◎柳田國男と天神真楊流柔術(西郷四郎と柳田國男の意外な接点)
定本柳田國男集の別巻に載っている「年譜」によれば、柳田國男(当時は松岡姓)は、一八九〇年(明治二三)の冬、茨城県布川町から上京し、兄・井上通泰の家(東京市下谷区徒士町)に同居した。そこから図書館に通って雑読を続ける一方、「柔道」も習いはじめた。このとき、数え一六歳、すでに高等小学校は出ていたが、健康がすぐれず、学校には通っていなかった。「柔道」をはじめたのは、健康対策の意味が大きかったと思われる。
この当時のことを柳田は、『故郷七十年』のなかで、次のように回想している。
私は柔道だけは珍しく早くからやっていた。次兄〔井上通泰〕は嘉納治五郎さんよりもう一つ前の時代の、やはり井上という名の先生についていたので、それについて私も通うようになった。天真神揚流といって嘉納さんもその先生についたという評判であった。道場は大学から池の端〈イケノハタ〉へ出る途中、天神下〔湯島天神下〕の吹抜〈フキヌキ〉横丁という所にあった。大学生がたくさんいたが、私としては東京へ来てからいちばん新しい経験であった。晩飯を少し早目に食べて出てゆくのだが、広小路〔上野広小路〕を横切って行く時、夜店があったりして、もちろんいまより汚かったはずなのに、美しく思いながら往復した。
私の柔道はただ転んだ時に頭を打つようなことさえなければいいと、最小限度の目的をもつばかりで、仲間がどんどん上手になっても、いっこう平気であった。その時の稽古仲間がいまだに一人拙宅へやって来る。宮本さんという、私より一つ年上で、火災保険の取次店をしている人である。
この町道場の経験があったので、私は高等学校でも寒稽古に行った。来ている仲間は、乾政彦を除けばたいてい上級の体のいい連中ばかりであった。【以下略】
引用は、朝日選書版より。文中、「天真神揚流」とあるが、「天神真楊流」〈テンジンシンヨウリュウ〉が正しいようである。
柳田は、「柔道」と言葉を使っていた。しかし、柳田が習った「天神真楊流」は、厳密に言えば、柔道ではなく柔術である。柔道というのは、「講道館柔道」の普及とともに広まった言葉である。天真神楊流柔術は、講道館柔道の創始者・嘉納治五郎も学んだ伝統ある柔術であった。この当時、天神真楊流が、みずからの柔術を「柔道」と呼ぶことはなかったと思う。
天神真楊流の道場は、神田於玉ヶ池〈オタマガイケ〉にあり、嘉納治五郎はここで、宗家三代目の磯正智〈イソ・マサトモ〉から天神真楊流を学んだという。
井上通泰および柳田國男がついた「井上という名の先生」というのは、天神真楊流の井上敬太郎を指す。井上敬太郎は、磯正智の高弟で、湯島天神下に井上道場と呼ばれる道場を持っていた。柳田もここに通ったのである。この道場は、「鬼横山」と称された横山作次郎、「姿三四郎」のモデルとされる西郷四郎らを輩出した名門道場であった(横山・西郷は、のちに講道館に入門)。
嘉納治五郎が、直接、井上敬太郎に師事していたかどうかは、不詳(柳田は、「嘉納さんもその先生についた」と言っている)。ただし、西郷四郎は、井上道場にいたところを、嘉納治五郎に見出されたとされている。それが事実だとすれば、嘉納は井上道場に出入りしていたことになる。
いずれにせよ、柳田國男から見れば、横山作次郎や西郷四郎は、同じ道場の先輩にあたり、嘉納治五郎は、同流の先輩にあたるわけである。あまり指摘されることもないことだと思うので、一言、書きとめてみた次第である。
今日の名言 2012・7・18
◎ただの同級生は私を柔弱なヤツと思ったかもしれない
柳田國男の言葉。『故郷七十年』(朝日選書、1974)207ページより。第一高等中学校に入学した柳田は、さっそく級友から「お嬢さん」というアダナをつけられたという。おそらく級友は、柳田の気性の激しさを知らなかったのであろう。もちろん、柳田が、屈指の名門道場で柔術を学んでいたことも。