礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

福地桜痴の「性格悲劇」(柳田泉の桜痴論を読む)

2012-07-23 05:41:55 | 日記

◎福地桜痴の「性格悲劇」(柳田泉の桜痴論を読む)

 明治期の新聞記者・福地桜痴(一八四一~一九〇六)の代表作に『懐往事談』という史論があるが、その改造文庫版(一九四一)は、きわめて貴重な史料である。第一に、柳田泉による長文の解説「桜痴居士の『懐往事談』について」が付されている。第二に、あちこちに伏字〈フセジ〉があるからである。
 この伏字は、おそらく検閲を意識した「自主規制」であろう。一八九四年(明治二七)の初版で表現できても、一九四一年(昭和一六)においては、表現しにくくなっていた言葉や事柄があったということである。数年前、どういう言葉、どういう事柄を伏せようとしたかを調べてみたことがあった(拙著『攘夷と憂国』終章参照)。非常に興味深い経験であったが、今は、それについては述べない。
 ここでは、同文庫版の巻末にある柳田泉の解説を紹介してみよう。この解説は三節からなるが、その「二」の部分を紹介する。かな遣いなどは、少し直した。

 私は、この文章の最初のところで、不遇な晩年といった。しかし桜痴の不遇は、四十代から始まるのである、つまり四十代の初めまで、明治十七八年まではすこぶる不遇であるが、それ以後は一年一年不遇になってくる。いな、不遇は不遇だけですまず、しきりに不評を伴ってくる、そうしていろいろな不幸も加わる。前半生の華やかなのに引き換え、後半生は、文字通りの才人の落托〔おちぶれること〕ということになり、気の毒ずくめの中で死んでしまった。
 私は昭和十年〔一九三五〕の一月、桜痴居士の三十年忌に一文を認めて〈シタタメテ〉、いささか居士のために弁じたことがあったが、まったく居士は気の毒な人である。それで、この機会に、右の一文の中から一節を借用して、その気の毒だというわけをもう一度おさらいしよう。
 豊富な才能とか聡明絶倫とかいう点からいっても、その生涯に成就した仕事の分量や種類からいっても、桜痴居士は、たしかに常人が梯〈ハシゴ〉をかけても及ばないところがある。官人として、記者として、文章家として、政治家として、学者として、劇界の人として、小説家として、それぞれ自家の特色を発揮して、そのある方面では優に明治時代第一流の人材たる実〈ジツ〉を示し、その得意でない方面でも、第二流を下らぬ才力〈サイリョク〉を現わして万能選手の意気を見せている。だのに、人は、その能は認めても、その人を買おうとはしない。折角の三面六臂の働きも額面通りに通用しなかったのは、何故であろう。それは、桜痴居士自身の不徳のためだ、不品行のためだ、彼の放蕩と売節〔節操を曲げること〕のせいだ、彼の運が悪いのだ、云々〈ウンヌン〉と世人は答えるかもしれない。一応はその通りである。いかにも彼は不徳であった、不品行であった、放蕩も甚しかった、売節もした、不運でもあった。だが、そういっても、まだ割りきれないものが、彼を気の毒がる私の胸に残っている。不徳不品行が桜痴以下とはいえない人でも、立派に明治史上第一流の名を残している人がある。放蕩といっても、彼は時流の一人であったのみ、皆が皆、もっとひどいことばかりやったのである。売節はなるほど悪い、弁護の余地はない(その事実は、『新聞紙実歴』を見られたい)、それは公然とかつ無邪気にやったから、人目立って〈ヒトメダッテ〉いるところが多いのだ。暮夜〈ボヤ〉密かに権門の金を握った人は、当時清白の名をとった人々にも随分あったのだ。運不運といっても、運はその人の意志次第である程度まで左右できるものだから、それだけでもない。私は、桜痴の場合は、一つの典型的な性格悲劇だといいたい。彼はつまるところ、弱かった、意志の力を欠いていた。

 このあと、柳田泉の筆は、さらに福地桜痴という人物の核心に迫ってゆくが、これは次回。【この話、続く】

今日の名言 2012・7・23

◎幼少の居士は天才的早熟児であつた

 柳田泉「桜痴居士の『懐往事談』について」(1941)より。桜痴居士、福地源一郎、名は萬世〈ツムヨ〉、1841年(天保12)、長崎本石灰町〈モトシックイマチ〉に生まれる。4歳で「三字経孝経」を誦し、12歳のとき、漢文で『皇朝二十四孝』という一書を著したという。

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