礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

日本の大学は、現状維持のための勢力

2024-12-07 00:16:45 | コラムと名言
◎日本の大学は、現状維持のための勢力

 カレル・ヴァン・ウォルフレン著『人間を幸福にしない日本というシステム』(毎日新聞社、1994)の要所要所を紹介している。本日はその十三回目。
 本日は、第三部「日本はみずからを救えるか?」の第三章「制度との戦い」からは、本日は、もう一箇所、次のところを紹介してみたい。

 大学は、ほとんどの市民社会に対して、その力を強める重要な役割を伝統的に果たしてきた。ところが日本では、新聞と同じく、市民社会の力を弱めがちである。日本では、大学は現状維持のための勢力なのだ。
 これは、その歴史にも原因がある。旧帝国大学は、なによりも有能な官僚を国家に供給するという特定の目的のために設立された。私立大学は創立者の心の奥の教育理念を託されて発足したのだろうが、これもまた高度に官僚的な機関と化し、日本という生産マシーンに付属した管理機構のどのレベルに若者の就職先を振り分けるか、決定するのがその目的になってしまっている。
 制度的環境の助けがなくても、優秀な頭脳がよい成果を生むことはある。だから日本も、世界の知識に貢献するそれなりの数の科学者を生んできた。しかし、それは主に自然科学の分野に限られている。社会学、政治理論、経済学の分野では、日本の学者は思想家、あるいは分析家として業績に乏しい。概して彼らは、市民社会の知的中核として失格である。
 大学は、日本を変える計画のためには邪魔である。なぜなら日本の学者たちは、日本社会の支配の実態とほとんど関係ない、あるいはまったく関係ない問題に、人々の注意をそらしてしまうからだ。彼らは、難解な理論や無味乾燥な専門知識の細部のなかに迷い込んでしまっている。政治的リアリティを「科学的」方法で研究しているのだという言い訳で、彼らが社会から逃避している事実の重大性がごまかされてきたのだ。
 また、日本の学者たちには、主に不文律の規則が微妙な問題に関してあり、それを破ると彼らは路頭に迷うことになるのも忘れてはならない。つまり彼らは、いま身を置いている厳格に制度化された階層秩序【ヒエラルキー】に逆らえず、それと独立に対等に批評しあうことも、自由に職場を変わることもできないのだ。大学と出版界のなかの互いに恩を着せあうシステムは、毒にも薬にもならないから政治的になんの効力もない無難な批評に終始する知識人たちをやたらにふやした。〈309~310ページ〉

 ウォルフレンは、本書の全体を通して、日本の「官僚制」を批判した。その第三部第三章「制度との戦い」においては、報道機関、司法、評論家、大学という「制度」を、批判の対象とした。

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