響も窺える。

また、スペインを訪れるイスラム教徒たちは、このアルハンブラを他の誰にも増して特別な気持ちで見るという。 彼等にとってアルハンブラはイスラム=スペイン(アル=アンダルス)の象徴であり、イスラムの支配と信仰が砕かれてもなおスペインに残った輝かしい遺産なのである。

アルハンブラ宮殿は、栄枯盛衰を経てもなお破壊されることなく残され、現在スペイン屈指の世界遺産となり世界中からの観光客が訪れる名所となっている。
『アルハンブラ宮殿は、イスラム王朝時代の宮殿だけあって、イスラム様式の建築様式が見られ、その後スペインによって管理されたためにそれぞれの文化が見られるという点で評価されています。』といわれていますが、幾何学模様の内装のイスラム芸術の傑作は、変えよう・直しようがなさそうです。
(記事投稿日:2025/02/13、#986)
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