礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

中山太郎と折口信夫(付・中山太郎『日本巫女史』)

2012-07-02 04:25:43 | 日記

◎中山太郎と折口信夫

 中山太郎の『日本巫女史』〈ニホンフジョシ〉の新版が、国書刊行会から刊行された。一昨日の六月三〇日、東京・神田神保町の書泉グランデの店頭に置かれているのを見た。本年六月発売ということは聞いていたが、同書を本屋さんで見るのは、それが初めてだった。
 この大著にして名著は、これまでも何度か「影印版」という形で復刻されてきた。しかし、全文新組みという形の新版が刊行されるのは、今回の国書刊行会版が初めてである。一九三〇年(昭和五)の大岡山書店版から、実に八二年、泉下の中山太郎も喜んでいることであろう。
 ところで、同書の第一篇第五章の〔註三五〕には、次のようにある(国書刊行会版、二一四~二一五ページ)。
―永年かかって集めた資料、もう執筆に不足もあるまいと整理して見て、自分ながら貧弱なるのに驚き、書信をもって未見曽識の先輩及び学友を煩〈ワズラワ〉し、誠に恐縮に堪えぬ次第である。ただこの結果私が案外に思ったことは、厚誼を頂いているお方ほど返事をくれぬ片便り、未見のお方が却って懇切に示教された点である。この不平を折口信夫氏に語ったところ、氏の曰く「中山君は友人から返事をもらうだけの人徳のある方ではないよ」と一本正面から参らせられたが、私はこれに教えられて、頂いた芳信の返事だけは必ずすぐ書くようになった。―
「厚誼を頂いているお方ほど返事をくれぬ片便り、未見のお方が却って懇切に示教された」とあるが、本当にそうである。私にも、似たような体験がある。
 しかし言いたかったのは、そんなことではない。この中山の「不平」に対して、折口が返した言葉がいかにも傲慢ではなかったかということなのである。
 中山太郎は一八七六年(明治九)生まれ、折口信夫は一八八七(明治二〇)である。折口は、年齢が十一歳も年長の先輩に向かって、「中山君は友人から返事をもらうだけの人徳のある方ではないよ」という、傲慢この上ないクチのきき方をしているのである。
 たしかに折口の才能は、短歌においても国文学・民俗学においても、中山を凌駕していた。共通の師である柳田國男も、折口については、その才能を高く評価し、一目おく感があった。一方、中山太郎は、日ごろから、その率直な(粗野な)言動ゆえに、周囲から疎まれる傾向がなくもなかったようである。しかし、そうだからと言って、折口が、年長の先輩に向かって傲慢なクチをきいてよいというものではない。
 中山と折口のこうした「関係性」は、あるとき、ひとつの「事件」に発展した。
 一九三四年(昭和九)一二月、中山太郎が、自著『日本盲人史』の出版祝賀会の席上で、折口信夫に対して吐いたチョットした皮肉が、折口を激怒させたのである。
 この事件について、中山太郎研究家としても知られる中島河太郎(ミステリー小説評論家)は、次のように紹介している。出典は、中島「中山太郎伝」(『校註諸国風俗問状答』復刻版、パルトス社、一九八九所収、初出は一九八五)である。
―昭和八年〔一九三三〕に中山は資料カードをもとにした「日本民俗学辞典」を刊行したが、その内容見本に折口は「日本民俗学界の金字塔」として推薦している。/その翌九年七月に中山は「日本盲人史」〔昭和書房〕を刊行した。彼は大正五年〔一九一六〕にも「日本盲人史の一節」を「歴史地理」に発表し、十年には一冊分を脱稿したにもかかわらず、先輩に不傭を指摘されたので筐底〈キョウテイ〉に蔵していたが、ここに筆硯〈ヒッケン〉をあらためて、懸案を達成した。十二月に国学院の郷土研究会が主催して出版祝賀会が開かれたが、その席上の挨拶で、折口がもっとも盲人史の研究に関係の深い久我家〈コガケ〉の文書を見せてくれず、意地悪をしていているといわぬばかりの挨拶をした。それが終わるやいなや、折口はその文書を持って、この資料は自分も利用しないで焼き捨ててしまうと怒った。/長年の交友で折口も中山の盲人史研究を知っていたはずであるが、この重要な文書を入手したことを告げなかった。/折口は当日怒ったものの、中山が陳謝したので資料を提供したため、二年後に「続日本盲人史」で追補し、それを折口にまず捧げた。だが、これを機として中山は郷土研究会に招かれなくなり、代りに伊波普猷〈イバ・フユウ〉が参加するようになった。―
 この事件については、いろいろな見方が可能である。しかし私は、中山が盲人史の研究をしているのを知りながら、彼に重要資料を見せず、そのことで皮肉を言われて、「この資料は自分も利用しないで焼き捨ててしまう」と怒る折口に、ある種アブノーマルなものを感じとる。
 さて、右引用にあった『続日本盲人史』(昭和書房)は、一九三六年に刊行された。その冒頭には、「本書を先づ折口信夫氏の御覧に供へ候」という献辞がある。
 同書の「巻頭小言」は、「それは、本当に私の迂濶であった。二十数年来、学友として厚誼を重ねてきた折口信夫氏が、当道に関する『久我家関係文書』を、所蔵しておらるることを全く知らなかったのである」という言葉で始まっている。この「巻頭小言」は、一応、折口を立ててはいるが、そこに私は、折口に対する中山の屈折した感情を読みとる。この重要な文書の存在を、なぜ教えてくれなかったのか、なぜ自分にそれを見せてくれなかったのか。中山は、折口に対して、そういう割り切れない気持ちを抱き続けていたのであろう。
 それにしても、中山太郎は、「後輩」の折口信夫に対し、なぜ下手〈シタデ〉の態度に終始したのだろうか。

今日の名言 2012・7・2

◎昔からこの日に村を出る者は、再び家に帰えらぬという俗信がある

 民俗学者・中山太郎(1876~1947)の言葉。『日本巫女史』の「巻頭小言」より(国書刊行会版2ページ)。中山太郎が、学問を志し、「再び家に帰えらぬ」決意で、栃木県足利郡梁田村の故郷を出たのは、1897年(明治30)1月7日のことであった。

*雑感とご挨拶* 本年5月末に、ブログを開設し、ほぼ毎日更新してきた。6月にはいってからは何とかペースをつかみ、6月の更新は、ついに「皆勤」。書きたいテーマ・材料は意外にあるもので、おそらく今後も、ネタ切れのために「お休み」ということはないと予想する(やむをえぬ事情で、お休みする可能性はあります)。当ブログへのアクセスは、日によって大きく増減する。「アクセス解析」を申し込んでないので、詳しいことはわからないが、こうした増減は、曜日とは無関係で、その日に更新した記事に左右されるという印象がある。先月、最も自信を持ってお送りした「ワラの揉み音はノックの代り」(6・25)は、惨憺たる成績におわった。逆に、ほんの思いつきで書いた「誰にも読めない漢字熟語」(6・25)は、驚くほどアクセス数が多かった。かなり特殊なテーマであるにもかかわらず、「血液型論争と長崎医科大学事件」(6・29)も、意外にアクセス数が多かった。今後、このあたりを参考にしながら、記事を更新してゆきたいと思います。ただし、多くの人が気づかない事実、多くの人が関心を持たないテーマにこだわる姿勢は、これからも堅持してゆく所存です。

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