◎対敵情報部のキャノン中佐が、車の助手席にいた
大森実『日本はなぜ戦争に二度負けたか』(中央公論社、1998)から、「国鉄総裁下山事件のミステリー Ⅱ」を紹介している。本日は、その五回目(最後)。昨日、紹介したところのあと、一行アキがあって、そのあと次のように続く。
鹿地亘(本名、瀬口貢)は、東大卒業後、小林多喜二(留置場で殺害された)の薦めで、共産党に入党、「戦旗」編集長をしていたが、魯迅に憧れて上海に渡り、内山書店主、内山完造の家に身を寄せた。魯迅の死後、上海は戦火に見舞われ、魯迅の未亡人宅に匿われたが、孫文未亡人の宋慶齢の手引きで、香港を経由して重慶に入った。
延安にいた野坂参三と連絡を取って、日本人反戦連盟の活動家として、華中戦区で反戦活動をやった。終戦後、彼が帰国したときは野坂に劣らぬ英雄扱いを受けて、作家活動を再開した。
鹿地がメディアから姿を消したのは、彼が肺結核にかかり、国立淸瀬療養所で肋骨七本を切除する胸郭成形手術を受けたからであった。
鵠沼〈クゲヌマ〉の友人の別荘を借りて療餐中のことだった。彼が散歩に出たとき、近づいてきた一台の自動車が彼の真横で停まると、車内から飛び出してきた緑の軍服を着た二人の米軍人が、鹿地の腹にブラック・ジャックらしき凶器で一撃を加えて車内に押しこんだ。車の助手席にいたのが、対敵情報部特殊工作隊のキャノン中佐であった。
鹿地がハイジャックされた先は、渋谷代官山にあった大理石と豪華な絨毯の旧五島慶太邸で、ここでアメリカのスパイになれとする拷問が始まった。キャノン中佐は、「結核は治してやるが、お前を痛めつける方法はある。薬でやるんだ」と脅かした。
キャノン機関は、本郷の旧財閥・岩崎邸や東横線・新丸子の東京銀行社員クラブなどを徴発して秘密拠点にしていた。朝鮮戦争が始まっていたので、そこには朝鮮の前線から連れてこられた中国兵や北朝鮮軍兵士が収容されていた。
彼らはキャノン機関によって特殊訓練が施され、訓練が完了すると、沖縄の知念にあった秘密基地(鹿地もそこに送られた)から米軍輸送機で北朝鮮の奥地に パラシュート降下されていた。後方攪乱作戦であった。
山田善次郎証言によると、鹿地がハイジャックされてここに連れてこられる前、関東軍元参謀と朝鮮人と、日本人青年がハイジャックされてきたそうで、関東軍元参謀はスパイになれと拷問されて首を吊り、朝鮮人は発狂し、青年だけがキャノン中佐の麻薬の運び屋になったという。
鹿地の衰弱がひどく、拷問に耐えきれなくなったのは、東銀クラブの「東川ハウス」と呼ばれた収容所であった。彼は娘に宛てた遺書を書いて、ベルトをシャンデリアにかけて首を吊ったが、シャンデリアが落ちたため果たせず、部屋にあったクレゾール液を飲んだ。
からだ中にどす黒い汚物をつけて、便器に顔を突っこむようにして、フイゴが鳴るようにぜーぜー苦しんでいた、瀕死の鹿地を助けたのは、キャノン邸住み込みコックで、キャノンの命で東川ハウスに応援に来ていた山田善次郎青年であった。
山田は鹿地が回復するのを待って、鹿地から託された手紙を持って、神田の内山書店に駆けこみ、社会党の国会議員、猪俣浩三〈イノマタ・コウゾウ〉を通じて、国会で問題化してもらうことに成功した。沖縄の知念基地で殺される寸前、鹿地はキャノン機関によって東京に連れ戻されて、神宮外苑の路上に放り出される。
鹿地ハイジャック事件は、講和成立後に起こった事件であった。
山田善次郎は私にこう語った。
「本郷の旧岩崎邸は本郷ハウスと呼ばれていましたが、田中栄一警視総監や斎藤昇国譬〔国家地方警察本部〕長官、内閣調査室長〔内閣総理大臣官房調査室長〕の村井順さんなどがよく来ていました。キャノンは彼らを呼びつけておいて長いこと待たせ、歯ブラシをくわえて出てくる。いちばんよく来たのは、児玉機関の吉田彦太郎(前出、洋上会談に向かう近衛〔文麿〕首相暗殺のため、横浜・六号橋鉄橋に時限爆弹を仕掛けようとした)でしたね。
キャノンは、麻薬中毒者で、ガンキチでした。砲弾の薬莢〈ヤッキョウ〉で造った灰皿を壁に立ててビストルを撃ちまくる。カラスが飛んできてもライフルで撃ち落とす。猫の首を摑んで絨毯の上を引きずり回して、猫の敵愾心〈テキガイシン〉を訓練する。ブラック・ジャックはキャノン機関の全員が持っていました。三十センチくらいの一枚革でできていますが、握りは細くてよく撓り〈シナリ〉、先の革の中には鉛の散弾が入っています。あれで叩かれると唸り声というより、うめき声を上げて失神します。
日時を明確に記憶していないのが残念ですが、下山事件が起こったころでした。工兵が着るような作業着姿のキャノンが、横浜CIC(対敵情報部)のエイブラハム少佐と数名の工作隊員と一緒にジープで帰宅してきました。雨が降た朝だったことは憶えています」
私は何度もこの朝の日時を思い出させようとしたのだが、山田善次郎の記憶は蘇ってこなかった。
その後、キャノンをインタビューしようと考え、国防省にアドレスを調べてもらったところ、キャノンは帰国後、軍法会議にかかり、年金(軍人恩給)が一時停止になっていたことを知った。年金支給は復活したそうだが、受取り先はテキサスの郵便局のメイルボックスになっており、接触しようがなかった。〈258~261ページ〉
大森実『日本はなぜ戦争に二度負けたか』(中央公論社、1998)から、「国鉄総裁下山事件のミステリー Ⅱ」を紹介している。本日は、その五回目(最後)。昨日、紹介したところのあと、一行アキがあって、そのあと次のように続く。
鹿地亘(本名、瀬口貢)は、東大卒業後、小林多喜二(留置場で殺害された)の薦めで、共産党に入党、「戦旗」編集長をしていたが、魯迅に憧れて上海に渡り、内山書店主、内山完造の家に身を寄せた。魯迅の死後、上海は戦火に見舞われ、魯迅の未亡人宅に匿われたが、孫文未亡人の宋慶齢の手引きで、香港を経由して重慶に入った。
延安にいた野坂参三と連絡を取って、日本人反戦連盟の活動家として、華中戦区で反戦活動をやった。終戦後、彼が帰国したときは野坂に劣らぬ英雄扱いを受けて、作家活動を再開した。
鹿地がメディアから姿を消したのは、彼が肺結核にかかり、国立淸瀬療養所で肋骨七本を切除する胸郭成形手術を受けたからであった。
鵠沼〈クゲヌマ〉の友人の別荘を借りて療餐中のことだった。彼が散歩に出たとき、近づいてきた一台の自動車が彼の真横で停まると、車内から飛び出してきた緑の軍服を着た二人の米軍人が、鹿地の腹にブラック・ジャックらしき凶器で一撃を加えて車内に押しこんだ。車の助手席にいたのが、対敵情報部特殊工作隊のキャノン中佐であった。
鹿地がハイジャックされた先は、渋谷代官山にあった大理石と豪華な絨毯の旧五島慶太邸で、ここでアメリカのスパイになれとする拷問が始まった。キャノン中佐は、「結核は治してやるが、お前を痛めつける方法はある。薬でやるんだ」と脅かした。
キャノン機関は、本郷の旧財閥・岩崎邸や東横線・新丸子の東京銀行社員クラブなどを徴発して秘密拠点にしていた。朝鮮戦争が始まっていたので、そこには朝鮮の前線から連れてこられた中国兵や北朝鮮軍兵士が収容されていた。
彼らはキャノン機関によって特殊訓練が施され、訓練が完了すると、沖縄の知念にあった秘密基地(鹿地もそこに送られた)から米軍輸送機で北朝鮮の奥地に パラシュート降下されていた。後方攪乱作戦であった。
山田善次郎証言によると、鹿地がハイジャックされてここに連れてこられる前、関東軍元参謀と朝鮮人と、日本人青年がハイジャックされてきたそうで、関東軍元参謀はスパイになれと拷問されて首を吊り、朝鮮人は発狂し、青年だけがキャノン中佐の麻薬の運び屋になったという。
鹿地の衰弱がひどく、拷問に耐えきれなくなったのは、東銀クラブの「東川ハウス」と呼ばれた収容所であった。彼は娘に宛てた遺書を書いて、ベルトをシャンデリアにかけて首を吊ったが、シャンデリアが落ちたため果たせず、部屋にあったクレゾール液を飲んだ。
からだ中にどす黒い汚物をつけて、便器に顔を突っこむようにして、フイゴが鳴るようにぜーぜー苦しんでいた、瀕死の鹿地を助けたのは、キャノン邸住み込みコックで、キャノンの命で東川ハウスに応援に来ていた山田善次郎青年であった。
山田は鹿地が回復するのを待って、鹿地から託された手紙を持って、神田の内山書店に駆けこみ、社会党の国会議員、猪俣浩三〈イノマタ・コウゾウ〉を通じて、国会で問題化してもらうことに成功した。沖縄の知念基地で殺される寸前、鹿地はキャノン機関によって東京に連れ戻されて、神宮外苑の路上に放り出される。
鹿地ハイジャック事件は、講和成立後に起こった事件であった。
山田善次郎は私にこう語った。
「本郷の旧岩崎邸は本郷ハウスと呼ばれていましたが、田中栄一警視総監や斎藤昇国譬〔国家地方警察本部〕長官、内閣調査室長〔内閣総理大臣官房調査室長〕の村井順さんなどがよく来ていました。キャノンは彼らを呼びつけておいて長いこと待たせ、歯ブラシをくわえて出てくる。いちばんよく来たのは、児玉機関の吉田彦太郎(前出、洋上会談に向かう近衛〔文麿〕首相暗殺のため、横浜・六号橋鉄橋に時限爆弹を仕掛けようとした)でしたね。
キャノンは、麻薬中毒者で、ガンキチでした。砲弾の薬莢〈ヤッキョウ〉で造った灰皿を壁に立ててビストルを撃ちまくる。カラスが飛んできてもライフルで撃ち落とす。猫の首を摑んで絨毯の上を引きずり回して、猫の敵愾心〈テキガイシン〉を訓練する。ブラック・ジャックはキャノン機関の全員が持っていました。三十センチくらいの一枚革でできていますが、握りは細くてよく撓り〈シナリ〉、先の革の中には鉛の散弾が入っています。あれで叩かれると唸り声というより、うめき声を上げて失神します。
日時を明確に記憶していないのが残念ですが、下山事件が起こったころでした。工兵が着るような作業着姿のキャノンが、横浜CIC(対敵情報部)のエイブラハム少佐と数名の工作隊員と一緒にジープで帰宅してきました。雨が降た朝だったことは憶えています」
私は何度もこの朝の日時を思い出させようとしたのだが、山田善次郎の記憶は蘇ってこなかった。
その後、キャノンをインタビューしようと考え、国防省にアドレスを調べてもらったところ、キャノンは帰国後、軍法会議にかかり、年金(軍人恩給)が一時停止になっていたことを知った。年金支給は復活したそうだが、受取り先はテキサスの郵便局のメイルボックスになっており、接触しようがなかった。〈258~261ページ〉
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