◎幕末の世相批評(「いろは短歌此節浮世の噂」全句を紹介する)
昨日のコラムで、「今世いろは譬喩」を紹介した。今日は、幕末の一八六二年(文久二)に作られたと思われる「いろは短歌此節浮世の噂」を紹介する。出典は、桜木章『側面観幕末史』(啓成社、一九〇五)。
ちなみに、この一八六二年(文久二)という年は、坂下門外の変で、老中・安藤信正が襲撃され、島津久光が勅使・大原重徳とともに東下するなどの出来事があった年である。
い 犬も歩けば棒にあたる 島津和泉〔久光〕
ろ 論より証拠 此節の御取込
は 花より団子 当時桜田橋
に 人〈ニン〉を見て法をとけ 大橋順蔵牢舎
ほ 骨折損の草臥〈クタビレ〉もふけ 水浪 関新之助〔ママ〕
へ 尻をひつて尻つぼめる 備前岡山
と 年寄の冷水 もふけ役人 乗切登城
ち ちりもうみ山 諸老中公用人
り 良薬は口に苦し 長州の談話
ぬ 盗人の昼寝 京都より数多の浪人
る るりもはりもてらせば光る 水野和泉
を 女賢しくして牛うりそこなふ 大奥 姉小路
わ われ鍋にとじ蓋 橘に 尾公の妹
か かつたいのさかうらみ 公家衆
よ よしのすいから天のぞく 諸役人
た 旅は道づれ 久世〔公周〕上京
れ 礼儀過れは〈スギレバ〉無礼となる 御則衆 薬師□〔一字不明〕
そ 総領の甚六 若州の嫡
つ 月夜に釜を抜かれる 備前松山
ね 念には念をいれ 御譜代大名家来
な 泣つらを蜂がさす 姫路
ら 楽あれば苦あり 久貝因幡
む 無理が通れば道理ひつこむ 評定所 大橋順蔵捌〈サバキ〉
う うそから出た誠 御殿山異人館
ゐ 井の内の蛙 明石
の 咽もと過ればあつさ忘るる 安藤〔信正〕出勤
お 鬼にかな棒 夷人応接 水野〔忠精〕 板倉〔勝静〕
く 腐ても鯛 内藤紀伊〔信親〕
や 藪から棒 講武所 外国奉行 上京
ま まくるは勝 故 堀織部
け 毛を吹て疵を求む 安藤一藩
ふ 〔アキ〕
こ 子は三階の首かせ 水戸隠居の子供
え 得手に帆を上げ 外国人
て てい主の好な赤ゑぼし 和宮様 御下向
あ あたま隠して尻かくさず 講武所教授 水道○一件〔○はママ〕
さ 三へん廻つてたばこにしよ 無人島帰り役人
き 聞くは当座の恥 大御英断
ゆ ゆだん大敵 薩州一条
め めくら蛇におぢず 黒川備中〔盛泰〕
み 身から出た錆 中川家来
し しらぬが仏 水戸隠居
ゑ ゑんはいなもの 安藤より久世え 縁組願
ひ びんぼうひまなし 此節の公家
も 門前の小僧習はぬ経を読む 若年寄
せ せに腹はかへられぬ 御目付方
す すいが身をくふ 当時の 紀州公
京 京に田舎あり 横浜の遊女屋
使われているのは、ほとんどが、いわゆる「江戸いろは」である。
さて、この「いろはかるた」による世相批評も、今日となっては、きわめて解釈が難しい。ただ、これが作られた年代は、だいたい見当がつく。
「咽もと過ればあつさ忘るる」(安藤出勤)とあるので、老中・安藤信正が坂下門外の変(文久二年一月)で重傷を負ったあとで、しかも、おそらくはまだ、老中の地位にあったころに作られたものと思われる(同年四月に老中免職)。
また、「旅は道づれ」(久世上京)とあるので、老中・久世公周の上京問題が話題になっていたころに作られたものであろう。勅使・大原重徳が京都を発って江戸に向かったのは、文久二年五月であった。これは、老中・久世公周が、朝廷からの上京要請に応じなかったために取られた策であった。
ということで、この「いろはかるた」が作られたのは、文久二年の前半、おそらくは、同年の四月前後だったのではないか。
この「いろはかるた」の解釈について、諸賢のコメントを期待する。
今日の名言 2012・7・20
◎「きょうよう」と「きょういく」が大事
本日の日本経済新聞「大機小機」欄より。署名は「追分」。リタイアしたシニア世代がヒマを持て余すと、「今日用事がある」、「今日行く所がある」ことを求めることになる。「今日の日本の社会を立て直す」ために、「シニアの活躍」に期待するというのが本日の同欄の趣旨である。「追分」さんもシニア世代なのだろうか。